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売場に学ぼう [全46件]
20日に初著書「ファッションビジネスの魔力」が発売されました。本屋さんで山積みされているのを目撃しましたが、なんとも言えぬ感動、うれしいですね。しかも、ネット販売のアマゾンは初日に売り切れ、追加分が納品されるまで「待ち」になっているようです。発売直前にはアマゾン「単行本」ランキングの230位でした。小説家ではないのでベストセラーになるような本じゃありませんけど、このブログを読んで注文してくださった方のおかげ、皆さんには厚く御礼申し上げます。 数日前、私の兄貴みたいな存在のファッションプロデューサー、大出一博さんからオフィスに電話がありました。受話器をとるといきなり低い声で、「おまえ、水臭いねえ。本出すなんて、俺聞いてないよ。出版記念パーティー、ちゃんとやらなきゃダメじゃないか」と叱られました。本の出版を毎日新聞社に働きかけてくれた元毎日の記者、堤哲さんからの手紙で大出さんは私の出版のことを知ったそうです。堤さんからも出版パーティーの話をメールで誘われていましたが、気恥ずかしいのでそのままにしておきました。自伝のような本、自分のこれまでの生き方を書いたもので皆さんに集まってもらうなんて、申し訳なくて気が進みませんでした。 大出さんにはCFD設立以来何かにつけ助けてもらってきました。私は海外から来たインベーダー、根回し嫌いでストレートなもの言いでしたから、CFD議長時代業界媒体に中傷記事を書かれたときは、首謀者、編集者との間に入って何度も仲裁してくれました。デザイナーたちのあまりのわがままに悔し涙を流した時には、一緒に声をつまらせなだめてくれたこともありました。CFD議長の後任問題で、文化出版局の久田尚子さんを説得する場面では、大出さんの会社、SUNデザイン研究所の葉山保養所に久田さんを呼び出し、一緒に久田さんを説得してくれました。松屋時代の大改装では、ある外資ブランドの導入にひと肌脱いでもらったこともあります。ほかにも、いろんな場面で面倒みてくれた恩人です。 そんな恩人です、出版の話を内緒にしていたわけではありません。大出さんの会社の幹部の方に出版のこと自体は伝言お願いしておいたのですが、あいにく大出さんとその幹部はイベント等で多忙、ずっとすれ違い状態で私の伝言は伝わっていなかっただけなのです。事情がわかれば風の如く一気に動き出すのがSUNデザイン、あっという間に段取りはすべて終了していました。ありがたいこと、大出さんの友情には感謝です。 本にも書きましたが、私は人生三度インベーダーを経験しています。ニューヨークから東京に戻ってCFD、10年間CFDを務めて松屋へ、そしてイッセイミヤケ。どこでも「突然現れた変なヤツ」、そんな視線を浴びながら仕事してきました。当然面白く思わない人たちはいっぱいいたでしょう。でも、私は自分から求めてインベーダーになったのではありません。いつも「来ないか」と声をかけられ、導かれるままに行動してきました。CFD設立の時は三宅一生さんらデザイナーに誘われ、松屋は古屋勝彦社長(現会長)に誘われ、イッセイミヤケはまたまた三宅さんに誘われました。自分の意志で行動したのは、大学卒業と同時にニューヨークに渡る時と、友人の死に直面してCFDを辞めたいと思った時だけです。 子供の頃から、ずっとお神輿のような人生を送ってきました。誰かにかつがれ、誰かに助けられ、そして必ず年長者にアドバイザーがいました。小学校2年生の終業式、担任の饗庭先生に教室に残され、「あなたは学校のリーダーになる子。なのにイタズラばかりしてちゃダメじゃない。もっと自分の役割を自覚しなさい」と説教されたことを覚えています。その後6年生の3学期、学校は私を生徒会長にするためにルールを変更、先生たちの意志で卒業式の主役を務めることになりました。 あれからずっとリーダーの自覚はありましたが、その分非常に生意気な性格だったと思います。あまりに生意気だったので、高校2年生の時、上級生のワルたちに取り囲まれたこともありました。「俺に指1本でも触れたら、えらいことになるぞ」と逆に脅し、後日名古屋の「番長グループ」を学校に呼んでサッカー練習を派手に行い、上級生のワルたちを威嚇したこともありました。大学1年生のアルバイト先では、国士舘大学4年生の数人に路地裏に呼び出されたこともありました。実に生意気でしたから。 そんな男がインベーダーとして現れるのです、普通に考えたら誰でも煙たく思うでしょうね。でもインベーダーはあくまで「仕事人」として誘われているのですから、周囲の目に萎縮していられません。いくつか仕掛けられた穴にドボンとはまりそうな局面は度々ありましたが、いつも支援者、理解者に支えられ、なんとか組織の空気を変える仕事はやってこれたと自負してます。また、自分なりに次世代の人材をたくさん育ててきました。 大出さんのような外部の支援者、私に大きなチャンスをくれた三宅さんや古屋さん、私に「お客様本位」の姿勢を教えてくれた山中さん、やんちゃな海外通信員に目をつぶってくれた繊研新聞の松尾武幸編集局長、そしてどん底の私を救ってくれた雑誌男子専科の志村敏編集長、私は多くの先輩たちに引き立てられ、ここまでどうにか仕事を続けることができました。皆さんからいただいた友情、これなくして今日の私は存在しません。そして信頼関係、円滑に仕事進めるには一番重要、執筆しながらそのことをあらためて感じた次第です。 * * * * <PR> 「ファッションビジネスの魔力」(毎日新聞社刊、1680円) AMAZONで販売中。 ファッションビジネスの魔力 ほかに、楽天市場BOOKS、紀伊国屋書店WEBストアでも販売中。 または、以下の書店でも発売されています。ぜひ読んでください。 <渋谷・青山地区> ・文教堂渋谷店 ・リブロ渋谷店 ・ブックファースト渋谷店 ・青山ブックセンター本店 ・啓文堂渋谷店 ・紀伊國屋書店渋谷店 ・リブロ青山店 <その他地区> ・銀座 教文館 ・ブックファースト銀座コア店 ・丸善丸の内本店 ・丸善日本橋店 ・紀伊國屋書店新宿本店 ・紀伊國屋書店新宿南店 ・ブックファースト新宿ルミネ1 ・ジュンク堂池袋本店 ・有隣堂恵比寿店 ・有隣堂目黒店 ・文教堂赤坂店 ・青山ブックセンター六本木店 最終更新日時 2009.11.24 00:33:40
初出版の案内に対して、かつて私が指導した教え子や元社員からたくさんメールをもらいました。中には数年ぶりにメールをくれた教え子も。みな、それぞれファッション業界や流通業界で活躍しているようで、指導者としては嬉しい限りです。 さて、今週びっくりする業界ニュース。個性的な商品を製造販売して来たグレースの株式会社アイランドがなんとオンワード樫山に会社を売却するとか。これは驚きです。報道にもあったように、グレースは直営店、百貨店内のインショップ合わせて40店舗ほど、会社の総売上から計算すると1店舗当たり年間売上約2億円ですから、国内のブランド事業としては大変成功しているブランドと言えます。いま、1店舗当たり年間2億円の売上をたたき出す国内ファッションブランドはそんなに多くありません。買収する側のオンワード樫山だって、「組曲や「23区」の1店舗当たりの平均売上は恐らく2億円に届かないでしょう。 そんな採算のとれている好調ブランド企業が大手アパレルに売却するとは、どう考えても腑に落ちません。なにか私たちには見えない特殊な事情があるのか、創業者が大きくなった自社の経営とは別の仕事に関心が向いたのかもしれません。ものづくりしたいタイプの人間と、会社規模を大きくしたいタイプの人間とは、同じファッションビジネスでも人種は違いますから。 私自身、CFD議長時代に起業を勧める仲間はたくさんいましたが、私はマーチャンダイジングに従事したいのであって、わざわざ起業してまでそれをしようと当時考えたことはありませんでした。お金儲けしたかったら、自分で会社つくった方がいいかもしれませんが、あの頃はただただアメリカ時代に体で覚えたファッションマーチャンダイジングを実践できる場にわが身を移したい、そう思いました。 グレースの創業者がどういう方なのか存じ上げませんが、ことによると初心に戻ってつくりたいものをピュアにつくれる環境に身を置いてみたい、とお考えなのかもしれませんね。 オンワード樫山は近年ジョセフやジル・サンダーをはじめ、内外の企業買収に熱心です。弱小ブランドでなく、市場で存在感のあるブランド、単店でしっかり売上のとれるブランドを傘下におさめている印象があります。今度のアイランドの買収がどういう経緯なのか知りませんが、これもキチンと単店で売上のとれるブランドですから、企業の総合力アップには有効でしょう。グレースは大手メーカーにはない個性的なブランド、傘下に組み込んでもその強いキャラクターはずっと守って欲しいと思います。 このところ、百貨店幹部と意見交換する際、必ず出る話があります。国内ブランドの同質化、キャラクターのなさです。織りネームをはずしてしまったら、一体どこのブランドかわからない商品が売場に溢れている、と嘆きの声を聞かされます。特に、百貨店のヤングキャリア、キャリアゾーンのこと。ハコ型ショップを構えるなら、ブランドごとに強いキャラクターがなければハコを構える意味がありませんが、昨今の景気の悪さから売れ筋追求でどんどんノンキャラクター化する傾向にあるようです。 だからでしょう、百貨店側はこうしたブランド群をハコ型ではなく、広いオープンスペース(平場)の統一環境の仲で展開しようと試みたくなります。実際、既に平場化している有力店もありますが、今後ノンキャラクターのブランド群は今後統一環境でまとめて展開する方向に進むでしょうね。 強いキャラクターのブランドを統一環境に入れると周囲と馴染まずハレーションを起こすもの、これこそブランドの存在感だと思います。われわれアパレル業を営む会社は、よそに馴染まないキャラクターの強いブランド、個性的な商品を開発して行かなくてはなりません。でないと、百貨店内でショップ展開されるのは、キャラクターが明確な海外ブランドだけになってしまいます。そうならないためにも、「ウチにしかできないもの」で、なおかつ「お客様に歓迎されるもの」をもっと開発しなくてはと思います。 * * * * <PR> 「ファッションビジネスの魔力」(毎日新聞社刊、1680円)11月20日発売。 AMAZONで現在予約受付中です。お申し込みは以下からどうぞ。 ファッションビジネスの魔力 最終更新日時 2009.11.24 00:34:33
初めての著書「ファッションビジネスの魔力」が毎日新聞社から今月19日に発売されます。今日、AMAZONの予約受付が始まりました。正直、とてもうれしいです。「ファッションビジネスの不思議な魅力」ではどうでしょう、と編集者に提案したところ、「不思議な魅力」よりも「魔力」にしては、とアドバイスをもらい、このタイトルになりました。サブタイトル「FASHION IS THE GAME NAMED BUSINESS」(=ファッションはビジネスという名のゲーム)は、米国パーソンズ・デザイン大学のバイヤー講座で恩師が授業のたびに呪文のように唱えていた言葉です。 学生時代、仲間を募ってファッションマーケティングの研究会をつくり、若者市場に関する原稿を雑誌や新聞に書き始めたのがこの世界との最初の関わり。あれからちょうど35年、いろんなことがありました。大学卒業後、マーチャンダイジングのプロを目指してニューヨークに渡り、フリーランスの身分で私のキャリアはスタート。繊研新聞社の特約通信員、全米紳士スポーツウエアバイヤー協会の日本担当マーケティングディレクター、バーニーズ・ニューヨークに設置した「TOKYO」ブティックのコーディネイター、メンズデザイナー合同展示会「デザイナーズ・コレクティブ」顧問など、いろんな立場でアメリカのビジネスを体験しました。 そして三宅一生さんに出会って帰国を勧められ、8年間のニューヨーク生活にピリオドを打ち、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)をデザイナーの皆さんと設立しました。10年間、東京コレクションの運営、若手デザイナーの支援、国際交流、そして様々な企業や関連団体、行政機関に提言、助言を行い、ジャパンファッションの振興に携わりました。海外から戻って来た生意気な”インベーダー”です、当然いろんな苦労がありましたが、しがらみのない任意団体の責任者ゆえに自由気ままに得がたい経験ができました。 CFD9年目の1994年、友人の急逝に直面して焦りました。「早くマーチャンダイジングの仕事をしなければ自分の人生、いつ終わるかわからない」、と。1年かけて周囲を説得、翌年にCFD議長を退任。松屋の古屋勝彦社長(当時)に誘われて松屋のシンクタンク部門、東京生活研究所の専務取締役所長に就任しました。松屋との関係がはじまったのは、三宅一生さんが山中さん(元社長、のちに東武百貨店社長)を私に紹介、数年間山中さんの「私設アドバイザー」のような立場だったからです。山中さん(この時は東武百貨店社長)に「松屋に行きます」と報告に行ったら、ムッとした顔をされたのがいまでも私の不思議です。 外部から歴史ある企業に入った”インベーダー”の悲哀、限界を強く感じ、古屋社長に辞任を申し出ると共に大改革を迫りました。1999年秋、山中さんのお別れの会の翌日のことです。そこから巨額を投じた大リニューアルがスタート、われながら本当にいい仕事をさせてもらいました。古屋社長との信頼関係があったからこそできた仕事でした。が、約束通り、私は別の道を選択しました。 そして2000年春イッセイミヤケに移籍。松屋のリニューアル途中だったので、古屋社長から「いまは困る」と言われ、三宅さんの了解を得て松屋のリニューアルが終了するまでは東京生活研究所専務との兼務に。掛け持ちは肉体的にはきつかってですが、生涯最も忙しく、充実した2年半でした。 35年を振り返ってみれば、立場、身分、所属はコロコロ変わりましたから、ある意味かなり波瀾万丈の半生だったと思います。三宅さん、山中さん、古屋さんはじめ、多くの先輩がたに引き立てられ、ついてきてくれた部下たちのおかげでここまで続けてくることができました。ファッション、ファッションビジネスへの熱き思い、立場はあれこれ変わってもこれはずっと変わらず持ち続けてきました。 また、人材育成への情熱、これは帰国後24年間ずっと持ち続けてきました。アメリカで学んだマーチャンダイジングの基本を日本の若者に伝えようと、CFD時代は私塾「月曜会」を開き、山中さんらと一緒にIFIビジネススクールをつくり、この2つで濃密に交流のあった教え子はかなりの数います。専門学校でも、特別講義のみならず1つのカリキュラムを担当して指導に当たってきました。ベースにはいつも「実践教育」での啓発がありました。 その35年の軌跡、言うなれば「ドキュメント・太田伸之」を1冊におさめました。日米ビジネスの差異、人材育成の考え方、日本の産業界の課題、マーチャンダイジングの基本、そして私の仕事の理念を綴りました。これからファッションビジネスの世界を目指す若者、現在働いている若きビジネスマン(ウーマン)や私の教え子たちに「こんな生き方あるのか」と知ってもらいたいし、小売店やアパレルメーカーの幹部の皆さんにはマーチャンダイジングの基本を復習してもらえる内容になっていると思います。 たくさんの方に読んでいただけたらうれしい。AMAZONで私の名前か著書名で検索の上、お申し込みください。なお、社員や教え子の皆さんには配布しませんので、それぞれ買ってください。 * * * * 友人、早川弘さんのお別れの会はないのかと多くの方からメール、電話いただきました。彼の会社の有志が現在プライベートなお別れ会(あるいは偲ぶ会)を検討中と聞いています。決まり次第お知らせしますので、しばらくお待ちください。 最終更新日時 2009.11.09 11:47:45
1994年、有機栽培の根菜をただ煮ただけの「野菜スープ」が健康に良いと大流行したことがありました。大根、人参、ごぼう、大根の葉っぱ、干し椎茸、調味料は何も入れずグツグツ煮るだけ、決して美味いものではありません。有機栽培が入手できず、スーパーで販売している普通の根菜を入れるとブクブク泡が立ち、アクも出ますが、有機栽培だけで煮るとなぜかアクは出ません。しかも、このスープを作るために用意した鍋は内側が黒く変色します。有機根菜の不思議な力なのでしょう。 94年2月初旬、ファッションプロデューサーの大出一博さんに呼び出され、西新宿高層ビル最上階の料理屋に出かけました。現在オンワード樫山会長の廣内武も同じく呼び出され、大出さんから我々二人は「酒飲む機会も多くて不摂生なんだろ、野菜スープを飲め」と説教されました。その1ヶ月半前、元オンワード樫山パリ所長だった中本佳男さん(ジャンポール・ゴルティエを発掘した人)が癌で急逝したばかり、中本さんと仲良しだった大出さんは私たちにもっと健康に留意するよう呼び出したのです。 CFD時代、パリ嫌いの私がパリコレに行く理由の1つは、中本さんと会っていろんなことを教えてもらうことでした。ゴルティエをパリコレ人気ナンバーワンに育てたビジネスマン、話にはいつも説得力とファッションに賭けるロマンがありました。当時私は原宿クエストに協力、「クエスト・ニュースタンダード・フォーラム」という無料セミナーを年に2回企画、進行役をしていましたが、その第1回に中本さんをわざわざパリから招いて出演してもらったほど。友人の大出さんにも、同僚だった廣内さんにも、そしていろんなことを教えてもらった私にも、中本さんの急逝はショックでした。 大出さんの野菜スープ説教を聞き流した翌日、私はニューヨーク出張に。IFIビジネススクールのためにパーソンズ・デザイン大学の運営方法を調査するためです。その数週間前、「クエスト・フォーラム」にパーソンズのフランク・リゾー学部長を招いたばかり、調査はその時学部長からヒアリングしてありましたが、「予算消化」のために出張しなければなりませんでした。実にバカバカしい無駄な出張でした。 行かなくてもいい出張、面白いわけありません。しかも、ニューヨーク到着翌日から記録的大雪で外出できず、アポイントはすべてキャンセル、ホテルの部屋でじっとしているしかありません。予算消化のためここにいる自分が情けなくなり、こんなことで私に出張を依頼した人たちに段々腹が立ち、ストレスは爆発寸前。部屋でイライラするうち、お尻の異常に気がつきました。肛門近くにできたニキビのような腫れ物が日に日に大きくなり、最後はゴルフボールのような大きさに。無知な私は「ひょっとしたらこれは癌かもしれない」。出張前日大出さんの説教を無視したことをいたく反省しました。腫れ物は肛門周辺部瘍(よう)、原因はストレスと医者に言われましたが、手術後私は大出さんが勧める野菜スープを作って飲み始めました。正直、まずかった。でも、なんとなく元気になったような気がしました。 94年4月1日金曜日東京コレクション初日、渋谷西武百貨店のA館とB館の間の道を歩いていたら、カフェで顔なじみの方々がお茶していました。毎日新聞編集委員の市倉浩二郎さんと奥様、帽子デザイナーの平田暁夫さんと奥様、ほかに文化出版局の編集者たちが数名、渋谷で行なわれるYUKI TORIIショーまでの時間潰しでした。 そこでビールを美味そうに飲んでいる市倉さんに、 「酒ばっかり飲んでないで、たまには野菜スープを飲めよ」 「バカ言え、あんなまずいもん飲めるか」 「いや、俺も最初はバカにしてたよ。でもいまは真面目に飲んでる」 大出さんに説教されたように、私は市倉さんに野菜スープの効能を説明しましたが、全く聞く耳持たず。そこで奥様に、「野菜スープの作り方を送るから、旦那に飲ませてあげて」と言いました。 このカフェでのやりとりのあとショー会場に移動、終了後私はニューヨークから来ていた友人との会食に行くので鳥居さんの打ち上げに行く皆さんと別れました。 翌2日土曜日、羽田空港内整備場で行なわれたコムデギャルソンのショーに市倉さんはどうしたわけか現れませんでした。記者仲間の話では、「風邪をひいたらしい」。前日カフェで普通にビール飲んでいたのにおかしいな、とは思いましたが。 4月4日月曜日早朝、「市倉さんが意識不明」という電話で起こされました。病院に駆けつけても迷惑かもしれない、まずは市倉さんが出稿予定だった記事の執筆を外部ライターに依頼する段取りを手伝い、私は開催中の東京コレクション会場に。集中治療室の状況は毎日新聞の事業本部長だった堤哲さんや記者の上杉恵子さんから日々伝えてもらいましたが、一向に好転する兆しはありませんでした。 東京コレクション終幕後、学校の講義以外のアポイントはキャンセル、連日府中病院に足を運びました。毎日の同僚やいろんな分野の友人数人がいつも集中治療室の前に陣取り、みんなで快復を祈りました。病院の中庭の遅咲きの桜が満開、やけに奇麗だったのが印象に残っています。そして4月25日午後8時過ぎ、奥様のためお寿司を差し入れに病院に行ったところで容態急変、そこで亡くなりました。 編集委員歴の長い市倉さんは1冊も本を書いていません。編集委員を長くやっていたら、普通は1冊や2冊の本を書き上げるのに。ワインでもスコッチでも、現地取材で十分にネタはあったはずなのに、1冊も書いていません。しかし、3月パリコレ取材に出かける直前オフィスに立ち寄った時、「太田、本書くぞ」と言いました。ファッションデザイナーの話ではなく、その背後で働く技術者、職人さん、生地メーカーや縫製工場の現場ドキュメントを書きたい、と。「おまえ、手伝え」というので、帰国したら取材先や手順を相談する約束でした。 物書きとして初めて「本を書こう」と思ったのでしょうが、残念ながら彼には1冊の本を書く時間もありませんでした。 私がCFD議長退任を決意したのは、この友人の急逝がきっかけ。マーチャンダイジングのプロを目指してニューヨークに渡り、8年間いろんな経験を積んで帰国、でも仕事は東京コレクションの運営、デザイナーへのアドバイス、そして人材育成、マーチャンダイジングとは直接関係ありません。いつまでもこんなことをやっていたら、自分の夢だったマーチャンダイジングに着手することなく死んでしまうかもしれない。本を書こうと思い立った友人に時間が残されていなかったように。だから、一生懸命議長退任を承認してもらうよう運動しました。 あれからもう15年ですか、はやいですねえ。 そして、またもやグチを聞いてくれる友人が亡くなりました。市倉さんの時とは違い、早川さんの死に目に会えず、骨を拾ってやることもできませんでした。現在印刷所に渡っている私の本には市倉さんとのことは写真も合わせて載せましたが、こんなことになろうとは予測していなかったので早川さんのことは1行も触れていません。なんともタイミングの悪い死に方しやがって、バカヤロウです。 早川さんがカラオケで好んで歌った「ふれあい」(74年オンエアされたTVドラマ「われら青春!」の主題曲)、これを歌った俳優の中村雅俊氏は宮城県出身だったんですね。彼は「ふれあい」を歌うことで、自分の青春時代と故郷に思いを寄せていたのかもしれません。故郷で安らかに眠って欲しいです。 最終更新日時 2009.11.01 23:06:19
わが親友、早川弘さんの続報が、昨日繊研新聞社から入りました。司法解剖した結果、死因わからず、事件性はなし、外傷もないので事故とも考えられない。じゃ、何なんでしょう。中川昭一さんみたいです。もう一度細胞検査などするそうですが、判明まで40日ほどかかるんだとか。医療の発達、検査の電子化が進んでも、人間の体ってわからないものなんですね。 早チャンは宮城県出身でした。会社は入社時の履歴書をたよりにご遺族にコンタクトを試みましたが、30数年前の記録ゆえ転居先不明、なかなか連絡がつかなかったようです。携帯電話に、「母」とか「オフクロ」とか、あるいは実家があった都市の市外局番の人がいないか確認できるはずと思いましたが、発見されたのがマンション階段、警察が携帯電話を押さえたので会社は動きとれず、死後4日後にようやくご遺族にたどりついたそうです。 ところが、同日の27日ご兄弟が上京、警察で遺体確認してそのまま荼毘に。これには会社側もびっくり、数人が斎場に駆けつけ遺体と対面できた、と28日朝繊研新聞社から電話がありました。ご遺族にはご遺族のお考え、事情があったのでしょうが、通夜も告別式もなしとは、友人の一人として正直「そりゃないでしょ」。ひっそりと荼毘に伏されたと聞いて、あまりに可哀相で泣けてきました。温和な人柄、敵の少ない早チャンには、会社内でも、業界関係でも、大学時代の仲間にもたくさん友人がいたはず、私も含め、お別れをしたかった人はたくさんいたと思います。どうしてなのでしょうね、理解に苦しみます。 会社から連絡もらって気が抜けました。これでお別れするチャンスはなくなり、気持ちの整理がつきません。ご遺族からすれば、「そんなのあんたの都合でしょ」なんでしょうけど。自宅マンション階段で遺体で発見され、司法解剖で死因わからず、急ぐようにして荼毘に、そして今日にも遺骨は故郷に戻るなんて、ご遺族には申し訳ないけど納得できないなあ。本人も、なんで死んだのか、なんであそこで死ななきゃいけなかったのか、なんで通夜も葬儀もないのか、今頃わけわからず、三途の川を渡ろうか渡るまいかウロウロしているんじゃないかと思います。ただでさえ方向音痴だった人ですから。 15年前を思い出します。毎日新聞の市倉浩二郎編集委員の急逝。本人がユキトリイのショー後に「寒気がする」と奥様に言った直前まで、渋谷西武百貨店近くのカフェで私たちは市倉夫妻と一緒にビールを飲んでいました。「あんたも健康のために”野菜スープ”を飲め」と当時健康療法として話題を集めていた根菜煮汁を勧めたところ、「あんなまずいもの、飲めるか」と市倉さんは笑っていました。だから横にいた奥様に「今度作り方のコピー送るから飲ませてやってよ」、そんな会話の直後に倒れ、翌々日には集中治療室に運ばれ、それから数日後意識不明のまま亡くなりました。 最期の日、奥様に元気になってもらおうと西麻布の寿司屋で折り詰めを作ってもらい、西国分寺の病院に持参したところちょうど容態急変、私も集中治療室に入って彼の脚をさすっていたらご臨終でした。早チャン同様、市倉さんも原因不明、解剖してもなぜ死んだのかわかりませんでした。解剖台に乗せられた遺体に手を合わせた時、「人生ってはかないなあ」と生まれて初めて思いました。 それが、私のCFD議長退任につながります。 そして、市倉さんが1冊も上梓できなかったファッションビジネスに関する本を、市倉さんの仲間のススメで毎日新聞社から発行してもらうその直前に、今度は私のもう一人の親友が原因不明で亡くなったのです。これ、どう解釈していいのでしょう。神様のいたずらなのでしょうか、どうも気持ちの整理がつきません。 早チャンの遺骨は白石市のお墓に納骨されると聞きました。白石市にはわが社の商品を製造してくれるプリーツ工場がある街、これも何かの縁なんでしょうね。 ウロウロしているであろう早川さん、早く川を渡ってラクになってよ。 最終更新日時 2009.10.29 11:13:03
CFD議長をしていた頃、私には何でも相談できる2人の飲み友達がいました。ひとりは毎日新聞社編集委員の市倉浩二郎さん、もうひとりは繊研新聞社営業の早川弘さんです。CFDの運営などで悩みがあると一回り年長の市倉さんからアドバイスをもらい、グチがたまると1歳上の通称「早チャン」にぶちまけ、彼はスポンジのように私のグチを吸い取ってくれました。市倉さんが15年前に急逝、以来モヤモヤがすっきりできるまでトコトン付き合ってくれたのは彼でした。 その大の仲良しの訃報が届きました。早チャンは世田谷の自宅マンション階段で発見されたそうですが、大酒飲んで酔っぱらい、階段踏み外したのかもしれません。酒量、半端じゃなかったですから。欲のない、静かな、曲がったことが嫌いないい男でした。初めて会ったのはもう30年くらい前でしょうか、まだ私がニューヨークで繊研新聞特約通信員をしていた頃です。「帰国してウチに来いよ」とよく誘われました。あの頃からずっと初期ビートルズと同じマッシュルームカットを頑固に通しました。青山学院大学ビートルズ研究会だったそうですが、年齢を重ねてもピュアな学生のにおいが消えない不思議な人でした。 若い頃はほんとによく飲みました。銀座にあった「梨宴」というイスが10個くらいの小さなカウンターバーで待ち合わせ、そこからおでん屋や焼き鳥屋に出かけたり、閉店後マスターと麻雀やったり、居酒屋やバーをハシゴして明け方まで飲んだこともあります。営業担当の彼と私は、CFD時代も松屋時代もいまも直接利害はなく、いつもこちらのグチを聞いてくれましたし、仕事のことで調べて欲しいことはすぐ動いて連絡してくれました。 思い出はつきないですが、そのほとんどは食べ歩き、飲み歩きです。 香港政府からコンテスト審査員に招かれた時、香港企業を担当していた早チャンも香港出張でした。彼の現地通訳をしていた神戸生まれの中国人の方がとても親切でグルメ、一緒にいろんなレストランを食べ歩きました。市倉さんおススメの上海蟹味噌うどんの店、取材に来ていた文化出版局の久田尚子さん(のちに私の後任議長に)を誘って鄧小平がお忍びで通ったというアワビ専門店、フカヒレ姿煮がドーンと出てくる高級広東料理店も一緒に食べ歩きました。香港西武百貨店のワイン売場で発見したシャンペンの最高級KRUGのヴィンテージものロゼ(わが生涯のベストシャンペンですが)をホテルの洗濯袋に氷詰めにして冷やし、夕食後に二人で飲んで「こりゃあうまい」ということも。で、翌日同じKRUGをと西武に走り、でも「こんなの毎晩飲んだらバチ当たるよな」とロゼの隣にあったヴィンテージ白で我慢したことも懐かしい思い出です。 そして、最終日のランチをホテルでとった時、ハトの味が口の中に残って「嫌な感じだなあ。この味、消したいね」と帰国便成田行きを大阪行きに変更してもらい、京都の阪急百貨店裏の小料理屋に豆腐を食べに行きました。香港政府発行の特別チケットを変更したので、キャセイ航空の係員に嫌味言われましたが。 その小料理屋「喜幸」には別の思い出があります。お世話になっていた京都の織物商ロンシャンの本社落成パーティに招待されていると話したら、「俺も行こうかなあ。喜幸で待ち合わせしない?」と提案され、早チャンは休暇をとって京都で合流しました。パーティ会場には、通信員時代にかわいがってくれた繊研新聞の石川社長らがいて、早く切り上げないと夕食誘われそうと思って退散、ホテルで早川さんと合流して喜幸へ。その扉をあけた瞬間、「げぇっ!」。なんと石川社長一行が狭いカウンターに陣取っているじゃありませんか。石川社長の「早川くん、今日は何なの?」の問いかけに、「有給休暇です」、なんとも気まずい晩ご飯でした。 ある年のクリスマス、オンワード樫山の廣内さん(当時は取締役、現会長)と加藤さん(当時は婦人服部長、その後レナウン、フランドル)と会食した時、銀座のバーで早川さんと合流、4人でほかのバーに行こうと電通通りを歩いていたら、当時社長だった馬場彰さん一行とすれ違いました。馬場さんは「廣内くん、珍しい人(CFD議長と大手アパレル取締役とはあまり縁がありませんから)と酒飲んでるねえ。太田さん、たまには私とも飲もう」と声をかけられ、そのまま早川さん共々馬場社長と合流することになりました。こちらは4人、馬場さん一行も4、5人だったと思います。 酔った勢いで、私は馬場さんに偉そうなことを言いました。せっかくイタリアのジボー(ゴルチエやロメオ・ジリなどを生産していた縫製工場)を買収したのだから、海外ブランドのライセンスばかりしていないで、オンワード自前のソフトウエアとジボーの技術を使って世界市場にうって出てはどうなんでしょう。ライセンスブランドで国内売上2000億円になっても、世界では存在感のないドメスティック企業ですよ。ズケズケそんな話をしたら、馬場さんに同行していた役員さんがムッとした顔、でも馬場さんは黙ってこちらの言うことを聞いてくれました。しかも、腕組みしていた加藤さんに、「加藤、お客さんの話を聞いてるんだ、その態度はなんだっ!」と怒鳴ったのです。調子に乗った私はさらに口撃がエスカレート。限度を超えた失礼なことを言うと、早チャンはテーブルの下で私の足を蹴って「言い過ぎ」と合図してくれました。 早チャンはとってもドジで、すごい方向音痴です。繊研新聞社の近くの日本橋人形町の小料理屋を自分で指名しておきながら、自分はお店の場所がわからず半時間も人形町をウロウロ、間抜けなヤツです。香港では、海岸方向に向かうはずなのにどんどん山側へ歩き、「早チャン、こっちは山だよ」と私が言うと、「なに言ってんだ、俺は香港詳しいんだ、任せてよ」と自信満々。でもやはり私たちは海岸とは逆の方向に歩いていました。 海外出張中の彼から銀座のバー梨宴にいた私に電話が入り、「俺のクレジットカードがないんだよ、スラれたのかなあ」と言うので、「きっと自宅のテレビの上に置いてあるさ」と答えました。帰国後「テレビの上にあったよ。なんでわかるの?」でした。また、成田空港に向かうリムジンバスの座席の下に航空券が落ちていたので、早チャンは「だれかチケットこんなところに落としている」と思って座席の背中にある網ポケットにはさんでおいたら、成田のカウンターで自分の航空券がない、網ポケットにはさんでおいたものは彼自身のチケットでした。こんな話は山ほどある、実にドジで愛すべき男でした。 東京コレクションの施工業者の人たちと飲む時も、会社の部下やIFIビジネススクールの受講生と飲む時も、わが故郷の同窓生が出張で上京した時も、どういうわけか早チャンは横にいました。シーズン立ち上がりで関西、九州のショップを回った時も、たまたま彼の関西出張が重なったので私と一緒に店回り、ショップスタッフから本社営業に「社長が見知らぬ人と一緒に来ました」と電話が入り、「それは誰だ?」と本社でちょっとした騒ぎになったこともありました。狙いはいつもの通り、「うまいもの、喰いに行こうよ」、博多の季節の魚「アラ」の鍋ものが目的、2人っきりで鍋つついても美味しくないのでショップスタッフ数人を招待したこともありました。 早チャンは営業担当、記者ではありません。だから、記事で優遇してもらったとか、自社のニュースを書いてもらったこともありません。なんの利害もない、ただのグルメ仲間、飲み仲間、麻雀仲間でした。私はまたひとりなんでも話せる大切な友人を失いました。せめて、初めて書き下ろした私の本を読んで感想聞かせてもらいたかった。残念です。あの世で好きなだけ酒飲んでください。合掌。 * * * 追記:会社に問い合わせたところ、遺体に打撲など外傷はなく、どうやら酔っぱらって階段で滑ったのでは ないようです。原因はまだ不明、何が起こったんだろう。 通夜、告別式は未定ですが、わかり次第お知らせします。彼と一緒に飲んだことのある教え子の皆さ ん、都合つけばお線香あげてください。 最終更新日時 2009.10.28 08:29:51
IFIビジネススクール(財団法人ファッション産業人材育成機構)理事長兼学長だった山中さんが亡くなった日、ご自宅にお邪魔したら、奥様から「人材育成のことは最後まで気にかけておりました」と伺いました。山中さんとは、設立に結びつく墨田区人材育成戦略会議時代から正式開校後まで、人材育成の夢を語り合い、晩年に山中語録を本にまとめていた元繊研新聞編集局長の松尾さんからは山中さんの”遺言”のようなものを聞かされたこともあります。 しかし、山中さんが亡くなった翌年の2000年春から、現職と百貨店との兼務という予期しなかった事態になり、いくらなんでも3つも兼務できないのでIFIからは手を引きました。もしもあのまま継続していたら、恐らく私の肉体はパンクしていたでしょう。2つだけでもかなりしんどかったですから。 一昨日、IFI全日制の第一期生から、メールアドレス変更の案内が届きました。CC:には第一期生数人のアドレスがあり、懐かしいので「お久しぶり」と”全員返信”しました。何人かはアドレス変更していてメールは戻ってきましたが、数人からは返信が届きました。みんなこのブログを読んでくれているそうです。彼らが第一期生として入学したのが1998年ですから、もう10年以上経過しました。早いですねえ、時の流れは。 私は山中さんに相談して1994年秋から半年間の夜間コースをスタートさせました。カリキュラムをあれこれ議論しているより、考案中のカリキュラムをまず夜間コースでテストし、私の考える実学的講義の進め方を講師や事務局スタッフに体験してもらい、カリキュラムや指導方法を修正、改善した方がいいと考えたからです。アパレルマーチャンダイジングのクラスは墨田区人材育成戦略会議で一緒だった岡田茂樹さん(当時ダンロップスポーツ専務)が、リテールのクラスは当時まだCFD議長だった私が担任講師として授業をリードしました。 その後、夜間コースの講座数を増やし、いろんなカリキュラムを試験、3年半後に念願の全日制2年間コース(現在は1年間に短縮されたようです)が始まりました。私は、夜間4クラスを取りまとめるいわば学部長のような立場と、全日制では週一回のリテールマーチャンダイジングの担当官として指導しました。 全日制の第一期生とは、放課後頻繁に校舎のある両国駅界隈で飲みました。飲みながら指導の続きもあれば、学校に対する愚痴、進路相談にも耳を傾け、数人とは一緒にニューヨーク視察に出かけましたが、彼らとはかなり濃密に深く付き合いましたね。大学のゼミの先生でも、あそこまで濃密に付き合うことはないんじゃないかと思います。だから、彼らにも私にも、あの2年間は鮮明に記憶がありますし、20余名のその後の進路には関心があります。 全日制第一期生ほどではないにしても、夜間コースの面々とも放課後(講義が終了するのが午後8時過ぎ、ちょうどお腹すく時間なのです)ちゃんこ屋さんや居酒屋で”第二ステージ”をよくやりました。修了式のある最終授業日、月、火、水、木曜日とクラスが違いますから、毎晩深夜1時、2時まで。両国駅そばの「昭和時代丸出し」の古いスナックのママさん(もう70歳くらいのおばあちゃんでしたが)も4日目の木曜日ともなると疲労困ぱい、カウンターで伝票つけながらウトウトでしたね。 こうして付き合った受講生はのべ600人はいます。いまは時々売場で「先生」と声をかけられますし、百貨店の教え子とは商談する場面も増えました。 全日制第一期生からは久しぶりの同窓会を兼ねた忘年会の誘いも来ました。忘年会を開く頃には、今日最終校了の本が完成しているでしょうから、「教科書」として渡せるかもしれません。それにしても、もう10年、早いですねえ。 最終更新日時 2009.10.25 13:17:42
第9回JFWの東京コレクションが開幕しました。今日は来日している台湾VOGUE誌の記者のインタビューを受けましたが、彼女、このブログを読んでいるとか。日本語ゆえ3分の2くらいは理解できると話していましたが、まさか台湾の方まで読んでくださっているとは。ちょっとびっくりです。今回のJFWには通常のデザイナーコレクション発表以外にいろんな関連イベントが盛りだくさんです。そのひとつが今回初めて行われた「THE MODELS 2009」、新人、若手モデルのコンテストです。元々はモデル協会から、日本人モデル人材育成のために何か発掘イベントができないかと話があったようです。そして、日本のモデルに留まらず、韓国と中国にも呼びかけよう、さらにモデル志望の素人さんにもチャンスを与えようと構想が膨らみ、今回のイベントになりました。 書類と面接審査で選ばれた140余人のモデルがステージに順番に登場、ナンバーワンを決めるのではなく、上位10人のファイナリストを選出、彼らには来年3月のJFW「シンマイ・クリエーターズ・プロジェクト」及び上海万博で行われるファッションショーに出演してもらうことになっています。ファイナリスト10人とは別に、エルメス賞、シャネル賞、ジョルジオアルマーニ賞(それぞれジャパン社の社長がプレゼンター)と、故・山口小夜子さんを偲んでつくられた「山口小夜子賞」が決まりました。 エルメス、シャネル両賞には韓国と中国の女性モデルが、アルマーニ賞には日本人男性モデルが選ばれ、小夜子賞には文化服装学院のモデル科で勉強した日本人女性がそれぞれ選ばれました。このイベントは共催の毎日新聞19日付朝刊1面に大きな写真が掲載され、ご覧になった方もいるでしょう。 こうしたモデル発掘イベントがJFWの一環としてあることはいいことだと思います。ケンゾー、イッセイがパリコレで活躍した時代、山口小夜子さんも大活躍、当時は「スーパーモデル」という言葉はありませんでしたが、彼女は現在のスーパーモデル以上にスーパーな女性でした。世界中の百貨店ウインドーのマネキンが小夜子さんそっくりになったくらいですから、その神秘的な東洋美は世界を惹き付けました。 70年代の後半、まだニューヨークに住んでいた頃です。小夜子さんがパリコレ終えてニューヨークに入ったらしいという情報がセブンスアベニューに流れました。ちょうどニューヨークコレクションが始まろうとしていたタイミング、米国の主要デザイナーはパリコレのトップモデルをなんとか自分のショーに起用したいというので、滞在ホテルを探したようです。日本人の私のところにも、「サヨコが来ている。コンタクトをとりたいので探してもらえないか」と電話があったくらいです。そのシーズン、彼女がニューヨークコレクションに出演したかどうかは覚えていませんが。 米国のトップデザイナーたちが血眼になって居場所を探すくらいのスーパーモデル、小夜子さんに続くトップモデルをぜひとも日本からまた送り出したいですよね。そのためには、若いモデルさんの励みになるようなイベントは意味があると思います。コンペティションというものは、スポーツ選手であれ、建築家やデザイナーであれ、モデルであれ、人材育成には欠かせない装置ですから。 初めてのイベントを見ながら、いくつか気になったことがあります。最近の日本人女性、食生活のせいなのか若いのにお肌がかなり荒れています。すらりとした体型なんですが、頬のところに吹き出物がある女性が多かったのが気になりましたね。推測するに、野菜不足、ビタミン不足じゃないでしょうか。また、髪の毛を染めるためか、かなりのダメージヘアーだった点も非常に気になりました。 トップモデルは体調管理のために日々努力していると聞きますが、せっかくの素晴らしい体型と美しい顔でも、ダメージヘアーに荒れた肌では人気モデルにはなれませんよね。モデルエージェンシーは彼女たちにウォーキングなどのレッスンはかなりしているのでしょうが、体調管理や栄養管理面ももっと指導した方がいいのでは、と思いました。でないと、中国や韓国のモデルさんには勝てませんし、第2の小夜子さんなんて日本から生まれません。 ちなみに、素人の私の採点上位はエルメス賞、シャネル賞の女性でした。なかなか魅力的なモデルさん、経験を積めば十分世界で通用するんじゃないかなあ。 写真:レセプションでのファイナリストたち 最終更新日時 2009.10.25 13:17:15
話題のユニクロ「+J」、一体どんなものかと買ってみました。ジル・サンダーから離れたジル本人、これまで上質の素材を使ってシンプルな線を出してきたデザイナーが、価格の制限ある中でどんなコラボ商品を手がけるのかと思ってましたが、全体の雰囲気はジル・サンダーっぽく、価格は想像してたよりも安価でした。元来のユニクロファンにはこれでも「高い」という声あるようですが。3000円台のシャツなど3枚買って10000円でお釣りがきました。凄いです、この価格。15000円程度のコート、値段は本物ジル・サンダーの15分の1くらいですが、そんなに見劣りしません。もちろん細かいことを言えばいくらでも本物との違いはあげられますが、決して「安かろう、悪かろう」ではないですね。早くも店頭でサイズ欠け、私のサイズは売り切れだったので買えませんでしたが、気に入っている本物のコートよりも正直こっちの方が格好良かったかもしれません。 よくH&Mが人気デザイナーとコラボしてきましたが、あれはスポット的なプロモーションだったはず。今回の+Jが同じプロモーションなのか、恒常的に当分続けるのか知りませんが、もしもジル本人とのコラボがレギュラー化するなら、これはラフ・シモンズのジル・サンダーにはちょっと邪魔な存在ではないでしょうか。ブランドを売却したデザイナー本人が別の企業と組んで廉価版を出すなんて、買収した側には「そりゃないよ」でしょう。+Jはもちろんコレクションブランドではありませんが、ジル本人が企画(または監修している)なら、これもジル・サンダーのひとつと言えなくはない。 鎌倉時代末期、後醍醐天皇が吉野に転居して「南朝」を開いき、朝廷は南北に分かれてその正統性をそれぞれが主張しましたが、ジル・サンダーは大げさかもしれませんけど南北朝時代の状況を彷彿させます。イメージ的にはジル本人を担いだ+Jが「南朝」、足利尊氏ら時の権力者が別の天皇を擁立してできた「北朝」がラフ・シモンズのジル・サンダーってところでしょうか。+Jが短期的なプロモーションで終わるなら、この先混乱することはないでしょうが、ずっと続くとなれば消費者は複雑です。商品タグには"OPEN THE FUTURE"とありました、意味深です。 これまでのジル・サンダーファンの中には、ジル・サンダーという名前に惹かれて高価な商品を買う人もいるでしょうし、他方ジル本人のセンス、デザインに共感してこれまで買ってきた人もいるでしょう。前者のお客様にとって、安価な+Jのクオリティでは満足できないでしょうが、後者にはラフ・シモンズによるジル・サンダーを認めない人も、+Jこそが正統ジル・サンダーと考える人もいるはずです。 もしも、LVMHに会社を買収された高田賢三さん(本人に売却の意思がなかったと聞いています)が、ジル本人のようにケンゾーの商標は使えないけれど、ユニクロと組んで「+K」を企画、現在のケンゾーコレクション以上にケンゾーらしい商品をユニクロのパリ店で発売したら、果たしてパリ市民の反応はどうでしょうね。あるいは、ジル同様プラダに会社を売却したのちブランドが第三者に渡ってしまったヘルムート・ラングが「+H」を企画、同じくパリ店で発売したら、案外いまのラングブランドより売れるかもしれません。ま、ヘルムート・ラングはユニクロ傘下のセオリーが現在所有しているので、ラング本人が喜んでプロジェクトに参画するとは思えませんが。 これからデザイナーの中には、人気あるうちに会社とブランドを投資ファンドや大企業に売却してまず大金を手に入れ、しばらく休養したのちに別の大企業と組んで市場にカムバックなんて構想を描く人が現われないとも限りません。 ジル本人がこうした構想をあらかじめ持っていたとは思いませんが、+J方式がまかり通るなら、これからそんなデザイナーが増えたっておかしくないし、高田賢三さんやヘルムート・ラングのように事情があって自分の名前のブランドから離れなくてはならなかったデザイナーにはカムバックのチャンスです。 私はジル本人がジル・サンダーを手がけていた時に数枚商品を購入しました。ラフ・シモンズのジル・サンダー、嫌いじゃありませんし、シーズンによっては格好いいと思いますが、まだ購入したことは一度もありません。その私が+Jを買うのです。どの程度のクオリティか試してみたいという思いもあっての購入ですが、私以外にもそういう人いるんじゃないでしょうか。 ジル・サンダーを買収したオンワード樫山さん、ちょっと大変ですね。 最終更新日時 2009.10.17 22:56:59
今年のゴールデンウイークに一気に書き上げた原稿、ありがたいことにやっと出版できることになりました。しかも、担当してくれる編集者は非常に優秀な方で、日に日に赤ペンが入って本の体裁が整ってきました。今日、最終訂正を送りましたので、恐らく師走には出版できそうです。本の内容は、私がこれまで歩んできたファッションビジネス人生です。マーチャンダイザー目指してニューヨークに渡り、そこで出会ったデザイナーたちとのエピソード、バーニーズ・ニューヨークに日本人デザイナーを導入した際の出来事、パーソンズ・デザイン学校の夜間バイヤー講座で訓練されたことや、帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立した経緯とその活動、松屋社長だった山中さんとの悲話、松屋の東京生活研究所に移籍して大きなリニューアルを手がけたこと、そしてなぜイッセイミヤケ社長になり、どんな視点で企業体質の改善をしようとしたのか、またそれらの貴重な経験から私自身が何を学んだかを綴っています。 ファッションビジネスのプロを目指す若者の刺激になればと願っています。出版日など決まりましたら、またお知らせします。 * * * * さて、今日は、来年3月のジャパン・ファッション・ウイーク「シンマイ・クリエイターズ・プロジェクト」に参加が決まった新人デザイザーの記者会見に立ち合う目的もあり、お台場のJC(ジャパン・クリエーション)展に出かけました。明日は台風が接近するとあって、雨天にも関わらずかなり盛況でした。たぶん明日は台風で開店休業状態になるんでしょうね。 第2回「シンマイ」に選ばれたのは、ニューヨークのファビオラ・アリアスさん(パーソンズ校を卒業したキューバ生まれのアメリカ人女性)、ロンドンのセントラル・セントマーチン卒業して帰国した宇都宮茜さん、日本で学んで現在ニューヨークで活動中の天津憂さん、そしてフランス人男性フランク・プシュランさんとドイツ人女性ルイーズ・シュワルツさんの紳士服コンビです。日本で活動する日本人新人デザイナーは、残念ながら今回はすべて選に漏れました。そこで、(エントリーしても選に漏れた)日本の若手と海外組との差に関して、産経新聞の記者さんから質問がありました。 ひとつのアイディアを大きく膨らませる構成力あるいは展開力とでも言いましょうか、海外組は良く言えばブレがありません。が、日本の若者は器用なのか、欲張りなのか、いろんなアイディアを具体化しようとしてコレクション全体に統一感がないように思います。だからポートフォリオを見ながら審査する我々が受ける印象はどうしても薄く、選から漏れてしまいます。そんな応答をしました。 記者会見後、ある専門学校関係者と立ち話をしたとき、こんな例を説明しました。国際的に活躍しているデザイナーを多く輩出するセントマーチンやパーソンズでは「デザインを描く」に重点を置く教育、学生時代に自分で制作する服の点数はかなり少ないでしょう。一方、日本の学校は在学中にたくさん服を制作しますが、デッサンの枚数は海外より少ない。海外有力校の教授は「上手に描け」とは言いませんが、「ひたすらたくさん描け」と言います。なぜなら、ファッションスクールではなく、デザイン学校だからです。 私自身「シンマイ」の審査をしていて、あるいは海外校で講義する際に学生から批評を求められる際、ポートフォリオは何を表現したいのか一目瞭然、しかも描かれたデザイン数は非常に多い、といつも感じます。しかし日本の学生や若手デザイナーは、デッサンそのものはとても上手なのですが、デザイン数は少なく、ページごとに雰囲気は異なり、インパクトは弱いと思います。 そこで学校関係者に申し上げました。服をたくさん制作する必要はないから大量のデッサンを、上手に描く必要はないからたくさん描く訓練、これを日本も導入してはどうでしょう、と。デザイナー予備軍の育て方、そろそろ大きく変えないと、日本人は海外で学ぶアジアの若者には勝てないかもしれません。リム、タム、ウー、ワン、スイ、ニューヨークコレクションの人気ブランドは近年アジア姓が急増、大きなパワーになりつつありますから。 今日のJC展には多くの学生さんの姿がありました。彼らがアジア勢に負けないよう大きく成長してくれたらいいんですが。 写真:第2回「シンマイ」参加デザイナーの皆さん 最終更新日時 2009.10.09 11:31:20 |一覧| |