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カテゴリ:自然・ネイチャーのおはなし
クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
(ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん) (本文) 「ウオールデン-森の生活」と田渕義雄さんの寒山も森での暮らし 「寒山の森」の田渕義雄さんの暮らしと行動をたしかめた。考えは幾つもの出版物に述べられている。アメリカの古いある思想家は人は自然のなかで身体を目一杯に使うことを説き実践をした。超絶主義者のエマソンや「ウオールデン-森の生活」のソローがそうであった。知識階級に属するこの人たちは自然のなかに身をおくことが大事だと考えた。 虫好きの田渕義雄さんと養老孟司さん 田渕義雄さんは早稲田大学文学部哲学科を卒業している。大学では生物同好会にいて昆虫班だった。蝶をおいかける虫屋であった。蝶を追いかけて林にはいり山にのぼった。田物義雄さんは1944年の生れである。虫好きの人、養老孟司さんは1937年の生れである。二人を対比したくなった。養老さんはゾウムシを採集する。二人とも袋が長い捕虫網を手に山に登った。養老さんは山岳部の同級生よりも歩けたという。目標があるとつよいものだ、というのだ。 燃料販売店の三男と町医者の長男のその後 養老孟司さんの家は鎌倉市である。田渕義雄さんの家は都内の下町である。この時代の日本には昆虫が棲む状況が色濃かった。田渕義雄さんは燃料販売店の三男であり、養老さんは母が開業する医院の何番目かの子で長男だ。虫を長い時間みつめていて、人との会話が下手な養老さんを母親は知恵遅れだと考えて検査させた。 ビー・パル誌の常連執筆者である田渕義雄さんと養老孟司さん 虫にとりつかれる人がいる。田渕義雄さんと養老孟司さんは虫を好いた。この二人はビー・パルという野外生活を題材にする雑誌で指名された常連の執筆者である。虫好きというのが二人に共通したことだが、ビー・パルでは養老さんに虫の話しを求め、田渕さんに野外の遊びのことをもとめた。同じ雑誌の上の常連執筆者という関係は偶然である。養老孟司さんは解剖学者である。脳科学者といったり、ときには哲学者ということもある。田渕義雄さんは哲学の著書をそれとして書いていない。しかし田渕さんが書いたいくつもの本は思想であり哲学を扱っているように理解できる。 田渕義雄さんの著書一覧。 ○寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば ○森暮らしの家 全スタイル ○フライフィッシング教書 初心者から上級者までの戦略と詐術のために ○森からの伝言 ○川からの手紙 ○Viva!薪ストーブクッキング ○21世紀の自然生活人へ―The Cold Mountain’s Letters ○薪ストーブ入門 (自然暮らしの本) ○日本各地で探し出した野遊び道具 ○フライロッドと人生 ○メイベル男爵のバックパッキング教書 大陸を往き来する冬鳥と夏鳥 夏暑く、冬寒い日本の気候である。夏冬それぞれに休養地をもつ暮らしがある。野鳥は渡りをして子を育てる。日本で産卵するのが夏鳥だ。シベリアなどで産卵するのが冬鳥だ。気候が緯度で違うことに対応して鳥は渡りをする。野鳥の生き方だ。 日本の家は夏がつくり北欧の家は冬がつくった 人の生活は自然とともにある。経済、産業も自然とともにあるのだが関わりがみえなくなっている。農業は自然とともにあった。地の恵み、お日さまの恵みによってなりたつ。一つところに暮らす人には、暑さと寒さがついてまわる。夏の暑さが日本の家屋をつくった。北欧の住まいは冬がきめた。石造り、厚い壁、暖炉がそれだ。寒山の森の田渕義雄さんの暮らしは北欧のそれに似る。暖房が要らないのは7月と8月、あえて加えれば6月だ。冬にはマイナス14℃になる。清里にある寒冷地農業の実践のためにつくられた清泉寮も同じだ。建物は冬への備えでできている。薪ストーブの火を見つめているのが好きな田渕義雄さんは、標高が1,400メートルを越える長野県南佐久郡川上村川端下に住居を選んだ。フライフィッシングをしてロッククライミングをするのに都合がよかった。 ハルゼミが鳴く川上村の魚野川源流のこと 6月の川上村で、7月の車山で春蝉(はるぜみ)の声を聞く。ざわざわという声だ。木が揺れるような風がそよぐ音に似ている。ハルゼミは透き通った翅をした小さい身体をしている。霧ヶ峰高原の東のはじにある標高は1,925mの車山の山頂のレーダードーム付近ではハルゼミが降ってくる。人の身体に飛び付く。 雪渓が現れる魚野川源流にイワナを求めて釣りのぼったとき初めてハルゼミをみた。ハルゼミは岩から突き出た枝に留まっていた。魚野川この源流でハルゼミを聞くことがつづいていた。声は聞こえるが姿はみえない。新緑が萌える春の谷で尺イワナを釣った。声がするので見上げるとハルゼミがいた。翅は透き通っていた。解禁直後の雪の中でイワナを追いかけていたのが夏になっていた。 標高の高い山里のでハルゼミが鳴くの季節から、高尾山の山麓でもヒグラシが鳴く夏に移っていたのであった。この高尾山麓の家には犬がいる。犬たちの住まいに高尾山麓荘の表札が打ってある。表札を私の別荘の名だと決め込む人がいる。 津波に遭っても人は釣りをする 寒山の森の釣り人は食べない魚は釣らない 大津波に襲われて間もない東北地方のある漁港に行くと魚市場の前で釣りをする人がいた。どのような状況下でも釣りするのは人間の習性のようだ。津波で破壊され跡形もなくなったところに何時しか家が建ち、壊れた家が復元し、道が整えられていく。人間は働く生き物である。川上村川端下(かわはけ)に棲む田渕義雄さんは林を拓いて畑にした。暖房と煮炊きのための薪(まき)をとる。フライフィッシングの名手である田渕義雄さんは今では釣ったイワナは食べる。食べない魚は釣らない。日本の渓流は釣りをさせるために川に卵を埋め稚魚を放流する。釣ったからといって魚は途絶えることがない。川には商業の仕組みができている。 根気によって家がどんどん変わって自分の思い通りになる 田渕義雄さんはよく働く。少しだけ働いて大きな収入を獲得するというのではない。雑誌ビーパルに文書を寄せ、ときどき本を出す。自給自足の生活を寒山の森でする。身体を動かす。林を切り開いた畑でジャガイモをつくる。燃料のための薪(まき)を用意する。生活の用具をつくる。椅子も机も食器も自分でつくる。。傾斜に打たれた土台の支えのコンクリート製のヒューム管を補強する。新たに土台を打って石を積み上げた。これが地下室の形になった。地下室は木工の場となった。家がどんどん変わっていく。人の手が加わったためだ。 自分のためにつくった家具としてのウインザーチェアー 野外の遊びとは身体を動かすことだ。フライフィッシングもロッククライミングも身体を動かす。フィッシングは漁獲が目的であったかもしれない。岩茸(いわたけ)を採るために人は岩をよじ登った。フライフィッシングもロッククライミングも遊びに転化した。身体を動かす遊びだ。庭の菜園もキノコ穫りも身体を動かすことだ。自分のために身体を動かす。自分のためにつくった家具としてのウインザーチェアーは田渕義雄さんには遊びであった。ウインザーチェアー製作は始めの一つ二つは自分が使うためのものであった。時間が余っているわけではない。その時間を用いてウンザーチェアーをつくるとお金に換えることができる。自分の暮らしを綴ることで原稿料が入る。家具つくりと執筆は田渕義雄さんの車と燃料の費用になる。自分のためだけに身体を動かして生きたい。そのようにできていないのが現代の世の中である。現代の世の中に折り合うために家具をつくる。 一年中レタスを食べるようになった現代人の生活と川上村農業 身体を動かしてレタスを大量に作って人に売ることを川上村の農家はする。寒村にして慎ましやかな暮らしであったのが川上村だ。農家は人がうらやむ収入をあげている。一年中、生野菜としてのレタスを食べる生活をする現代の人々の生活様式は。寒冷の地で生きてきた人々にはレタス栽培は恵みとなった。冬は徳島県などの温暖の地でレタスがつくられる。夏期の6月、7月、8月、9月に川上村や野辺山の農地がレタス栽培を受け持つ。 20脚にとどめているウインザーチェアーつくり 労働を売る、つまり人のために労働することを避けているのが寒山の森の生活者である。ジャガイモを掘り、カボチャとトマトとトウモロコシを穫り、木イチゴや蜂蜜を採る生活は自給自足のための行動としてなされる。好きだからやるウインザーチェアーつくりは年間20脚にとどめている。労働の質が転換してしまうからだ。 「何だ、人生は釣りをしていれば良いんだ」と決めた人がいる ある人は東京大学に入ってその先につながる人生に疑問をもった。東京大学に入学しようとした。叶わぬ望みであることがわかり始めたときのことだ。釣りをしていた。面白い。「何だ、人生は釣りをしていれば良いんだ」と決めた。迷い消えると釣りの世界に突撃した。何時しか釣りの世界で世に認められて一家をなすようになった。蝉(せみ)捕りを喜びとする人がいる。東京、千代田区九段の蕎麦屋の6歳のアキオくんはエンジュの木でジリジリと鳴くアブラゼミは宝物にみえる。捕まえて虫籠をいっぱいにする。無邪気な行動に大人は口を出してはいけない。1960年代末に吹き荒れた騒ぎのなかに田渕義雄さんがいた。虫屋として早稲田大学の生物同好会にいて蝶を追って野山に分け入っていた。この青年は、すり切れた全学連旗を手にして街頭デモの先頭に立っていたのであった。その行動が青年にもたらしたのは果たせっこ酸っぱい思いであった。青年は北米をバックパキングし鱒釣りをするようになっていた。エマソンやソローを意識してしていたのかは不明だ。 嫌な仕事を辞めたら養老孟司さんには景色が明るく見えた 養老孟司さんは定年の5年前に東京大学医学部教授を退官決意し、2年の引き継ぎ期間へ経て辞める。東京大学は不毛の地であると理解するようになっていた。東京大学を辞めたその日の世の中は明るくみえた。こんなんだったらもっと早く辞めればよかった、と思う。本人には縛りの多い仕事だった。退官後に書いた本の印税によって大学教員をしていたときの報酬のお金の何倍も国に納めた。養老さんは迷いなく虫取りするようになった。箱根にゾウムシの博物館ができあがった。虫を専門に学ぶことができるのは九州大学だけであった。母親は夫をなくしていることもあって強く反対した。東大医学部に行った。精神科を選ぶと籖(くじ)にはずれた。解剖学に行ったのはそのためだ。 都市は住みにくいと論理づける養老孟司さん 自分の生き方や行動や考え方そのものが博物館になる。田渕義雄さんはそのような人だ。。都市は人には住みにくいところであることを説くのは養老孟司さんである。都市に住んでいると子供はいびつになると再三述べる。田渕義雄さんは自分が都市に住んでいびつになることから逃れるために長野県南佐久郡川上村川端下に移ったのかもしれない。フライフィッシングでイワナと遊び、小川山の岩に登ることは田渕義雄さんの喜びである。手を掛けてつくった庭の花に蝶が飛んでくる。寒冷地には薪ストーブが似合う。薪が燃えるのをみているのが好きだったのだ。人生は釣りをしていれば良いんだと、考えてそれを貫いた人がいた。養老孟司さんにとってはゾウムシを捕ることは喜びそのものである。高山市の林で養老さんをみたという人がいる。養老さんはホテルに帰ると標本にするために虫の整理をする。根気そのものの作業だ。 レタス農家を横目に川上村で自給自足する人がいる 野山でのテント生活の延長として寒冷の山間地に家をつくり自給自作をしていくことを選ぶ人がいる。土地を持っていて田畑を耕して作物を食糧にして生活をするというのが日本人の暮らしであった。先の戦争が終わるころまでは6割か7割の人々が農林漁業に従事していた。農業従事者は食糧を自前で賄(まかな)えた。 田渕義雄さんの寒山の森での自活は小さな畑を耕して得る。家は自分が気に入るように造作する。法面(のりめん)の杭を石で補強してできあがった空間を半地下の作業場にした。家具は自分でつくる。テーブルをつくり椅子をつくり、木を削って食器にした。朝おきるとジャガイモ畑の畝をつくり、生えた雑草をとる。山菜の季節には野山で新芽を苅る。秋にはキノコを採る。冬に備えて薪(まき)つくりに木を切り出して丸太にする。一日が働きづくめになる。イワナが疑似餌を追う季節の夕刻は釣りをする。食べない魚は釣らないとやがて田渕さんは宣言するようになる。身体を動かすことのすべてが自分のための労働である。 身体を使うことは人の喜び 人の本源がここにある 自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人をナチュラリスト(naturalist)というのだろうが、田渕義雄さんの寒山の森での生活はフライフィッシングとロッククライミングに遊びを求めることで始まった。生活のためのあらゆるものを自分でつくる自給自足を求めた。好きだということもあって家具をつくり庭を耕した。椅子ができ、ジャガイモが成る。身体を使うことは人には喜びである。人の原始あるいは本源がここにある。自然に関心をもって積極的に自然に親しむ人をナチュラリスト(naturalist)と田渕義雄さんが思っているか知らない。田渕義雄さんはヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)がウォールデン池畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月の記録と思索の著『ウォールデン 森の生活』(1854年)のことをしばしば口にするから、ソローを信奉していたといってよい。ソローは、人間と自然を主題にして取り扱う文章を多く書いた。こうした行動と考え方を何というのだろう。 米国式に自然と人間の関係を掘り下げたのがエマーソンとソローである 日本と米国では自然への考え方は違う。大きく違うのは宗教への従属の度合いである。米国は宗教と自己が葛藤する。日本はそうではない。あらゆるものが神である日本人は宗教からのとらわれが少ない。普通の日本人が農耕をし自給自足するのは成り行きに近い。ヘンリー・デイヴィッド・ソローはハーバード大学を卒業している。ソローの先輩で親しく交わったラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)もそうだ。エマソンは牧師でもあった。宗教家として行動し、宗教との葛藤を通じてそれを新たな領域に導いた。知識の高い人々が自然のことを様々に説き、自然のなかに身を捨てるようにして自活を試みた。農民が農耕をし獲れたものを食べて生きるのとは違う。自然のなかに身を置いて自然のことを考え、それを文章にして自然と人間の関係を理屈を練り上げたのがエマーソンとソローである。エマーソンとソローは思想家である。 寒山の森の獣も鳥も虫も神である神である 人の安らぎについて 日本の冷涼な寒山に棲み、住み家に手を入れ、農耕し家具をつくるという経験を文章を雑誌に発表し図書にすることで静かに思想表現する。田渕義雄さんはエマーソンやソローの系列の思想家だ。田渕義雄さんが暮らす寒山の森は日本にある。寒山も森にはサルがいてクマがいてイノシシがいてキツネがいてタヌキがいる。獣も鳥も虫も山も林も川も日本ではみな神である。日本の自然信仰は米国のそれとは違う。寒山も森での自給自作は身体を徹頭徹尾動かすことである。自給自作に休みはない。よく働きよい心がけをしたあとには安らぎがある。安らぎを求めての寒山の森での暮らしだ。 【補足。じつのところ前書きであった】 2020年7月8日のこと。冬に旅行したときに家の電源をすべて切った。ガス給湯器のなかの水が凍って水を熱する部分のパイプが破裂した。風呂用と台所用の二つのガス給湯器が同時に壊れた。修理をしたのは7月8日のことであった。風呂はどうしていたか、というと来客用の離れのを使っていた。 大きな湯船にやれやれ、と浸かっているいるときにヒグラシがカナカナと二度鳴いた。夕方の午後6時過ぎのことだ。7月8日のこの日は仕事部屋に窓用エアコンを取り付けた。この部屋のエアコンもずっと故障していた。動いたり動かなかったりのぐずぐずの状態だったから窓用エアコンを自分で取り付けたのである。 夕暮れの入浴中にヒグラシをきく。風呂からあがったらエアコンで涼む。 使えなかった風呂を7月7日に直して、7月8日には冷房機を取り付けた。7月8日夕方に風呂でヒグラシの鳴くのを聞いた。暑い日本の夏に東京、高尾山のふもとでも7月は冷房なしでは過ごせない。 2020-07-11-living-in-a-cold-mountain-forest-in-a-country-where-bears-birds-and-insects-are-gods- 【参考】 田渕義雄(たぶち・よしお)さん 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学哲学科を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。都会暮らしというのは公園の緑があっても、緑の並木道があってもそれは造られた人工物である。本物の自然ではない。公園の緑は決して人を癒やしきらない。あるとすればせいぜい日除けとしての緑だ。 鮎釣りの名士が言った。東京大学入学を志していたのだが釣りをしているときに「もしかしたら人生は釣りをしていればいいのではないか」と決断をしたらすべての惑いが消えた。釣りは人を虜(とりこ)にする。 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。家は自分の手で建てた。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。 ソローと『森の生活』 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称です。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。 ナチュラリスト ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。 超絶主義者(トランセンデンタリズム) 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。 ヘンリー・D・ソロー ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。 超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとするは金銭的な豊かさを求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌は人々の尊敬と共感を得た。 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。 田渕義雄さんの勘定書にウィンザーチェアーが加わる 田渕義雄さんの寒い山の木工室のロッキングチェアの家具が人気だ。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。畑を耕して薪をつくって、調理をし、あれこれするうちの一つにロッキングチェア製作がある。ソローの森の生活の家計簿には自作した作物と買うものとの勘定書がある。田渕義雄さんの勘定書の項目には執筆料、印税収入に加えてウィンザーチェアーの販売が計上されるようになった。 自然と向き合って自然に働きかけて何物かを得ることが人の働きである。寒村の暮らしは畑仕事が主なものになる。よほどの働きをしなければ得られるものは少ない。働くと自分の時間は極小になる。働き者でなければ森の生活はできない。都会と組織が嫌で森の生活に逃げ出しても怠け者は生きていけない。森では怠けられない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年09月29日 12時35分25秒
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