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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2022.09.05
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6月8日、南青山のスパイラルガーデンで始まった「ミントデザインズ大百科」展にお邪魔しました。英国セントマーチンズ校出身の勝井北斗さんと八木奈央さんがブランドを設立して20年周年、それを記念してのアーカイブ展です。

ミントデザインズで思い出すのは2008年サンパウロ・ファッションウイーク。日本人がブラジルに移民開始してちょうど100年、ブラジルではいろんな式典やイベントが行われました。皇太子様(現・天皇陛下)がブラジル国会で祝辞を述べられたのも、ファッションウイーク期間中のことでした。

サンパウロ・ファッションウイーク主催者が掲げたシーズンテーマは「モッタイナイ」、日本とサステナビリティーを訴求するものでした。大きな見本市会場には回転寿司のベルトにビーチサンダルや婦人靴を乗せたブースや、鶴の折り紙形状のプラスチックチェアーを並べたブース、忍者「くの一」のユニホームを着た女性スタッフがここで搭乗手続きをしてくれる航空会社ブースもあり、アイディアいっぱい、楽しくてかっこいい会場でした。

このときセミナー講師としてパリから招待されたのが世界的デザイナー高田賢三さん、ゲストデザイナーとしてファッションショーを行ったのがミントデザインズ、私も討論会のパネラーとして招待されました。賢三さんと咳を並べてミントデザインズのショーを観ていたら、賢三さんがポツリと「日本もいい若手が出てきましたね」、と。このときからミントデザインズのショーや展示会を見るたび、あのときの賢三さんの言葉を思い出します。

私が初めて「ケンゾー」の名前を知ったのは1974年、私はまだ大学生でした。IWS(国際羊毛事務局)のセミナーで広報官がサンプルを見せながら「パリコレで人気急上昇なのはクロエとケンゾー」と解説。当時のクロエはカール・ラガーフェルド、ケンゾーはもちろん高田賢三さん。ファッション界のワールドカップのような場で日本人デザイナーが脚光を浴びているとは夢のような話でした。

1977年大学卒業してニューヨークに渡った私にケンゾーのことをよく話してくれたのが、同年春のファッションウイークでデビューし、すぐに時代の寵児となったペリー・エリス。彼はデザイナーになる前は地方百貨店の婦人服バイヤーでしたが、「アメリカのバイヤーたちはケンゾーの素晴らしさを正しく理解していない」といつも言っていました。この頃賢三さんはパリコレ人気ナンバーワン、間違いなく世界のトレンドセッターでした。

私は全盛期の賢三さんとは面識がなく、会話を交わしたこともありません。賢三さんはパリ、私はニューヨーク、接点はありません。じっくりお話できたのはあのサンパウロ・ファッションウイークが初めて。5日間毎日ディナーは賢三さんと広報の鈴木三月さんと一緒、ディナー時のやりとりで多くの業界人が賢三さんのことを大好きな理由、みんなが手を差し伸べたくなる理由がはっきりわかりました。モードが熱く燃えていた時代を牽引した実績ある大デザイナーですが、非常に謙虚で優しい人柄、ライバルたちのこともちゃんと評価して悪口を言わない、実に魅力的な方でした。

現地で成功している日系人の邸宅に招かれたとき、私たちと同じテーブルにブラジルの元経済産業大臣と奥様が着席。その奥様が「最近あなたのコレクションの色使いは以前とは少し違って明るさがないように感じますが」と発言すると、賢三さんは申し訳なさそうな表情で「いまは他のデザイナーがデザインしていて、私ではないんです」。この説明に夫人は納得されていましたが、そのやりとりを横で聞いていたご主人は「だったらここにいるブラジル人の資本でブランドを再出発すればいい。相談に乗りますよ」。日本人でなくても応援したくなるキャラクターなんですよね。

セミナーでは、デビュー時のブランド名「ジャングルジャップ」を「ケンゾー」に変更した経緯を説明、「移民で苦労された日系人の方々には本当に申し訳ありませんでした」とお詫びされていました。ブティックの物件は確保できてもインテリアデザイナーに空間演出を頼む資金はなく、大好きなアンリ・ルソーのジャングルの絵を自ら壁に描き、ゴロが良いからと単純にショップ名を「ジャングルジャップ」にしてしまった、と。私もブランド名変更の経緯を初めて知りました。ネット検索すると確かに賢三さんがショップの壁にルソーの絵を描き上げた写真が出てきます。


​2018年帰国時のツーショット​

サンパウロ後ニュースが2つ入りました。1つはファッション業界ゆかりのサントノーレ通りの一方通行を賢三さん運転の車が逆走、賢三さんが逮捕された話。パリに住んで半世紀近いというのにうっかりだったんでしょう、賢三さんらしいです。すぐ釈放されて良かった。

もう1つは韓国企業が契約不履行で賢三さんを訴えたニュース。賢三さんは人を騙したりプライドが高くて不義理をするような人ではありません。両者の間に入っている会社の手続きミス、あるいは何か誤解が生じたのではと私は思います。賢三さんはこれまで人をすぐに信用して何度も騙されてきました。だからサンパウロでは「あなたは有名人だから寄ってくる人が多い、もっと警戒しないとダメですよ」とディナーの席で毎晩申し上げました。

その後も東京でお会いする機会は何度もありました。一般的なブランド回顧展ではなく、若いデザイナーや学生さんを巻き込んで未来志向の高田賢三展をやりましょうと話し、出身校である文化学園の大沼淳理事長に提案したことがあります。文化服装学院の学生たちが賢三さんのアシスタントデザイナーとなってコレクションのデッサンを描き、パターンを組み立て、生地を調達し、実際にサンプルを創作、ここで賢三さんの講評を受けるカリキュラムを編成できないでしょうか、と相談に行きました。

文化出版局はケンゾーコレクションの記録写真をたくさん保存しています。賢三さん本人に代わってケンゾーについて解説できる文化の先生、出版局の編集者は何人もいらっしゃいます。資料館にはアーカイブコレクションもかなり保管されているはず。これらを全て活用し、特別カリキュラムで製作した作品とそれに対する賢三さん本人の講評を一般公開しましょう、と提案していました。

しかしながら、2020年10月に高田賢三さん、翌11月には大沼淳さんが相次いで逝去され、結局私の提案は実現することはありませんでした。賢三さんは家具、インテリアデザインの新会社を立ち上げ、ファッションとは別分野でクリエーション活動を進めていました。新型コロナウイルス感染で亡くなるとは、ご本人が一番悔しいでしょうね。





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Last updated  2022.11.18 15:48:13
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