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小さい花のミクロの世界へ

小さい花のミクロの世界へ

【ガーデニングライフ】---(掌説1)

        
【ガーデニングライフ】


 数えで74歳になる秀次郎は、庭の手入れが唯一の趣味である。横浜の外れにこの家を手に入れてから、早いものでもう38年になる。猫の額のように狭い庭ながらも、季節の花を植えて彩りの変化を楽しみ、土のにおいに心を休めることができる。
[猫の額]ほどとはいうものの、東北隅の玄関脇にはシンボルツリーの柳も植えてある。小さな白い柵で囲んだ植え込みでは、キンセンカが夏の日を浴び、早咲きのコスモスが淡いピンクを風にそよがせている。
 草取りの後で、柳の木陰に置いた小さな白い椅子に腰をおろし、無我の心地で道行く人を見やるのが、晴れた日の日課のようになっていた。

 八月中旬のこの日も、秀次郎はそんな無我の気持ちで、一休みをしていた。花の間を飛び回るアブの羽音が、遠く近くを、いきつ戻りつする。そのまま、スーッと遥かな昔に意識が遡っていくような気持ちになる。
 こんなことが、前にもあった。そう、あの頃は楽しかった。妻のテイも、やさしく微笑みかけてくれて、今日の出来事や近所のことなどを、よく話してくれた。
 あれはいつごろのことだったのだろう。

 そういえば、今日はテイはどこに行ったのだろう。いつごろ帰って来るのだろう。いつもなら自分も買い物に付き合うのに、どうしてここにいるのだ。焦点が定まらない視線を、道路に這わせた。
 買物カートを引いた奥さんが、秀次郎の姿を見つけて、軽く会釈をする。秀次郎も会釈を返しながら、すぐに視線を宙に泳がせる。
『挨拶をするのだから、近所の人に違いないのだろう』
 と思う。知っているような気がするが、誰だったのかを思い出せない。頭の中に霞がかかったようで、気になって仕方がない。
『ところで、俺は何を気にしていたんだっけ。ま、いいか。忘れるくらいだから、たいしたことじゃない』

 もう、挨拶を交わした奥さんのことなど、秀次郎の頭の片隅にも留まっていない。小さな犬を連れた女の子が、その犬になにやら話し掛けながら、秀次郎の目の前を通り過ぎる。
 次に来たのは、幼稚園くらいの男の子を連れた、若い母親である。
「ぼく、疲れたよ。ママ、少し休んで行こうよ。遊ぶときも、ここん家のこの木の下で、いつも休むんだよ。」
「もうすぐお家でしょ。ほら頑張って。」
「やだ、休んでく。あ、ここん家のおじいちゃんだ。おじいちゃん、いいでしょ。」
「もう、我侭ばっかり言って。済みません。」
 その母親は、垣根越しに、秀次郎に断わりの言葉を述べた。
「どうぞ、休んで行きなさい。」
 とはいったものの、この親子も、どこの誰か、秀次郎にはピンと来ない。夕暮れ近くなり、暑さを避けていた人々が、表の通りを行き来し始める。柳の木の下で一休みをした親子も、秀次郎に手を振って帰って行った。
 でもまだ、妻のテイは帰って来ない。太陽が山の端に隠れて、空気の息苦しさが和らいだ。僅かに冷たさの混じる空気が、もの哀しい気分にさせる。このまま妻が帰って来ないのではないかという、不安な気持ちが、秀次郎の心の中で広がる。

 と、道の角を回って、どことなく親しみを感じさせる女性が、姿を現わした。暮れる光に浮かぶ白い顔が、近づくにつれて明瞭になる。妻のテイだ。彼女は、買い物の白いビニール袋と自分で作ったパッチワークの手提げをそれぞれの手に下げて、門を入ってきた。いつものように、和やかな雰囲気を見せて。
 玄関に消えた妻が再び姿を見せたときに、その手に荷物はなかった。敷石を滑るように踏んで、秀次郎の傍らに、テイがふわりと立った。
「暑かっただろう。今日はどこに行って来たんだい。もう夕方になるし、何時に帰るのか聞いていなかったし、心配したんだぞ、心配したんだぞ。」
 すがるように妻を見ながら、心細さを伝えた。テイは、無言で道路のほうを見ている。なぜか、秀次郎に顔を向けてくれない。秀次郎はそのことに気づかずにいた。だがそこに妻が帰って来ているというだけで、大きな安心感に包まれて、ゆったりと満足感に浸ることができた。
「町の様子はどうだったかい。俺は庭の手入ればっかりで、すっかり出不精になっちまってなあ。今までだったら、お前の買い物に付き合って、荷物ぐらい持ってやったのに。重かっただろう、ここまでの坂は結構きついからなあ。」
 傍らにすっと立つテイから、
『そんなことは気にしなくていいのよ。あなたはこの齢になるまでよく働いてくれたのだから、好きな庭仕事をしていてくれれば、私も嬉しいんだから』
 といった心情が伝わって来る。
 顔も見せず、話をするわけでもないのに、秀次郎にはそれがよくわかる。これが長年連れ添った夫婦というものなんだろうな、としみじみした気分で思う。

『でもなぜ、おまえは先に逝ってしまったんだい。俺はここに一人残されて、この先どうして暮らして行けばいいんだか。こうして時々帰って来てくれるからいいようなものの、いつまで続けてもらえるんだか知れないしなあ。俺はいつも、こうしておまえを待っているんだぞ』
 そんなことを思いながら、またテイに話し掛ける。
「この柳を植えたころのこと、覚えてるよな。町はまだこんなに家ばっかりでなくて、あそこには大きな松の木が目印になるような、林があったっけ。ほら、大きな鷲が巣づくりをしていて、子供たちと双眼鏡で見たじゃないか。おまえにも双眼鏡を渡したら、見つけられなくて、『眩暈がするから、私はなにも使わないで見ます。よく見えるら』って……。俺と違っておまえは目が良くて、眼鏡がいらなかったからな。
 子供たちも今はこの家を出て、自分たちの生活があるから、時々しか帰って来ないし。俺は今日も庭いじりだよ。」

 暑かった盆の一日が、日が落ちるとともに爽やかな涼しさに変わっていた。いつのまにか、秀次郎が座っている柳の下も、薄闇が漂っている。足下のむしり取った草山から青い匂いが立ち上ぼり、夕風に柳の枝がさらさらとさざめく。

☆  ☆  ☆  ☆
「おじいさん、 どうしました。みんなで呼んでいたのに、聞こえなかったんですか。もうすぐ花火が始まりますよ。食事は花火を見てからにしましょうって、睦子さんが言ってますよ。」
 庭先から勝手口を回って来たテイが、優しくいたわるように声を掛けた。
「お、そうか。今日は花火大会の日か。今までここにテイが来てくれていたもんでな、すっかり時間を忘れていたわぃ。おまえもこの柳を覚えてるよな、家の目印が何もないからって言って、俺が苗木を買って来て、ここに植えた……。」
「ええ、覚えてますよ。確か梅雨が終わるころの、ちょっと蒸し暑い日でしたね。すっかり大きくなって、おじいさんのお休みにちょうどいい日影ができるようになりましたね。私たちの記念樹になるかも知れませんねぇ。」
「そう、俺とおまえの。あれ、おまえ知ってるよな俺の連れ合いのテイ。本当に優しくて、いつも穏やかだった。」
「おじいさん、私もテイですよ。あなたともう四十年以上も一緒にいる……。」
「うん、それはわかる。おまえは俺の妻だ。ずっと。ところで、知らないかなあ、テイのこと。今さっき買い物から帰って来てここにいたのに、いつの間に行ったのかな。何時になったら帰って来るのかなあ。俺、ここで待ってみるぞ。いいよな、テイ。」
「私なら、今日はずっと家にいましたけど。そうですか、久しぶりに逢えたんですか、よかったわね。またそのうちに逢えるんじゃありませんか。庭で花火でも見ていましょうよ。まもなく孝明も、会社から帰って来るでしょうから。」
 妻のテイは、秀次郎の話を肯定するでもなく、否定するでもなく、家族が集まる庭の花火大会見物に、彼を優しく誘う。
 息子の孝明も、今日は早く帰ってくるという。

「おじいちゃん、花火、始まったよ。早くおいでよ。お母さんと私と崇継だけで見ていても、つまんないよ。おばあちゃんも早くぅ。」
「ほらほら、おじいさん。由貴も呼びに来ましたよ。行きましょ。」
 孫の由貴が、二人を呼びに来たのだ。五歳になる男孫の崇継は、睦子の膝の上に座って、庭で花火を見ていた。
「孝明は、今日は会社から早く帰るのか。花火が終わらないうちに、帰ってくるといいのにな。」

 息子の家族は、親の老いを気遣い、昨年から同居を始めていた。
 秀次郎は、二人の孫を心底から可愛がっていた。賢い跡継ぎと可愛い孫娘ができたことは、このうえない喜びであり、知人への自慢でもあった。孫に対しては別人のように優しくなった秀次郎だが、孝明が子供の頃にはよく叱りつけて、煙たがられていたことも承知している。
 別居した息子たちに、いまさら同居してくれとは、自分からは言いだせなかった。
 七年前に、結婚をきっかけにして家を出て行かれたときには、『ついに来るべきときが来たか』という思いがして、胸が締め付けられるような寂しさを覚えた。
『これからは、テイと二人だけの生活になる。孝明が産まれてからの二十八年間は、いつも親子三人が一緒だった。これから寂しくなりそうだ』
 と思うとともに、息子を奪われた恨みを、嫁の睦子に抱くこともあった。それとなくテイにその気持ちを伝えても、『時々遊びに来てくれて、みんなが元気なら、それでいいじゃありませんか』
 と言われるのがいつものことだった。普通は女親のほうが息子を盗られたと思いがちなのだろうが、テイの本心はどうなのだろうと、秀次郎は訝しい気持ちだった。

 家の跡継ぎが出て行ってしまったというショックが、同居を始めた今も、秀次郎の心に刻み付けられている。子供に対して、もの分かりがよすぎるテイの態度に対しては、自覚せずにどこかに不満が植え込まれて、夫婦の気持ちに隙間が生
まれていたのかも知れない。
 だがどれもこれも、秀次郎にとっては無意識のうちのことである。

「あ、おじいちゃんとおばあちゃんが来たよ。崇継、ほら。」
「おじいちゃん、花火、きれいだよ。何してたの、早くおいで。」
 崇継の小さな手が、夕闇の中で白く、蝶が舞うように秀次郎を招いている。秀次郎は、縁側に腰をおろした。孫の崇継は、睦子の膝から飛び降りて、祖父の膝に移って来た。やわらかい子供の温もりが膝を通して秀次郎に伝わり、ミルクの香が残るような幼い匂いが、彼を幸せな気持ちにさせた。
「家の庭から毎年見られた花火も、今年が最後になりそうですよ。あそこに今度、マンションができるそうですから。」
 昔と変わらず、テイが近所の情報を、秀次郎に話して聞かせた。
 高層マンションが何棟か建てられるために、来年からこの自宅の縁側からは、花火が見られなくなるというのである。二十五年ほど前から、毎年家族で、この縁側から花火大会を楽しんで来た。
 昔は秀次郎の息子の孝明が、孫の崇継が今そうしているように、ちょこんと膝の上に座って花火を見ていた。現在、その孝明の姿がこの場に見られないのが寂しい。
「そうか、最後の花火か。孝明も早く来てみればいいのにな。」
 この花火の記憶も、何かの音や光とともに、鼻腔の、そして耳の奥から湧き出るように、秀次郎の意識の中で、いつの時にか思い起こされるのだろうか。
『また柳の下で待っていて、テイが還って来たら、もう花火を見られなくなることを教えてやらなくちゃ』
 不思議なことに、秀次郎は幻の妻の存在を、なぜかまだ覚えている。
「最後の花火だから、よっく見ておかなくちゃね。」
 隣で、テイが名残惜しそうにつぶやいている。
 いつのまにか、秀次郎の後ろに孝明が立って花火を見ていた。
「ばあさん、この子たちはいつ帰って行くのかい。みやげは用意してあったかなあ。忘れないで持たせてやってな。今度はいつ来てくれるのかな、楽しみにしてるよ。」
 秀次郎はテイの顔を見つめて、言い含めるように伝えた。
 孝明が子供たちを迎えに来たのだろうと思ったのである。
「皆おじいさんが大好きで、ずっと家にいてくれるそうですよ。良かったわね。」

 テイは、秀次郎の意識の中で、自分たちが若かったころと数年前のこと、現在のことが入り交じっていることを、よく理解している。
 孝明夫婦も、父親がたどり始めている状況を、冷静に認めている。初めに父が家族の顔を忘れたときには、冗談かと思った。だが冗談ではなく、
『ここにいる孝明は息子の孝明だが、さっきは別の孝明がいた』
 と言ったかと思うと、
『おまえは孝明のような格好をしているが、本当は誰なんだ。孝明はどこにいる。由貴の偽者がこの家に入り込んでいるぞ。孝明、おまえも気を付けろよ』
 と言ったりする父の表情を何度か繰り返し見て、秀次郎が引き返せない老人性痴呆の状態に踏み込んだことを、認識したのである。それからは、孝明夫婦は話し合って、
『どんなことがあっても父母と、最期まで一緒に暮らそう』
 と、強く決めたのである。
「うん、そうか、そうか。ずっと、か。家の子になってくれるといいな。」
 二人の孫が孝明に連れられて別居先に帰って行くときの哀しさが、秀次郎の心に染み付いている。口調の端には、
『また可愛い孫と別れなければならないのではないか』
という思いが窺われる。
 強がってはいたが、二年前まで繰り返された 孫、子との別居]は、秀次郎の寂しさを、庭の植木よりも大きく育て上げていたのである。

 秀次郎の意識の中では、過去の積み重ねと現在とが、混沌としている。庭の小さな小さな築山は、懐しい自分の田舎をイメージして造り上げたものである。孝明の誕生記念に植えた金木犀は、庭の南隅でよく手入れされた大樹になり、梢で夜の蝉が、ジジ…ジッと寝惚け声を出す。

 夜空を震わせて、最後の花火が光の尾を散らせた。
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