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私の履歴書 蓑輪善藏-その6-戦後自由思想と中央度量衡検定所の息吹
![]() 写真は蓑輪善藏氏 私の履歴書 蓑輪善藏-その6-戦後自由思想と中央度量衡検定所の息吹 全商工労組と中検分会 敗戦は、自由思想の謳歌から軍国主義への反動として共産主義の台頭、共産主義政党の躍進には目を見張るものがありました。官庁にも全官労が組織され、商工省にも全商工という労働組合ができ、その下に都内の試験、研究機関を集めた関信支部ができ、中検もそれを構成する分会として組合が誕生しました。 小泉・間宮さんらが中心に はじめは技師以外が組合員だったように思いますが、組合運動での中心的存在は小泉袈裟勝さん、間宮修一郎さん、戦場からの復員者と若い共産党員やそのシンパ、或いは熱烈な軍国主義者から一転共産主義者となった人たちで、共産党員やそのシンパの人たちは組合運動の先頭に立っていました。 私は青年部長に 全官公の1946年末からの賃上げ闘争は翌年2月1日の所謂2・1ストとなり、そしてマッカーサーの中止命令となりましたが、この頃の組合には青年部が作られていて、私も青年部の部長を引き受けさせられて、圧力計のメーカーにゼネストの説明に駈け回ったりしていました。 組合の役員も何度か勤めさせられましたがなんとなく冷めたところがあって、昨日までの主義主張を突然と変えるほどの意識もなく、意味も感じないまま過ごしていたように思います。 東大卒の入所が相次ぐ 1947年になると東京大学卒業の人も入所してくるようになるし、1947年、48年には多くの人が入所してきました。加藤芳三さん、川田裕郎さん、増井敏郎さん、坂倉知巳さんや、専門学校出の村田守さん、角田和一郎さん、金田良作さん、天野重昭さん、渡辺修一さん、吉田彰二さん等々の人々でしたが、この頃は人の出入りが激しい時代でした。 本宮大介さんの移籍 度量衡行政官として海南島に赴任していた高橋凱さん、原田祐之さんと本宮大介さんが復員したのが1946年の早い時期だったと思いますが、4階に寝泊りしていた本宮さんが中検から日本度量衡協会に移ったのがこの年の10月頃でした。 確か小泉さんと本宮さんの発案だと思いますが、中検内の親睦団体である協和会の事業として、本宮さん名義で収入印紙と切手、それにタバコの販売を始めたのもこの少し後でした。タバコの販売は直ぐに取りやめましたが収入印紙と切手の販売は検定手数料の納付が収入印紙でしたので継続され、数年後からは検定数の増加とともに販売手数料も増え、協和会にも相当額の販売手数料が入金される様になり、観劇、運動会或いは講演会の開催など所員の福利厚生に随分と役立ちました。 講習室に寝泊まり サツマイモの買出しなどを主催した庄司行義さんが厚生係長で、食糧が不足していたこの時代に、協和会からとして1、2ケ月おきにA液、B液と称したビール瓶一本宛のエチル・アルコールと白絞油が配られていました。 名義は多分、圧力計、温度計と浮ひょうの検定用でしょう。この頃になると兵役から復員してくる人も多くなってきましたが、住む家もままなりませんので4階の講習室に寝泊りする人が増えてきました。 講習室に寝泊りしていた人々は、前掲の人達のほか、小川了さん、深津惣太郎さん、立川喜久夫さん、小泉袈裟勝さん、川村竹一さん、中原喜敏さん、川田裕郎さん、関口秀雄さんなどでした。 麻雀と卓球に興ずる 騒然としていた時代で収入もインフレに追いつかず食べるのが大変な頃で、娯楽もなく兵隊から帰った人々を中心にアルコールを飲んでは夜遅くまで騒いでいました。 兵隊から帰った元気な人たちは、立川喜久夫さん、川村竹一さん、古関武雄さん、岡山憲一さん、山田夏雄さん等でしたし、女子群と交流していたのは、坂本さん、福島良蔵さんを中心としたグループでした。 麻雀全盛というか、2階の宿直室は2つ、3つと卓が並び、タバコの煙で充満した中でチイ、ポンが飛び交っていました。 私などは麻雀の仲間に入ったり、別館4階の食堂にあった卓球台で、沓澤寛さんと雌雄を決していたり、それでなければ、アルコールの仲間になって騒いだりしていました。川村さんが盲腸炎になり新橋の菊地病院に連れて行くのが大変だったり、泥棒が入り、洋服を盗まれた人が出たり、小泉さんが東海林太郎の物まねをしたり、ヴォルガの舟唄やステンカラージンを教えていたのもこの時でした。その中で、エチオピアの国歌は東京オリンピックで皮がはがれました。 転職した人々 敗戦後の東京は食糧の調達が大変だったことも原因の一つだったのでしょうが、技師の下で実務を担当していた古参技手の方々の転職が多くなり、友森肇さん、森安寿さん、桑田幸男さん、安並博さん、山本保さん、谷澤勝二さん、竹内喜一郎さん、北村品市さん、小池清さん、内田牧さん、加藤容三さん等々が中検を去っていきました。 この頃の私は、谷川さんとの間に堀越さん、川村さんがいるため、責任をもつことも無く、検定をしていればよく、気楽なもので他所の係りへ遊びに行き、野球やテニスの相談ばかりしていました。 谷川さん排斥運動 計圧器係では係員の数も多くなったため谷川さんの小言も多くなり、横暴だとか、民主的でないとかで反抗的になる人も出るようになりました。 民主化などと言う反対が出来にくい言葉が横行する中で、川村さんを前面に出した谷川さん排斥運動が組合委員長(小泉さんだったように思いますが)を巻き込んで始まりました。早くから、谷川さんとの信頼関係を得ていた私としては蚊帳の外的存在ではありましたが時代の流れかとも思っていました。 谷川さんの小言は、それは「しつこい」ものでしたが仕事上のもので、間違いなく仕事をするための約束事が殆どだったように思いますし、上司を含めた外から指摘されないためのものだったように思います。確かにワンマンで何時雷が落ちるか分りませんでしたが、外に対して係員をかばうことも並大抵ではありませんでした。 谷川さんは建築を専攻していたようですが、身体に似合わず器用な人で試験機の修理などは完璧だし、手先は器用、作った試験機は特に使いよいものでした。排斥運動が功を奏してか谷川さんが、量衡器係長に移ると共に堀越さんと川村さんも計圧器係を離れ、石井節三さんが係長になり、私もまた次席に戻ってしまいました。 石井さんは年配ではありましたが、中検外からの人でしたし、次に係長になった鈴木豊明さんも名古屋支所からの人で、お二人ともなじむのが大変だったと思います。感化院といわれた係で、若い、油だらけの男ばかり、私など係員を扇動しては係長に反抗してばかり、随分と小面憎く扱いにくい男と思われていたでしょう。 1948年戦後最初の第40期度量衡講習が始まり、この年、圧力計検定の実習を担当した筈です。この期には20人近くの後に検定所長になられた方々が居られました。 軟式テニス部を作る 1947年頃からは戦時中とはうって変わり急速に社会が変化し始め、いろいろのものが復活し、また新しいものが出てきました。 スポーツなどはその最たるもので、工業技術庁傘下の試験所を集めた野球、卓球、軟式テニス、バレーボールなどの大会が始められたのもこの頃でした。戦前の中央度量衡検定所には野球部があり写真なども残っていましたが、この頃では道具もなくグランドの手当ても出来ず休部状態でした。 若い人たちの入所もあり、練習はキャッチボール程度でも、スポーツの好きな人は多く野球チームを作って業者との対抗試合や工業技術庁の大会に出たりしました。卓球、テニス、バレーボールの趣味の会が結成されましたが、この中で一番大変だったのが軟式テニスで、経験者が殆どいない中で、大学時代に硬式テニスをしたことがあった宮尾公美さんと、経験者の坂本さんと軟式テニス部を発足させ、部員を募集したところ20人も集まったのには少々驚きでした。 当所には早くから囲碁部のような趣味の会があり協和会が認めた会には協和会から備品購入の補助が出るようになっていました。 その対象に野球部、卓球部、軟式テニス部、バレーボール部も加わり部活動も軌道に乗ってきました。私などは工業技術庁の大会があると何にでも引っ張り出され大会に参加していました。 計量器の勉強会始まる こんな中でも30才前後で中堅と言われていた小泉袈裟勝さんと間宮修一郎さんとが、若手を集めて各係が担当する度量衡器、計量器についての勉強会を開くなど足を地に付けた会も始まっていました。 最初は各係の担当する器種を次席クラスが、構造、性能、問題点などの説明からはじめられました。その中でばね式秤のばねについての検討やバイメタルを使った温度補償などが話し合われたことが思い出されます。私などもブルドン管の動的疲労のデーターを取ったりしていました 計圧器係長の辞令 1949年6月的場所長が退任し工業技術庁標準部長の横山不学氏が所長に就任しましたが、建築専攻のしかも外部からの所長は初めてのことで、工業技術庁内の権力争いとか、一時的な腰掛とか、所長人事の絡みとかの噂が飛び交いました。 総務部長の席にあった玉野さんが実権を握っていたようですが、9月、突然と所長室に呼ばれ、玉野さん同席の下高橋照二さんに量衡器係長の、私に計圧器係長の辞令が渡されました。何も知らされていなかったので、びっくりしたと言うのが実感でした。 この時高橋さんが25才、私が24才で最も若い係長でした。計圧器係の係員は、渡辺修一さん、高橋政雄さん、伊勢善一さん、岩田成敏さん、関口浄一さん、園田さん、田畑さん等で、少し後に小杉茂さんが配属されてきました。 中村芳子と結婚 次の年の初め中村芳子と結婚し市川市に住み始めました。はじめ、中村家の「離れ家」が空くことになっていたのですが、住んでいる人が出ないため暫くは同居になりました。 ここは借地、借家でしたが敷地は1500平方メートル程でその中に900平方メートル程の池があり、池の半分ほどを睡蓮が覆っていました。 その年の9月末に長女恵子が生まれました。芳子の父中村金蔵氏は土木、建築を業とし、吊り梯子、掘削工法などの特許を持っていたことから、鹿島建設の仕事につきはじめ石油タンク建設に従事していました。 間もなく義父は、真間川際に土地を求めて家を建てて移りましたので、池のある広い借家は私たちが引き継ぐことになりました。この池のある家については、竹やぶから筍が出たり、池には鯉や鮒、手長えびなどがいたり、2メートルにも及ぶ青大将が出たり、長女恵子が通っていた幼稚園から睡蓮を見学に来たり、この家から引っ越す間際には1メートルを越す雷魚を釣り上げ、谷川さんに持っていったり思い出は尽きない数年でした。 家主から退去の要求が出ていたこともあって、菅野の京成分譲地約142平方メートルの土地に約40平方メートルほどの家を、義父に建てて貰い移り住んだのが1955年頃でした。 (つづく) part-6-my-resume-zenzo-minowa-postwarfree-thought-and-breathing-of-the-central-etrology Laboratory-measurement-data-bank- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年01月30日 09時42分22秒
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