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第九章
港区のとあるマンション。 日本での生活が営まれる処で、防音壁に囲まれたピアノの練習室を兼ね備えていた。 ウイーンから戻った梨華は、次のコンサートにむけてチャイコフスキーのピアノ協奏曲を、 弾いている。ふと指をとめた梨華は窓辺をみやった。ニューヨークの摩天楼に比しては 寂しい限りだが、東京タワーの灯りがなぜかほっこりと心に浸みた。そして、指は鍵盤を なぞり、このようなメロデイーが・・・・
ピアノがすべてであった梨華の心に、忍び込んできたのは飛鷹への想いであった。 パーテイーで飲んだワインの酔いもあったのだろう。でも初めて抱かれた時、これまでの 男とは全くちがうものを感じた。繊細な心遣いと裏腹に、熾烈なビジネス界で戦う、野性味 溢れる男くささを・・・
世界を駆け回って演奏を続ける梨華と、ニューヨークで多忙を極める飛鷹とが逢えることは、 それほど多くはない。逢えたその時を楽しむというドライな考え方が、逢瀬を重ねるごとに 離れていても飛鷹のことを、あれこれ思いをめぐらすようになっていた。
結婚し家庭をもつことが自由な恋愛を束縛し、奈落への道につながる結末になる事を、冴子の 死 から梨華は教えられた。これまでプロポーズされたことは、幾度かあった。しかし、梨華が 首をたてに振ることは決してない。 でも、飛鷹からそうされたら・・・ いやいや、そんなことはありえるはずがない・・・
今度は、シカゴ交響楽団との共演である。 アメリカの五大オーケストラの一つに数えられるが、1969年ショルテイが音楽監督に 就任して以来、世界的にも有名になり第 2 黄金時代を築き上げたと言われている。
演目は梨華の希望通り、チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番で、指揮は第10代音楽 監督のリカルド・ムーテイ。 この曲は、1874年チャイコフスキーが作曲し、モスクワ音楽院院長のニコライ・ルービン シュタインに聴いてもらったところ、酷評を受けたピアノの弾き手にとっても難曲である。 伝統的なスタイルとはかけ離れているが、随所に魅力的な旋律や斬新な工夫が見られる。
マルタ・アルゲリッチの再来と、音楽界では言われている梨華には、この曲に思い入れが あった。それは、1994年ベルリン・フィルと彼女が共演し、縦横無尽自在に弾いた その奔放を極め絢爛たるテクニックに、感動を覚えたのであった。それを超える みずみずしいタッチの演奏が、はたして梨華に出来るかどうか、彼女自身の挑戦でも あったのだった。
8 時間以上ピアノに向かって疲れはてた梨華は、ふと外の空気を吸いたくなった。 路地裏に赤提灯の居酒屋がある。時々顔をだすので、亭主とは顔なじみである。
( 梨華ちゃん、らっしゃ~~い!! ) 焼き鳥の香ばしい匂いとともに、威勢のよい声が梨華を迎えた。 居酒屋には相応しくないその容姿に、カウンターの酔客の目が一斉に注がれた。でも、 国際的なピアニスト武田梨華であることに、気づくものはいなかった。
( いつも通りぬるめの燗で、お願いね・・・ ) ( あいよ!!! ) 店内には八代亜紀の舟唄が流れている。
(^^♪ お酒はぬるめの燗がいい~~~ 肴はあぶったイカでいい~~~ (^^♪
女は無口な人がいい~~~~、か・・・・ 梨華はポツリとつぶやいた。 ニューヨークの居酒屋で一人演歌を聴きながら、飛鷹も望郷の念にかられているの だろうか・・ シカゴでの演奏会終了次第、飛鷹に逢いに行こう・・・・
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