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カテゴリ:古典シリーズ
今日は平家物語から「忠度の都落ち」をお送りいたします。

保元・平治の乱の後、平清盛が政権を握り、一門は栄華を極めました。
嫡男重盛の死後、清盛は三歳の孫を天皇としました。
その専横に源三位頼政が挙兵して失敗しましたが、
人心は平家から離れました。

ついで、源頼朝、木曾義仲、源義経も挙兵します。
義仲は東山・北陸道を攻め入りましたが、平家は平維盛、忠度を
大将軍に軍兵十万余騎を結集、しかし、越中の倶利伽羅谷で
義仲の奇襲にはまり、敗走します。

義仲は頼朝に先んじて京に迫りました。
寿永二年(1183年)七月、ついに平家は安徳天皇を奉じ、
都落ちを決意します。

本文を載せておきます。

<本文>
薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、侍(さぶらひ)五騎、童(わらは)一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条 三位(さんみ)俊成卿(しゅんぜいのきやう)の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度」と名のり給へば、「落人(おちうと)帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守馬よりおり、みづから高らかにのたまひけるは、「別(べち)の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、この際(きは)まで立ち寄らせ給へ」とのたまへば、俊成卿、「さることあるらん。その人ならば、苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門をあけて対面あり。事の体(てい)何となうあはれなり。
 
 薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承つて後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二、三年は京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふあひだ、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命、はや尽き候ひぬ。撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙(かうぶ)らうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存じ候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」とて、日ごろ、詠み置かれたる歌どものなかに、秀歌とおぼしきを、百余首書き集められたる巻物を、今はとて、打つ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、鎧(よろひ)の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。

三位、これをあけて見て、「かかる忘れ形見を賜りおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御(おん)疑ひあるべからず。さても、ただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押さへがたう候へ」とのたまへば、薩摩守喜びて、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ憂き世に思ひ置くこと候はず。さらばいとま申して」とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒を締め、西をさいてぞ、歩ませ給ふ。三位うしろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途(せんど)程(ほど)遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す」と高らかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残り惜しうおぼえて、涙を押さへてぞ入り給ふ。 
 
 その後、世静まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありさま、言ひ置きし言の葉、いまさら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人(よみびと)知らずと入れられける。
 さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
 その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、
恨めしかりしことどもなり。

忠度は都に引き返して自分の歌が書かれた巻物を
歌の師匠の藤原俊成に渡したんですよね。

勅撰集に載せる時が来たら載せて欲しいなんて
お願いしたって言うんですから、
自分の功績を残しておきたかったのでしょう。

でも読み人知らずで載せたって言うオチがあるところも
また面白いところ。

次回は漢文編であれば屈原の「漁父の辞」、
古文編であれば俳論・去来抄より「行く春を」をお送りいたします。





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Last updated  November 22, 2005 10:15:24 PM
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