御文について
明日の永代経に向けての法話の下書きとします。こんにちは。本日はご多忙の中、お越しいただきありがとうございます。本日のテーマは『御文』です。さて、御文は、「おふみ」と呼ばれることはご存知の通りです。ご存知の方が大半とは思いますが、御文は蓮如上人が残されたお手紙にあたります。1帖~5帖までの5冊のまとめられたお手紙は、各15、15、13、15、22通から成り立つ全80通から成り立っています。私が皆さんのお宅へ毎月伺うお常飯(月行、月参り)で必ず最後に拝読させて頂いています。全80通もある中から決まって5帖目を詠むのには理由は特にはないのですが、私がご本山で聞いた話では何を詠んでもいいのですが、5帖目を詠まれることが多いと聞いています。あくまで私の予想ですが、誰しも避けられない死の後の葬儀の際に、私たちは『白骨の御文』と呼ばれる御文を拝聴します。この呼び方は通称なのですが、この御文が5帖目の16通目にあたることから、この5帖目ということでなじみがあるということなのでは?と思っています。毎月、皆さんがお気づきかどうか分かりませんが、拝読する御文を変えています。特に決まった決まりはありませんが、皆さんの少しでも多くの蓮如上人の残したお言葉を耳にして欲しくてそのようにしています。ちなみに今月は、皆さんが一番よく知っている可能性がある5帖目の1通。「末代無智」をあえて選択して拝読しています。あえてと言いましたのは、今日のためです。本日は1通目と2通目についての知識を深めてみましょう。1通目を通称「末代無智」、2通目を「八万の宝蔵」と呼んでいます。あくまで私は、ですが。この2通は、意味合いは単純ですが、奥が深いお手紙です。さすが蓮如上人です。単純なのに奥が深い。これが御文の特徴でもあります。蓮如上人がお手紙を書かれた1461年(47歳)の頃、親鸞聖人没後200年の年に初めて御文で地方の門徒への教化を始めたとされています。当時の時代背景ですが、室町時代の中期。応仁の乱の始まった1467年から見ても時代は荒れていたようです。そんな中で蓮如上人の思いがこの御文に込められていると言っていいでしょう。以下略さて、このように私たちは無智という事や知識について貪欲であったり、それを自慢しがちです。ですが、蓮如上人は2通目で結局こういっています。知ったつもりでいることより、知らないことを知っている人の方が本当に賢い、と。私もそうですが、1つを知って知った気になったり、それを自慢することは愚か者ということです。日常生活の中で誰かに教えてあげた気になることもあるかと思いますが、こういう気持ちを戒め、自分を見つめなおしていきたいものですね。何より私たちは、有学の身なのですから。合掌