カテゴリ:玉助の日記
長岡の中心部平潟神社の隣に慰霊塔が建っています。
長岡空襲で亡くなられた方の慰霊塔です。 ![]() 8月2日の長岡の花火大会の時も書きましたが。 今日通る機会がありUPさせて頂き母の言葉を載せたいと思います。 第2次世界大戦の終戦を迎えようとする昭和20年8月1日 長岡はアメリカのB29によって爆撃を受けました。 1470余名の方が犠牲となりました。 母はその時の事を涙を流しながら話します。 今日配給になった芋や卒業アルバム等大切なものを一つにして 明日疎開先に持って行く荷物を玄関にまとめていた時 空襲に遭い着の身着のままで逃げたそうで、家を出て振り返った時には玄関は火の海だっ たそうです。 暗い道中無我夢中で逃げたそうで、今思えば平潟様の方へ逃げていたら 命は無かったと思います。 ただただ運が良く逃げられたとの事、、、 翌朝4時過ぎには鎮火し一面焼け野原となっていました。 しかし長岡駅や線路、郵便局等アメリカ軍の必要な拠点となる建物は残されていたそうで す。 母はその当時独身で郵便局に勤めていたので 局に戻りそこで寝泊りをして炊き出しをし、必死に働き終戦の15日を迎えたそうです。 しかしそれからが大変で物も無く 今考えてもどうして生きてきたかわからないと言います。 戦争体験の話は尽きる事がありませんが もったいないと言う言葉が当たり前だった物資の無い時代 物余りの時代にどっぷりと漬かった今 先人に学ぶべき事はまだまだ沢山あると思いました。 あらためて亡くなられた方にご冥福を祈ります。 玉助の湯はこちらからどうぞ。 ![]() 玉助のお台所vol.1はこちらからどうぞ。 ![]() ![]() 玉助 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年09月18日 23時14分01秒
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