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カテゴリ:ひとりごと
------自分から、言葉をとると何が残るのか?
「言葉」は、かなり大きな意味を持つコミュニュケーション能力である。 日常生活のなかで、自分の思いを、相手に「伝える」ことが出来るのも、我々が「言葉」をもっているからであり、人間関係を築き上げていく上でなくてはならない手段であること以上に、相手が話している言葉で、こちらもその人物の人となりを判断している。 言葉は、その人間の「一部」といっても過言ではないだろう。 しかし、これが異国、そして母国語以外の言語環境だったらどうだろうか? 「言葉」を失った我々は、その人格、自分自身の一部を失ったような感覚に陥る。いや、実際失っているのだ。 その状態で、相手に自分をわかってもらおう、なんていうのは、本当は大変虫の良い話なのである。 「完璧に語学が出来ないうちは外国にいっても意味がない!」 なんてことを私はここで言いたいのではない。 実際問題、日本で外国語を何年か(しかも、かなり真面目に)勉強したとして、どの位の語学力がつくというのであろうか? レストランで注文して、タクシーの運転手とスモールトークが出来るくらいにはなるかもしれない。 (私がここでいう、人格の一部としての「語学力」というのは、その程度のものをさすのではないし、文化の一部である言語を、(しかも、生きた言葉、というものを)その国に住まなずにして完璧に習得するには、限界があると、私は認識している。) 私の経験からすると、日本で身につけておいて正解なのは「単語力」。 (これは、本当にあって、ありすぎることのないものである。) そして欲をいえば、正しい「文法」。 (これは、現地での語学習得の際に、文法がアバウトになりやすいために、のちに長期滞在してかなりの語学力を身につけるつもりなのであれば、徹底的にたたきこんでおいたほうが、賢明である。) しかし、実は海外にでるのに、語学よりも大切なものが他にもあるのだ、、、、。 続く はじめから読む(少女よ 大志を抱け) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年11月19日 07時30分03秒
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