メリークリスマス
昨夜のクリスマスミサのようす。ラテン語歌詞のあと記事は読んでね。Adeste Fideles Adeste fideles Laeti triumphantes Venite venite in Bethlehem Natum videte Regem Angelorum Venite adoremus Venite adoremus Venite adoremus Dominum Cantet nunc io Chorus angelorum Cantet nunc aula caelestium Gloria, gloria In excelsis Deo Venite adoremus Venite adoremus Venite adoremus Dominum Ergo qui natus Die hodierna Jesu, tibi sit gloria Patris aeterni Verbum caro factus Venite adoremus Venite adoremus Venite adoremus Dominum 教会学校での説明(再掲)みなさんも、クリスマスは、「イエスさまがお生まれになった日」「イエスさまのお誕生日」ということはよく知っています。けれど、みなさんが一番楽しみにしているのは、「プレゼント」なのでは?クリスマスは、「イエスさまのお誕生日」。そして、「ぼくが、わたしが、プレゼントをもらえる日」。もしかしたら、みなさんも、そんなふうに思っているのではないでしょうか? でも、考えてみると、変なことですね。自分のお誕生日ではなくて、イエスさまのお誕生日なのに、どうしてぼくたち・わたしたちがプレゼントをいただくのでしょう?それは、クリスマスは、神さまが、まことに大きなプレゼントをわたしたちにくださった日、ということを覚えるため、なのです。神さまがわたしたちにくださった大きなプレゼントとはなんでしょう?そうです。「イエスさま」、というプレゼントです。神さまは、独り子イエスさまを、わたしたちのために、この世界にくださいました。それがクリスマスです。ですから、そのことを覚えて、またそれを覚えるために、わたしたちのところにもいろいろなプレゼントが届けられるのです。サンタさんも、イエスさま、という神さまからのプレゼントのことを、みんなに覚えてもらうために、世界中の子どもたちにプレゼントを配っているのだと、私は思っています。けれども、クリスマスの日に、私たちの世界に与えられた「イエスさま」というプレゼントは、どのようなお姿で与えられたでしょうか?実は、今日、ここにふたつのプレゼントを持っています。ひとつは、赤いきれいな紙で包んであって、きれいなリボンもかかっていて、何かすてきなものが入っていそうな箱です。もうひとつは、なんだか、すてきではありません。みすぼらしくて、ぼろっちい包みの箱です。あまりいいものが入っていそうではありませんね。みなさんは、このふたつのうち、好きなほうを取ってもいいよ、といわれたら、どちらを選ぶでしょう?イエスさま、という神さまからのプレゼントが私たちの世界に与えられたとき、イエスさまのお姿は、このふたつのうち、どちらに似ていたと思いますか?羊飼いたちに告げられた天使の言葉を思い出しましょう。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布に包(くる)まって、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」天使は告げました。「あなたがたは、布に包まって、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」馬小屋、家畜小屋の中で、馬のえさを入れる飼い葉桶をベッドにして、神さまからの大きなプレゼントであるイエスさまは、寝かされていました。それが、わたしたちすべての者のための「救い主」であるイエスさまのお姿でした。神さまの独り子イエスさまです。神さまからの、大きなプレゼントであるイエスさまです。でも、そのイエスさまのお姿は、こんなふうにきれいな包み紙に包まれたプレゼントのようではなかったのです。イエスさまは、私たちが「神さまの独り子、我らの救い主」にふさわしい、と思うような、りっぱな、輝くようなお姿で、私たちに与えられたのではなかったのです。イエスさまは、ちょうど、こちらの、みすぼらしくてぼろっちいプレゼントのようなお姿で、わたしたちの世界に与えらました。馬小屋で生まれたのです。馬や牛のえさを入れる飼い葉桶が、ベッドだったのです。皆さんは、牧場に行ったことがありますか?馬や牛や羊がたくさんいる牧場は、あまりいい匂いはしません。臭いです。足元には、あちこちに○○が落ちています。イエスさまのお生まれになった馬小屋も、そんな場所だったのです。臭くて、汚いところです。しかし、天使は告げました。そのイエスさまの貧しさが、みすぼらしさが、「あなたがたへのしるし」、わたしたちすべての者のために与えられたプレゼントであることのしるしであると。わたしたちは、どうでしょう?きれいですてきな包み紙のプレゼントのほうがいいな、と思います。汚いのはいやだ、ぼろっちいのはいやだ、と捨ててしまうかもしれません。けれど、神さまからの大きなプレゼントは、わたしたちの目には、汚くてみすぼらしくて、ぼろっちい姿で、与えられたのです。もしも、イエスさまが、立派な宮殿・お城で、家来たちに取り囲まれて守られているような方としてお生まれになったとしたら、どうでしょうか?羊飼いたちも、わたしたちも、近づくことができなかったでしょう。しかし、イエスさまは、馬小屋でお生まれになり、飼い葉桶をベッドにして寝かされていました。その貧しさのゆえに、わたしたちは誰でも、羊飼いたちでさえ、近づいていくことができたのです。すべてのひとのための救い主だからこそ、イエスさまは貧しいお姿で、わたしたちに与えられたのです。実は、こちらの汚いほうのプレゼントには、「秘密」があります。開いてみましょう。中に、ろうそくが隠されていました。(包みを開け、ろうそくを立て、火をともす)。わたしたちを照らす救いの光です。これが(ろうそくを掲げて)イエスさまです。わたしたちのために貧しくなられ、わたしたちのために十字架へと歩まれる救い主。このろうそくのように、自分自身を燃やして、わたしたちを照らす救いの光です。わたしたちの周りには、きれいに包まれたすてきなプレゼントがあふれています。わたしたちは、そちらのほうがいいなぁと、思ってしまうかもしれません。きれいなプレゼントを見ていると、この汚いプレゼントに隠された輝く光は見えなくなってしまいます。みすぼらしさだけが目に映ることでしょう。けれど、わたしたちの目にはみすぼらしく、貧しく映るお姿で、わたしたちのための救い主はお生まれになりました。しかし、その貧しさの中でこそ、救いの光を放つお方として、神の独り子主イエス・キリストは、わたしたちに与えられました。この救いの光は、わたしたちすべてを照らすのです。-----ここまででも考えてみると,クリスマスとはキリストのミサという意味だから,クリスマスのミサとはおかしな言い回しだな。