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オキナワの中年

オキナワの中年

まなざされる沖縄/生きられる沖縄


    まなざされる沖縄/生きられる沖縄


                    大野隆之




   一、はじめに

 沖縄文学もしくは文化を研究するという行為には、例えば明治文学を研究するという行為とは根本的に異なった何かがある。殊に私は沖縄に来る以前、ほとんど研究主体それ自体が問題視されることのない、フォルマリスティックなスタイルをとっていたため、その落差は激しい。
 一つは沖縄について語る場合、かつての南方オリエンタリズムが持っていた暴力的なまなざし、そして沖縄において内面化されたその視線が生み出した、文化破壊といってもいいような「生活改善」・「同化主義」を抜きにすることは出来ない。しかしそれらの表象を批判すること自体が、新たな表象を再生産するという自己撞着の問題がある。事実そういった新しい表象は、今もなお、刻々と生産され続けており、この文章自体もまたその一つである。
 この問題は原理的なものであるが、もうひとつの問題はさらに深刻である。それは「お前はなぜ、どのような資格によって、沖縄について語っているのか?」という問いかけに関わる問題である。これは現実に発話されたことばではない。絶えず私自身によって問いかけられるものである。もちろんこの問題に固執することは、被抑圧者のみが抑圧について語りうるのだ、という「経験の所有」による排他主義につながりかねず、サイードが早くから注意を促している点である。しかし問題は「語る」権利にのみとどまらず、研究主体のアイデンティティーに直接関わってくるのである。
『ある精神病患者の手記』(文芸社、二〇〇一・八) の著者「死人のイエス」が発症したのは、「沖縄文学」に対する県民の意識を社会学的に調査する、というテーマの論文を書いているさなかであった。早い段階からこの調査に協力していた私は、彼女から届いた奇妙なメール、それに続く入院の知らせに、衝撃を受けた。非常に優秀な大学院生であり、かつ明朗なタイプで、精神的な苦悩などいささかも感じ取れなかったのである。私は自分の取り組んでいる研究対象の難しさを改めて思い知った。私自身何度か、自己嫌悪の様な感覚や強い緊張感に襲われた事があったからである。つまりこの研究対象においては、まなざすという行為が、すぐさま「ナイチャー」としてまなざされる、という感覚に跳ね返ってくるのであり、それはしばしば直接自分が参加したわけではない事象に対する、罪責感となって現れてくる。
 彼女に訪れた危機が、そこまで深刻な形で私に訪れなかったのは、一つは私が彼女のように純粋ではなく、かつ鈍感であった、という点もあるのだろうが、もう一つの理由として、日常的に生きた沖縄、すなわち数多くの学生達と接しているという要因もあるように思われる。戦前の沖縄女性が直面した困難を調査し、このような極端な貧困や、馬鹿げた差別が存在していたのか、と強い憂鬱に陥ったとき、道の向こうから「先生、ちょっと暗いよ」と手を振ってくれた女子学生の笑顔が今も忘れられない。
 沖縄はある表象群が描いているようなユートピアではもちろん無いが、別の表象群が描くほど絶望的なものでもない。「虐げられた、かわいそうな人々」では決してない。確かに様々な、困難な障害が今も現実として存在しているが、復帰後三十年を経て、それらは確実に改善されている。そしてかつてウチナーンチュを囲い込んだ、一方向的な表象は多様化し、特に若い世代は、それらを興味深い発見として、享受するまでになった。もちろんその背景に同化が進み、本来彼らが持っていた諸文化が、刻一刻と失われ続けている、という事実があることは、決して忘れてはいけないのであるが。

 私が沖縄に住むようになってから、ちょうど十年である。沖縄を研究の対象としてからはまだ六、七年に過ぎず、全くの駆け出しであると言ってよいが、その間見聞きし感じたことを、体裁にこだわらず、綴っていきたい。
  
   二、「暗い沖縄」

 現在沖縄の表象は多様である、と述べたが、それら多様な沖縄の表象群は、くっきりと二つの色合いを持っている。それらは「暗い沖縄」および「明るい沖縄」と名付けるとわかりやすいだろう。
「暗い沖縄」というのは、薩摩侵攻に始まって、皇民化政策、蘇鉄地獄、沖縄戦、占領、米軍基地、といったイメージと関連づけられた表象である。
 もう一方の「明るい沖縄」とは、青い海、癒しの島、素朴な人々、ユイマール、ゆったりとした時間、音楽の島、といったイメージと関連づけられた表象であり、他に薩摩侵攻以前の大航海の時代を含んでいる。
 これら二つのタイプの表象に対して、戦前ほぼ一色だった表象、すなわち「生活改善」の対象とされた、沖縄語、入れ墨、豚便所、飲酒、ユタ、衛生問題、毛遊び、時間厳守、テーゲーなどは少なくとも、本土発信のメディアにおいては、現在それほど取り上げられることはなくなった。実際に現在ではほぼ消えてしまった要素も多い。取り上げられるとしても、わずかに「時間厳守」の問題が、ウチナータイム、最近の言葉では「スローライフ」といういくぶんいかがわしい名称で、今では「明るい沖縄」という表象に含まれていると見て良いだろう。
 これらのうち、ここでは前者、すなわち「暗い沖縄」の表象について考えてみる。

「暗い沖縄」の表象として、現在最も一般の目に触れる機会の多いイメージは、筑紫哲也のTBS「NEWS23」で放映される、「基地の中の沖縄」のイメージであろう。沖縄で米軍がらみの事件が生じた場合、そのイントロダクションとして、過去何度か放映されている。「F15の爆音の下で耳をふさぐ老女」「沖縄の平和を要求する可憐な女子高生」「普天間基地を中心とする宜野湾市の映像」「広大な嘉手納基地」等のモンタージュで構成されたイメージである。そしてこのイントロダクションの後、レポーターは必ず道路の両側が軍用地であるポジション(国体道路、もしくは330号線の石平付近)に立ち報告を開始する。
 私は初めてこの映像を見たときに、自分は一体どこに住んでいるのか? という不安に駆られるのと同時に、以前から言葉としては知っていた、ステレオタイプという言葉の意味を実感として了解した。「F15の爆音の下で耳をふさぐ老女」については、あるいはやらせかもしれないという若干の疑惑があるものの、確かにこれらは現実に存在する事実である。しかし実際にこの島で行われている日常生活は、このモンタージュから完全に排除されている。もちろんニュース映像というものはそういうものであって、われわれは事件の生じた場所のみの映像をピンポイントで提供される事が多い。が、それが本土で起こった事件の場合、われわれは無意識裡に、その事件現場の周辺に、我々に近しい町並みを、あるいは田園を補いながら了解するだろう。これに対して「基地の中の沖縄」のイメージは、およそ人間の暮らす事が可能な空間とは思えず、ここに人が住んでいるとすれば、それは抑圧された惨めな生に違いないのである。
 後述するように、現在では多様な沖縄イメージが、「基地の中の沖縄」から排除された空間を埋めている。しかしそれはここ一〇年ほどのことであり、かつての沖縄の映像表現は他に「リゾートとしての沖縄」しかなかった。イメージの中で、沖縄では米軍基地と、本土大資本により建設された大リゾート地とが隣接していたのである。
「暗い沖縄」の表象は、虐げられた人々を想起させる。そしてそれは時に抵抗する民衆という期待を生む。例えば古い事例になるが、大江健三郎『沖縄ノート』はまさにそのようなものとして書かれたものであった。これについては興味深いエピソードがある。一九六八年来沖した大江は、大城立裕と国際通りを散歩した時に「みなさん静かですね」といぶかったというのである(大城立裕「光源を求めて」、『大城立裕全集一三巻』勉誠出版、二〇〇二・六 p.311)。大江は自らが生み出した表象に絡み取られたのであった。
 このかつて沖縄の表象として、非常に大きな部分を占めていた、虐げられた民衆=抵抗する民衆というイメージは、現在では非常に小さなものになっている。理由は簡単であり、実体として米軍基地の脅威が、徐々に低下したからである。九五年のあの痛ましい事件は、本土で思われている以上に、沖縄の状況を変えた。もちろんここで誤解してはならないのは、問題が消滅したわけではないという事である。現在も脅威は存在するのであって、例えば明日普天間基地のヘリコプターが、宜野湾市の密集地に落ちても何ら不思議な事ではないし、県中部では強盗、傷害等の事件が発生する。しかし占領下において、ほとんどやりたい放題だった時代、復帰後も続いた米兵による沖縄人に対する蔑視、軽視、それらは漸次低下し、実のところ現在では、沖縄民衆と軍人、軍属、あるいはその家族との間の関係は、かなり良好である。
 米兵との交際を目的とする「アメ女」とよばれる存在を別としても、ショッピングセンターで片言の英語で話すようなケースもあるし、海辺では米兵と沖縄の若者がビーチバレーをやっている。七月四日に嘉手納基地で行われるアメリカンフェスタ(一般にはカーニバルと呼ばれている)は、沖縄の中でも大規模なイベントのひとつであり、これを毎年楽しみにしている県民も多い。高級将校の離任式には、かなりの数の県民が招待されている。しかしこのような面をあまりにも強調すると、現在もなお粛々とすすめられている沖縄の地位向上に差し障りがあるので、あまり表向きにされないだけである。
 また沖縄の経済が向上したという点も重要である。かつて基地と、その周囲の民衆の住環境、生活水準等には雲泥の差があった。しかし復帰後の経済成長、軍用地料の高騰、そして何よりも円高のために、その格差は縮まり、現在では逆転しているといってよい。近年沖縄で生じている米軍がらみの事件の中には、低所得者による犯罪という側面があることも、否定出来ないのである。若い海兵隊員達の乗用車は、非常におんぼろであり、これは別の意味で危険である。

「暗い沖縄」という表象が相対的に低下していった、という事態は、一定の政治意識をもった人々には、非常な危機として写っている。それはある場合には、「明るい沖縄」の表象における政治性を糾弾するという形で現れ、ある場合には思想の急進化、という形をとる。前者については「明るい沖縄」において論じるため、ここでは政治的急進性について触れておこう。なぜならこの問題には、現在の沖縄文学においておそらくはもっとも重要な作家である、目取真俊が関係しているからである。
 目取真俊は非常な苦難に満ちた「沖縄文学」において初めて現れた天才だと思われる。大城立裕も又、偉大な思想家であるが、大城の場合方法意識と沖縄史の正確な再現という使命感が前面に立ちすぎ、この点は覚悟の上だと思われるが、小説という虚構形式が本来持っているおもしろさ、感情移入という面を大幅に犠牲にしている。これに対して目取真は、「体験の継承」の不可能性を前提にしながらも、小説という理性と感性双方に訴えるメディアの特性を最大限に利用しながら、語り得ぬ事を語る、という新たな地平を目指した。全身体的な優れた描写力は、読者にまるでその場に居合わせたかのような臨場感を与え、沖縄文学という枠にとどまらず、斜陽化する日本文学の中にあって、重要な存在のひとりであろう。

 例えば「群蝶の木」(『群蝶の木』朝日新聞社、二〇〇一・三)は、表象と体験という本稿の問題意識とも関連した重要な作品である。
 物語は、久しぶりに故郷の「豊年祭」の時期に帰省した義明と、豊年祭にあられもない姿で乱入する老女「ゴゼイ」を中心に展開する。錯乱したゴゼイは義明に「ショーセイ(昭正)」と呼びかける。昭正とは何者なのか、という謎解きを軸としながら、作品は戦争の記憶の継承がいかに困難であるか、そこで文学が果たせる役割は何であるのか、という難しい問題に挑戦している。
 この作品の特徴は、なんと言っても、原稿用紙百枚弱という分量の中で、多様な「戦争」の表現を提示した点にある。
 まず虚構内虚構として、豊年祭で演じられる「沖縄女工哀史」という劇がある。この「どこかで聞いたような話をつなげた、全く救いのない芝居」は、沖縄の戦前および戦争を作品化するとき、陥りかねない一つのパターンを示している。類型化され、様式化された記憶。まさに「戦争の表象」である。観客は泣き声をあげ、義明もわずかに涙をこぼすのだが、「まわりに気づかれないようにてのひらで顔を拭いてから、次の出し物を待った」、すなわち物語によるカタルシスから、急速に現実に回帰してしまうひとつの「出し物」にすぎないのである。この劇の直後にゴゼイが乱入するのは、後述するように、偶然ではない。
 二つ目は奇跡的に生き延びた後、戦後地域の名士になるまで成
功した「元区長」の「あざ字史」および、補足的な語りである。九十を過ぎながら記憶もしっかりしており、当時の用語を若者に平易に説明するなど、貴重な語りではある。しかし字史には周縁的な存在であるゴゼイ、あるいは朝鮮人慰安婦の記憶は書かれてはいないし、そのような細かな内容を質問に訪れた義明は「珍しいことを聞きよる者」といぶかられてしまう。この語りは鳥瞰的なポジションにたった、客観的な史料との類縁性を持つ。
 最後にゴゼイという存在、および彼女の記憶がある。しかし彼女の言葉は「ショーセイ、助けてぃとらせ、兵隊の我ね連れてぃいくしが」というような、全く現実の文脈を無視したものであり、他者に了解されることはない。彼女こそまさに「戦争の記憶」そのものであるにも関わらず、先ほどまで「沖縄女工哀史」に涙していた者たちの手によって、強引に排除されてしまうのである。
 決して継承され得ない記憶、そのために文学というジャンルに何が出来るのか? この作品はそれ自体が、戦争の記憶の表現であると同時に、戦争をめぐる表現に対しての批評となっている。義明は義明なりに懸命に記憶をさかのぼり、あるいは年長者の話を聞き、最後は入院したゴゼイのもとを訪れるのだが、結局ゴゼイの体験は、義明に継承されることはない。伝達されないということが伝達内容であるという点で、この作品はきわめて複雑な構造を持つと同時に、その分、読者の役割はきわめて大きくなっている。すなわち虚構内においては、誰一人至り得ないゴゼイの声は読者だけには届くのである。
 ゴゼイの体験は目取真ならではの高度な全身体的な描写によるものであり、非常な臨場感をもつ。また彼女の記憶は日本兵が悪者、沖縄県民は犠牲者というような単純な図式にはなっていない。首里校出身の「与那嶺」という将校をはじめとする沖縄出身兵の残虐性、あるいは一般住民と慰安婦との軋轢、さらに戦後の沖縄が抱えてしまった、アメリカ兵相手として特定の女性におしつけられた売春など、善悪に図式化し得ない人間の暗部を徹底的に暴いている。一見補助的なエピソードにみえる、義明の少年時代、ゴゼイの好意をないがしろにした記憶も、平時・有事という状況さえかわれば、容易に噴出しかねない人間のエゴイズム、残虐さを暗示させ、きわめて効果を上げている。
 やや詳細になったが、この作品を強調する理由は、この作品は直接的には政治的ではないが、「反戦平和」の政治的言説より、はるかに深い部分で読者に強い影響を与えうるのではないか、と考えられるからである。
 例えば最近の例では、「さとうきび畑の唄」というドラマが、若い世代に大きな衝撃を与えたようである。私自身はこの作品を見逃したため、作品内容については論評出来ないが、例えば学校という権力装置における「平和教育」よりも、戦争を知らない世代に数倍のインパクトを与えたのではないのだろうか。オウム事件以降、虚構の力は色あせた、とみなす立場もあるが、もう一度虚構が現実に与える力を再評価してもいいのではないか、と思われる。
 もちろんこの物語も又、「沖縄女工哀史」と同様カタルシスを伴って消費されていくだけだ、とみなす立場もあるのかしれない。さらに目取真自身、自らの作品もまた、市場経済の中で消費されるだけの商品と考えたのかもしれない。本心はわからないが、目取真はこの時期から、虚構を離れ、具体的な政治的言説にシフトしていく。その言説は、本当に小説家目取真俊の文章か、とにわかには信じられないほど硬直したものであり、戦後、もしくは復帰後の沖縄の歩みを全て否定するような、極度に急進的なものである。そしてそれは、日本赤軍の末期にも似た、危険な兆候を持っている。
「お行儀のいいデモをやってお茶を濁すだけのおとなしい民族」「軍用地料だの補助金だの基地がひり落とす糞の様な金に群がる蛆虫のような沖縄人」
 これは「米兵の子供を殺す」という衝撃的な内容から、問題作として一時話題になった「希望」(『朝日新聞』一九九九・六・二六)の中の一節である。あくまでも小説ではあるが、これらのイメージは、他のエッセイ群とも共通した部分を持ち、インタビューにおいて、記者は「小説」ではなく「仮想ながら衝撃的なエッセー」と呼ぶのであるが、目取真は特に訂正していない。後述するように、沖縄に現在求められているのは、イメージの多様性であるから、この小説には大きな価値があると思うし、掌編ながら作品として完成度は異様に高い。ただし私が疑問視するのは、この作品が書かれた後の、「徹底的に追いつめられたマイノリティーにとってテロは容認されるのか」といった議論である。驚くべき事に沖縄をヨルダン川西岸やガザのような「抵抗の拠点」としたい、というような本音を持つ論者が、少なからず存在するのである。
 確かにシャロン就任後のイスラエルの政策は傍若無人なものであり、パレスチナに肩入れしたくなる気持ちもわからないではない。しかし多少クールに見るならば、そのようなシャロンに支持と権力を与えているのが、テロではないのか? いわばテロリスト達は、イスラエル軍(もしくはその背後にいるアメリカ)と、共犯関係にあるのである。
 沖縄でも復帰前、「コザ騒動」と呼ばれる事件があった。仮にあの事件が、両者に大量の死傷者を出すような事態になっていたとしたら、現在の沖縄があったのかどうか? 復帰後沖縄は一部の例外を除き、暴力的な手段を用いることなく、徐々に自らの権利を拡張していった。九五年の県民集会のおり、私と妻とはその場にいたが、それは驚くほど静かな集会だった。騒いでいたのは本土から来た活動家が大半だったように思う。静かな怒りと祈りによって、世界最強の軍隊に圧力をかけることが出来るのである。
 かつては暴行、殺人が無罪になるような無法地帯であったものが、現在では暴行「未遂」であっても、起訴後は日本側が被疑者の身柄を拘束しうる地点にまで来た。そして現在沖縄は必要に応じて起訴前でも身柄を拘束出来るよう、「地位協定」を運用改善ではなく、明確に改正するという、政治目標を立てている。このような状況下で、「テロ」の可能性を論じるなど、まさに噴飯ものと言える。むしろ沖縄の経験を、他の紛争地域の参考に供すべきだろう。あのように過酷で解決不能に見える、イスラエル・パレスチナ間の対立の中にさえ、平和的解決にむけて努力している人々がいる。沖縄の経験は彼らに大きな勇気を与えるだろう。

   三、「明るい沖縄」

「明るい沖縄」の表象は、一九七〇年代、沖縄海洋博の開催に合わせて出現した、とされるが、沖縄の日常的な生活文化にまで一般の関心がむけられるようになったのは、一九九〇年代の事と見て良いだろう。実際一九七〇年代には、フィンガーファイブ、南沙織、やや遅れて喜納昌吉などのヒットがあったが、これらはその背景にほとんど生活を想起するような契機はなく、例えば喜納昌吉の「ハイサイおじさん」(七六年)が、ヒットした同時期、フィリピンのフレディ・アギラによる「アナック(息子)」もまたヒットしている。復帰直後の沖縄は、未だ「外国」であった。これはしばしば指摘されることだが、大城立裕の作品集『カクテル・パーティー』(六八年)の中で注目されたのは、芥川賞受賞作という事もあり「カクテル・パーティー」であって、沖縄の土俗という問題意識を持って書かれた「亀甲墓」はほとんど取り上げられる事はなかった。「亀甲墓」と通底する部分のある又吉栄喜「豚の報い」が芥川賞を受賞するのは、九六年のことである。
 九〇年代「明るい沖縄」の表象が広範化する過程において、九五年のいわゆる「少女暴行事件」、そして知事の公告縦覧代行拒否から、沖縄サミットへと至る政治的なイベントが深く関連している、というのは疑いがないだろう。殊に新川明が厳しく糾弾するように二千円札発行や沖縄サミットの開催が、基地存続のための、沖縄に対する慰撫であったという事は、誰がどう見ても間違いのない事である(新川明『沖縄・統合と反逆』筑摩書房、二〇〇〇・六)。それゆえ批評、学術の領域では、それらの政治的イベントと平行して出現した「明るい沖縄」の表象を、批判もしくは危険視する言説が支配的である。
 たとえばNHKドラマ「ちゅらさん」について、田仲康博は次のように述べている。

 メディアは、その視線の先に風景を実体化させることによって人々の意識を一定の回路に封じ込め、同時にその風景のなかにいる者のアイデンティティーを固定化する文化装置として機能する。そこでは個人の記憶や経験が、「沖縄らしさ」の記号があふれる想像上の地点に回収され編成されていく。空間が生まれ、主体が呼び出されるプロセスが動き出す。そして、その結果、島に生活する人々もエキゾチックな文化を体現する「沖縄人」を明るく――しかし、そのことを自覚することなしに――演じてしまう。
(田仲康博「エキゾチック・オキナワの誕生」、『沖縄タイ
ムス』二〇〇三・一・七)

 これは現在では一般化した、まるで教科書のような記述であるが、果たして本当だろうかと首を傾げざるを得ないのである。まず、上記の分析は、表象を批判しながら、その実「メディアにたやすく浸食される沖縄人」というもう一つの表象を「自覚することなしに」生み出してしまっているのでは無かろうかという疑問である。もう一つは、特に生まれた時から多様なメディアの中に浸り続けている若い世代に、たったひとつのドラマがそれほど強い影響を与えるだろうか、という問題である。さらに実際に多くの若者と常時接している、私の経験に照らして、この分析は机上の空論に過ぎない様に思われる、という点である。
 多田治はアンケート調査から、「ちゅらさん」の沖縄における好意的な視聴者の中心は、四~五〇代であること。そしてその好感の要因を「郷愁」にあるとし、「変わり果てた沖縄の風景や現実を前にしての、年配世代の深い喪失感である」と分析した(「沖縄では、沖縄イメージはいかに消費されているのか」国際シンポジウム“Cultural Typhoon 2003”報告用レジュメ、二〇〇三・六・二八)。この分析は非常に納得のいくものである。私の接する二〇代には、「ちゅらさん」に対して違和感を持つものが多い。そもそも熱心な視聴者は、ほとんどいないのである。以下に示すのは、沖縄文化に関わる、学生達のレポートの一部である。
「テレビなどで取り上げられる「オキナワ」の姿にうそ寒さを何時だったか覚えたせいかと思われます。赤瓦、石畳、毎夜行われる宴会とこんな所にすんでいたか、自分、とまず自分の記憶の方を疑ってしまった」
「沖縄人が全て優しい人というのは単なるイメージにすぎず、意地の悪い沖縄人を私は三百人くらい知っている」
「沖縄は他の地域と比べて、食べ物や文化が特徴的で、閉鎖された島という空間の中で独自発展してきたと思います。しかし最近はそれをいい事に、全て沖縄人だから、といって切り抜けて行くような場面も多く、内地の人と待ち合わせをして、少し私が遅れたら「やっぱり沖縄の人はマイペースだからね」と片づけられてしまいます」
 現在都市生活をおくる彼等にとって、「ちゅらさん」の世界はもはや郷愁の対象ですらないのである。ここわずか十年ほどの間でも、本土化は急速に進んでいる。十年前学生達とカラオケに行った時、一人が民謡を歌いはじめ(カラオケにしっかりと入っている)、他の学生達も唱和する様子を見て驚いた事があったが、最近ではそのような光景は見られない。薄れゆく方言の中でも「でーじ(非常に)」や「わじわじ(腹が立つ)」などは比較的最近まで残っていたように思うが、これもこのところほとんど耳にする事はない。「わじわじ」というどこか優しさを感じさせる言葉は「むかつく」に置き換えられてしまった。
 幸い私の学生達は、それでもなお私の「まなざし」から見れば、本人達の自己認識とは異なり、本土の若者達とは違った優しさ、素朴さを残しているように見える。しかしそれは私の大学に通う学生達が沖縄でも裕福で、幸福な境遇に育ったものが多いからに過ぎない。
 本年(二〇〇四年)三月一一日付の『琉球新報』によれば、「沖縄県内で二〇〇三年に発生した略取誘拐(未遂含む)の人口一万人当たりの認知件数は、全国一多いことが分かった」とある。殺人の一万人当たりの認知件数も全国一になっているほか、暴行、傷害、脅迫、恐喝などの粗暴犯の一万人当たりの認知件数も大阪に次いで全国二位になっているのだ。
 こういった問題が生じた事については多様な要因があろうが、戦前、占領下の遅れを一気に取り返すための、ここ三十年間の急激な社会変動、共同体のあまりにも急速な解体・都市化が関連していることは明らかである。それに全国的な不景気の中での突出した若年失業率が拍車をかけている。沖縄は悲鳴を上げているのだ。
 かかる状況下において、テレビドラマを内面化して、「いい沖縄人を演じる」など、あまりにも暢気な認識であるといえよう。が、このような認識が生じてしまうのには、理由がある。
「明るい沖縄」に対するもう一つの危機感として、これらのイメージが「基地問題」を隠蔽してしまうという立場がある。確かにこういったイメージは特に本土の視聴者に、沖縄は幸福な島であるという認識を与え、「基地問題」を後景化させてしまうという恐れはある。しかし同時にこれらのイメージによって、視聴者の沖縄へのシンパシーが高まり、仮に今後再び沖縄で重大事件が生じた場合(無いに越したことはないのだが)、かつてより大きな世論を喚起できるかもしれないのである。
 問題なのはむしろ沖縄の識者、マスコミが、あまりにも「基地問題」ばかりを重要視するため、他の様々な矛盾、問題点が隠蔽されてしまう点にあると思われる。さすがに昨年発生した中学生殺害事件(裁判では傷害致死と認定された)は沖縄に大きな衝撃を与え、県内マスコミもかなり力の入った特集を組んだ。しかしそれも一時的なものに過ぎず、再び基地中心のシフトに戻ったようである。繰り返すが、「基地問題」は今なお深刻である。しかし多様な文化的問題を全て「基地問題」に収斂させるのは行きすぎであろう。

「明るい沖縄」という表象は、現に生きられる沖縄ではなく、失われた、もしくは今も刻々と失われつつある「沖縄」の表象である。それゆえなによりもそれは「オバア」によって代表される。平良とみの演じる「オバア」は、確かにデフォルメをうけてはいるものの、実際に私はあのようなタイプの「オバア」の何人かに会った経験がある。
 バスの後の席から、「ニーニー、襟が曲がっているサア」といきなり手をのばして直してくれた?「オバア」。小さな商店に入ったとき、一万円札のおつりが無いというので、「また来ます」と言ったところ、一見の客である私に対して「お金は今度でいいサア」と商品を渡してくれたオバア。いわば私は身体化された「共同体」をかいま見たのである。
 ただしぼけずに何時までも元気な沖縄の老人、というのはそれこそイメージに過ぎず、長寿社会の必然として沖縄の痴呆性老人率は他府県より高い(鈴木信『データでみる百歳の科学』大修館書店、二〇〇〇・二)。さらにこれもまた必然的な事だが、沖縄の女性が年をとると自然に「オバア」になるわけではない。
 現在生きている「オバア」がおそらく最後の世代であり、貴重だからこそ、『沖縄オバァ烈伝』(双葉社、二〇〇〇・一)のような企画が、全国的にも大ヒットしたのである。我々は既に近代化という道をはるか昔に選択してしまっており、もはや後戻りは出来ない。しかしそれだけが唯一の人間の生き方だったわけではない、ということを「オバア」達はその存在によって証明している。具体的な日常生活の中で、彼女らに出会えた事を私は幸福に感じている。それゆえ、私はこのような生活が消滅してしまうことを惜しむ。しかしそれこそまさに「オリエンタリズム」であり、沖縄の行く末はウチナーンチュが決めるのである。

   四、おわりに

 少なくとも沖縄を論じるに際して「まなざしの暴力」などというステロタイプをそろそろ捨てるべき時に来ている。メディアが多様化した今日、たったひとつの表象が、広範な影響を与えるなどというのは、明らかに時代錯誤である。興味があればまなざせば良いのである。意図的に捏造された「まなざし」ならば、生きられる沖縄に逆襲されるだろうし、多様なイメージは相互に反響しあい、イメージ同士が議論しあうだろう。
 まだ描かれていない沖縄が多様に存在する。それは例えばナイチャー、ウチナーンチュ、米兵の子供達が集う無認可保育園で、どんな人間関係が生じているのか、であってもいいし、一方で基地問題の陰に隠れて、沖縄でどのような困難が生じているのか、えぐり出す視線であってもいい。
 たとえステロタイプであっても、その危険性を糾弾する事はほとんど意味がない。ステロタイプは何よりも、生き生きとした別のイメージに弱いからである。

 私自身はもうしばらく、沖縄を生きながら、楽観主義にも悲観主義にも陥らぬように、沖縄を「まなざし」ていきたいと思う。





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