|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
思考実験 [全265件]
おきなわ文学賞の表彰式があった。 小説一席の本明さんは、小説も良かったがスピーチの時も、本当に女子中学生がそのままの感受性で大人になったような方で、素晴らしかった。今年から知事の代理は平田大地氏になり、見ごたえのある挨拶であった。 今年もゼミ生が詩で佳作をもらった。私のゼミらしくやや理屈ぽいwのだが、いわゆる琉球文化に疎 外された若者の欠落感という斬新なテーマで、なかなか良かったぞ。詩の二席をとった高校生はうちの大学に進学が決まっており、文芸部に入ってくれるそうである。楽しみである。 なお『はなうる』の選評をみて、このページを訪れた方へ。小説の最終選考に残った作品を再掲すると 「こころの出窓」「定時制課程」「娑婆気」「孤独の森」「星降る島」「雲男」「トシさんの赤いパンツ」「白梅の香りにのせて」「バナナちゃん」「それぞれの島」 これらのすべての作品について、簡単ではありますが、言及しています。 http://plaza.rakuten.co.jp/tohno/diary/201112030000/ http://plaza.rakuten.co.jp/tohno/diary/201112040000/ http://plaza.rakuten.co.jp/tohno/diary/201112060000/
今日わかったこと。 (1)現在沖縄の図書館等に所蔵されている当時の「沖縄新報」は同じバージョンであり、県内でこれ以上探すのは困難だと思われる。 まあ2,3日の調査で見つかるぐらいなら、とっくに誰かが見つけているわけであり、案の定ではあるが、これほどまで希少だとは思わなかった。『那覇市史』の「新聞集成」なども全く同じバージョンである。 実際沖縄戦の被害はそれほど甚大であり、紙の資料はほとんど燃えてしまっている。現在存在する資料の大半は、国会図書館等、本土の図書館所蔵のものを用いて復刻したり、また他府県にいた県出身者が所蔵していたものなどを、岡本恵徳氏や仲程昌徳氏その他先人たちが丹念に回復させたものである。これに倣い私は3月下旬に東京に行って探すつもりであるが、「沖縄新報」については、それ以前の資料よりもはるかに困難が想像される。 というのは昨日の比嘉のメモに見るとおり、無事に本土まで運ばれなかったケースが想像される。その場合、発見は困難というとか、絶望的になってくる。 (2)「沖縄新報」の再開そのものは予想よりも早く、10月14日か15日には復刊にこぎつけたと考えらる。 これは今日気づいたのだが、「沖縄新報」にも他の新聞同様「通巻」すなわち通し番号がある。私の計算ミスがないとすれば、11月14日発行の分は何も無かった場合1398号になるはずである。しかし現存する11月14日号は1395号である。ということは発行できなかったのはわずか三日分ということだ。 仮にこれが正しいとすれば、現存する資料が11月14日から始まっている理由も説明できる。 (仮説)現存する資料より前の便で、10月14日から11月13日までの一箇月分は発送された。しかし何らかの理由で(貨物船撃沈など)、比嘉のもとには届かなかった。その事実は送り主にも受け取り主にも把握されず、翌月分11月14日から12月13日分が発送され、これは届いた。 以上の想定が正しい場合、11月4日なり5日なりの新聞は「発行」はされたと見てよいと思う。つまりもともと存在しない、ということは考えにくい。 (3)これは上記二つのの推測よりははるかに精度が落ちるのだが、一応記録ししておく。「考察」である。 梅沢氏の証言の三つの要素を満たす事実があったとは考えにくい。 三つの要素とは「19年11月3日であること」「知事が参加したこと」「警察消防を含む大規模なものであったこと」である。 まず時期についてであるが、十・十空襲の被害は甚大なものであったが、官僚機構は壊滅したわけではなかった。『那覇市史』など見るとこの時期の記録は相当詳細に残っている。仮にそれほど大きな公式行事があれば「沖縄新報」のみならず記録に残っていると思われる。だが今のところそれを示す資料はない。 次に「知事」である。これは現在まだ調査中で諸説があるのだが、当時の知事だった泉守紀がこのような大会を招集したとは現時点では思えない。泉知事は就任当初から一刻も早く沖縄を出ることを画策していた人物であり、軍部とも対立していた。実際には昭和二十年一月にまんまと香川県知事に就任し、1984年無事86才老衰で大往生している。十・十空襲以後は特に精力的に運動しており、こんな集会を招集するとは思えないのである。 次の島田知事ならありうる。島田知事はそもそも死ぬことを前提に来沖しており、実際20年6月に大量の県民を失った責任から文民でありながら自決している。現在も夏の野球県大会を制すると島田杯が授与される。興南高校は島田杯を手に甲子園を制したのである。 警察・消防等については、11月上旬にこのような大規模な集会を余力はなかったと思われる。那覇市役所が仮事務所をようやく作るのは11月中旬である。 そもそも梅沢証言のこの部分は戦後かなりたった伝聞である。19年ではなく18年であったとか、明治節ではなく紀元節であったとか、多様な可能性を想定しつつ調査を進めるべきだと思われる。(この項、ひとまず終わり)
昨日の書き方は予断をもって受け止められるような書き方だったようである。反省している。あらかじめ述べるならば、11月3日集会は現時点ではあったとも、なかったとも断定できない。 北中城図書館所蔵の「沖縄新報」合冊は、11月14日以降のものであった。一切解説が無いので、憶測も入るのだが、この合冊は「比嘉」という人物の所有物を写真製版したものである。別の場所にまるで囲まれた「潮」というサインがあるので、比嘉春潮の所有物だったのではないかと推測する。当時比嘉は東京に暮らしていた。冊子の途中には鉛筆書きで、次のような趣旨のメモがある(大意)。 十・十空襲以降、郵便の往来が途絶えた(おそらく東京との間)。 12月末頃から、ようやく郵便物が復旧した。 1月4日に、11月14日~12月13日分が一気に送られてきた。いつ再開されたかわからないが、この少し前ではないか。 11月14日が再刊初日では無いという見方には私も同感である。もし初日なら何らかの挨拶が想像されるが、14日付にはそのような文言は無い。ではなぜ14日分からなのかは、今のところ全く見当がつかない。 私は昭和19年の11月というのが、十・十空襲の直後だという事実をすっかり忘れていた。しかし写真版とは言え、以前のものと比べると、活版のコンディションなどが、極端に悪化している。空襲で沖縄新報は一度壊滅的な打撃を受けたと見て間違いない。しかも11月半ば以降になっても、ようやく事業を再開した企業等の告示が相次いでいる。 11月3日について、今、確実な出来事は、空襲後普天間に移った県庁機能が那覇に戻った日である。全市の9割以上を焼き尽くした被害から、ひと月弱で県庁機能を戻したのだから、随分早いと言える。そしてこの時期のトピックとしては、それまで疎開に難色を示していた県民が急激に疎開に申込み始めて役所はごった返した、ということである。 さて、このような状況下の那覇で、果たして全県的な集会が可能だったのだろうか?逆にいえば、こういう状況だから、開く必要があったとも言えるのだが・・・。 ちなみに集会の開かれたとされる護国神社もしくは波の上神宮は、十・十空襲時点の被害は限定的であり、開催が不可能というほどではないと思われる。 県立図書館の蔵書目録を見ると「沖縄新報 昭和19年11月14日~昭和20年2月27日」というのがあり、これは私が見たものと同じものであろう。もう一つ「沖縄新報 マイクロ複製本 昭和19年11月~20年2月」というのがあり、私のこれまでの研究経験からいうと、これも同じものの予感がぷんぷんするのだが、そういう予断を排して調べることを研究という。あす息子の参観日が終わったら行ってきます。(つづく)
一体何のことやらと思われるかもしれない。どこから説明すべきなのかも難しいのであるが、これはいわゆる「集団自決」(当時はそんな言葉ありえないのでいわゆるという)関連の話題である。 現在沖縄では二転三転を経て、「集団自決」は軍命によってなされた、ということになっている。これは沖縄県民の総意である。多数がそう思う以上、事実はそうあるべきである。・・・・歴史ってそういうものなのだろうか? 私は歴史がどうあるべきかとは考えない。私が知りたいのは単純に歴史がどうだったのかということだけである。 軍命があったという主張の典拠は「鉄の暴風」という書籍である。これによると座間味部隊隊長の梅沢少佐はとっくに死んでいることになっている。だがこれは間違いである。少なくとも2009年時点で梅沢少佐は生きている十分な証拠がある。 http://www.youtube.com/watch?v=Pn3MqD_9Fdk&feature=relmfu 私の目には、この人物が亡霊とは思えない。どう見ても生身の人間である。しかもこの一連の主張は説得力と迫真性があり、嘘をついているとは思えないのである。ただ疑問点もある。この動画の11分以降に展開する「昭和19年11月3日の沖縄県民集会」である。仮にそのような集会が本当にあり、そこで米軍が上陸するような状況になれば、老人・女・子供は自ら死ぬという申し合わせが本当にあったとするならば、沖縄における「集団自決」の原因は非常に明瞭である。実際日本軍の関与が希薄であった読谷でも「集団自決」は起こっているのである。 この集会の存在については、既に桜井よしこ氏のブログにも書かれており、 http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/08/06/ ここでは「消えた沖縄新報」と論じられている。「沖縄新報」とは1940年12月20日一県一紙化の指示にともない「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」の三紙が統合した新聞である。通常出典と日時が明らかな場合史料の特定は容易である。要するに昭和19年11月3日以降の「沖縄新報」を見つければいいのである。 沖縄県立図書館の県内横断検索によれば「18年及び19年沖縄新報」は北中城図書館にあるのである。で、熱が下がった私はでかけてみた(続く)。
水曜から高熱が出て、ようやく本日平熱。これで土日平熱が続き月曜病院で検査しないと、私の場合職場にいけない。この時期休講は日程上やばいのである。まあ多分大丈夫だと思う。これまで子供がもらってきても自分は大丈夫だったので、タカをくくっていた><。 健康第一である。
橋下市長が市幹部に国旗尊重の指示を出したようである。来る今年の卒業式に、国歌斉唱の遵守を徹底するため、まず隗より始めよ、ということなのであろう。橋下氏の政策は一貫しており、公務員という職業を選んだからには、おのれの思想や良心を時には犠牲にしても、全体の奉仕者たるべきである、ということである。確かに、この主張は極めて妥当である。誰しも職業選択の自由があるのだから、公務員という職業を選んだ限りにおいて、時には個人の自由意思を抑えて、業務を遂行すべきである。現在日本には君が代を歌うことが無い職場は数えられないほどある。 その一方、君が代斉唱を強制することは、君が代が持つ価値を損ねることになりはしないか、と思う。君が代は面従腹背によって歌われるべきでない。処分が恐いから歌う、ということは君が代そのものの価値を貶めてしまいかねない。君が代を歌いたくないない人は歌わない、起立もしない、しかしそのような国民も許すのが君が代である。 またこの議論で欠けているのは、高校生たちの意思である。中学生にはまだ難しいと思うが、高校生ならば、ある程度自分の意思を表明できるだろう。先生達に歌って欲しいのか、座ったままの先生がいてもいいのか、そんなことどっちでもいいのか。 高校生達にとって卒業式は、場合によっては最後の君が代斉唱である。というのは、大学の入学式卒業式で国歌斉唱は稀だからである。私の経験では、千葉大学では国歌斉唱のプログラムはなかった。今はやってるのかな。都立大学(現在 首都大学)では私の在学中総長は、殺されても君が代は歌うべきではないという立場の山住先生であったから、君が代など歌えば処分されるかもしれない状況であった。 今ネットで高校生の意思を確認できるのは、所沢高校の卒業式に関する記述位のものである。 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/5931/sankei12.html この記事の中で特に興味をひかれるのは、ある高校生の次の主張である。 「生徒会は『日の丸・君が代の強制に反対だ』と言っているが、結局僕たちに『反対すること』を強制しているんじゃないか」
君が代の問題というのは、結局は憲法一章の問題である。小学校学習指導要領の解説には次のように書いてある。 国歌「君が代」は、日本国憲法の下において、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であることを理解できるようにする必要があります。 もっと読点などをいれ、分かりやすく書きましょう、と指導したくなるような文であるが、内容は妥当である。従って君が代を否定する人は、日本国憲法を否定しているのである。一方で君が代に反対する人々は、大抵は自らを護憲と言っている。改正に反対するなら、まず自分が守るべきである。しかしイデオロギーに捕らわれてしまうと、自分に都合の悪いものは見えなくなってしまう。彼らの憲法はなぜか9条から始まっているのである。 私は学校で憲法の3大原則というのを教わった。今も同様のようである。しかしそうじゃないだろう。4大原則と考えるべきである。 1.象徴天皇 2.国民主権 3.基本的人権の尊重 4.戦争放棄 このうち2と3は、近代ヨーロッパで練られて来た原則であり、現在これに強く反対する人はほとんどいない。これに対して1と4は日本独自のものである。 実は国民主権については、明確な条文は一条と前文にしかないので、一条は国民主権が中心だなどいう意見もあるが、いんちきである。なぜなら第一章天皇と書いてあるではないか。 一般に憲法一条というのは、その国がその国である所以を述べる部分である。日本というのはなぜ日本であるのか。その国家と国民統合を象徴するのが天皇なのであるから、統合した国民と一体化した天皇こそ、日本が日本たる所以である。 従って一章は、後続するあらゆる部分を超越している。例えば天皇には職業選択や移転の自由はない。また第2条「皇位は、世襲のものであつて」は第14条「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により」と完全に矛盾しており、というよりも超越している。 これは一見矛盾しているようだが、そうではない。第一章はいつ始まったのか分からないほどの昔から、長く続く我が国を引き受けており、第二章以降は現在を生きるわれわれの、国家の仕組みを引き受けているのである。 最近天皇制廃止の立場から、いわば同情的廃止論みたいなのがある。これなどは私も感情的にはぐらっとしかかる部分がある。例えば昨日引用した「強制になるということでないことが望ましいですね」など、国民の自由意志を尊重するお気持ちを表現されると同時に、「望ましい」という形で、それが指示や命令にならないようご配慮されている。まさに象徴である。 皇后陛下も被災地御訪問のおり、命からがら助かった人の話に「良く助かってくださいました」とおっしゃったのにはぞくっとした。これは普通家族の感覚である。民間出身でいろいろお悩みもあっただろうが、今ではおそらく、ごく自然に振る舞われることが象徴たるにふさわしい域に達せられているのだろう。 これに対して東宮殿下については、同世代故に非常に複雑な感情を持つ。自由気ままに生きる国民生活を熟知しながら、やがては天皇に即位される。ましてや皇室にお入りなって日が浅い妃殿下は、ちょっと前までは基本的人権をもった国民だったのだから、あのバッシングはないだろう。 |一覧| |