カテゴリ:ぶらりとお出かけお泊り
毎年、自分の誕生日に合わせて
ほぼ恒例になっているイルミネーション&東京見物 今回は欲張って色々歩き回ろうと思ったから フリーきっぷを購入! こちらは都営地下鉄、都バス、都電荒川線、日暮里・舎人ライナーに加え 東京メトロ(全線)、JR線(都区内)を 1日何回でも乗車できる優れもの!1,580円也♪ 今回は昼は全く無計画。 とりあえず混む電車には乗らないというのを前提に うろうろ電車を乗りまわし、 思いつきでやって来たのが目黒 行きはヨイヨイ帰りはハードな行人坂を 下る途中に辿り着いたのは 松林山 大圓寺 寛永年間、湯殿山修験道の行者大海創建に始まるこの寺。 1772年2月に発生した大火(明和の大火=行人坂火事)の 火元となった寺であった為、 江戸幕府から再建の許可が得られなかった。 江戸時代後期の1848年になって薩摩藩主島津斉興の 帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建される。 天台宗、本尊は釈迦如来 大黒天を祀り、山の手七福神のひとつ (ウィキペディアより抜粋) 金箔がはげたの?!と思いきや、逆~ 薬師如来像の部位に、自らの悪い箇所と思われる所に 金箔をはって、御真言をとなえて祈願すると ご利益があるというお話。 祈願された方に多いお悩みの場所はピッカピカ ドキッとする・・・これがお地蔵様?! 江戸時代に品川沖で漁師が海から引き上げたもので、 悩み事をとろけさせてくれるという その名もとろけ地蔵 とろける悩みかぁ~フフフ~ 1回まわすとお経を1遍となえた事になる摩尼車 心を込めて祈りましょ、南無ぅ~ 大圓寺から出火した炎は南西からの風にあおられて勢い付き、 江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、3日間江戸が燃え続けた。 日本橋地域は壊滅状態になり、類焼した町は934、 大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数え、 死者1万5千人、行方不明者は4千人を超えた。 (ウィキペディアより抜粋) 行人坂の大火と呼ばれる、明和9年の大火事です。 この火事の犠牲者を弔う為に、 石工が50年もの歳月をかけて完成させたもので 釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る石仏群、約520体が 境内左手の斜面に見られます。 五百羅漢像には木彫と石彫がありますが、 苔と同居した様な石彫の羅漢さんの方がいいなぁ~ ココは手前の羅漢像しかお顔を拝見することはできないのが残念 人物画は描いた人に似るとか言うでしょ、 こういった羅漢さんや仏様もきっと つくった人に似るんじゃないかなぁと思うのだわ ちょっと頑固親父風な羅漢さん・・・ 目黒には大圓寺の五百羅漢の他にも 五百羅漢寺というのがあります。 どうやら木彫で有料・撮影禁止なので私はパスでした。 境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像 (国重文)は、 鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、 胎内に 五臓六腑がおさめられている。 生身(しょうじん)と読む大圓寺のご本尊。 一番近いご開帳は大晦日から正月7日の松の内 一度見たいと思うお方はお出かけになるのもよろしいかと 大圓寺はまた、浄瑠璃、歌舞伎などでも有名な 八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもあります。 八百屋お七と言えば 恋する人に会いたい一心で放火事件を起こし 江戸市中引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられた~ なんていうのは子供の頃から聞いた事のある話。 そんな彼女が恋した吉三がお七の死後、 出家して名を西運と改めてからの足跡がココに存在します。 大圓寺 阿弥陀堂 本堂右手の阿弥陀堂 諸国を行脚、後に大圓寺を下った隣り、 現在の雅叙園の敷地の一部にあった明王院に身を寄せ、 27年の歳月をかけた念仏行中に集まった浄財で 明王院境内に念仏堂を建立。 後に明王院は廃寺になり、仏像などは大圓寺に移された。 明王院の名残、それがこの阿弥陀堂 ここには阿弥陀三尊像(区指定文化財) お七地蔵尊、西運の上人の木像が安置 西運は、江戸市民から受けた浄財の寄進により 目黒川に石の太鼓橋を架けたそうで。 当時使用された石材は寺の境内に存在。 こちら手前が現在の太鼓橋 川沿いに並ぶ桜の木、季節が季節なら見事だろうなぁ~ 目黒雅叙園 昭和の竜宮城と呼ばれた東京目黒の目黒雅叙園 一度は館内に入って百段階段を見て見たい お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年12月21日 21時27分43秒
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