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今日、こんな広告文句を見た。
「特選純国産極上黒毛和牛」 …なんかもう必死過ぎ。 しかし一瞬でもこれをすっと受け入れて、 流そうとしてしまった自分にも、 またちょっとどうかと思った。 純て… ところで。 「萌え」とは、 特異的なその嗜好を理解出来ない人が聞けば 変態的な気持ち悪さを感じるような「かわいらしさ」 を表現した言葉だということ。 俺は一般的に普及したり流行ったり 使えたりするような言葉では無いと 思うんだけどなぁ。 古いと言われようが俺は言うよ。 若者の新しい風というのは、 そのほとんどがろくなものじゃない。 変態的なものはやはり変態的なものとして、 奇異な目で見られなければならないし、 変質者は許容するんじゃなくて やはり要注意人物として位置付けしなくちゃいけないと思う。 例えは変だが、 暴力団はやはり怖そうだという認識のもと、 一般の人は注意しなければならないという 位置付けで対応してるからこそ、 バランスがとれているものだと思う。 周りに怖いと認識されている格好や態度をするだけで、 要注意人物とされているからこそ、 そこで表現も止まっているし、 一般人と分離しているからこそ、 一般人にはむやみな被害を被らないようになっている。 裏を返せば、そんな格好をする事で 本人にはもちろん一般の人とは違うんだと 認識されるというリスクがある。 暴力団はそういう一種差別的な認識による バランスがあるからこそ成り立っている。 それを、暴力団は怖くないし、 怖そうな態度も口調も格好もごく一般的なものとして 許容されるべきだと言い出してしまうと、 今までバランスの取れていたそのシステム自体が 壊れてしまうような気がしませんか? 態度や格好だけでは怖さを認識されられないのなら、 一線を越えて直接的に無差別に暴力を振るう事で、 怖さを認識させなければならず、 直接的な表現をする事でしか誇示出来なくなる。 また、一般の人がそういう格好をすることで、 余計な被害があることも考えられる。 萌えだSMだ何だと変態的な性的嗜好を ごく当然のものとして許容してしまうと、 それだけでもうすでに本当のところはギリギリなのに、 一線を越えなければ変態だと認められなくなってしまう。 もしも、変態が変態として成り立つ上で、 常軌を逸してるからこそ、 得られるものがあるのだとすれば、 常軌を広げてはならないと思いません? 幼児が絡む畜生以下の残虐な事件の根底には、 そういうものがあると思う。 いくら差別だ何だと言おうが、 俺は変態的な嗜好を持つ人を、 奇異の目で見、要注意人物だと認識する事は正しいと思うし、 受け入れるべきものでは無いと思う。 また、そういう嗜好の人はそれを覚悟で 嗜好すべきだと思う。 個人の自由だと開き直るのは別に構わないし、 それは俺もそう思う。 だが、だからといってそれが正常だと 開き直るのは間違っていると思うし、 周りが許容するのも間違っていると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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