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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2022.09.05
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藤巻幸夫さんがセブン&アイ生活デザイン研究所社長になった当初、彼はイトーヨーカドーの売り場を回って現場で定数定量管理を指導していました。伊勢丹、バーニーズジャパンで彼の先輩に当たる有賀昌男さんもまたエルメスジャポンの社長に就任した当初、社員にマーチャンダイジングの基本である定数定量管理を説いていました。さすが伊勢丹出身者です。

「ミスター百貨店」とも言われる山中鏆さん(当時は東武百貨店社長)に「どうして伊勢丹社員だけがマーチャンダイジングの基本を叩き込まれているんですか」と質問したところ、「キミは終戦直後の新宿の街を知らないだろう。汚かったんだよ」と切り出し、当時の伊勢丹を取り巻く環境を教えてくれました。

伊勢丹はターミナル駅に隣接しているわけではないし、戦後新宿の街は銀座ほど整然とはしていなかった。お客様の多くはごちゃごちゃの街並みを通って伊勢丹に足を運んでくださる。ボーッと営業していたのではお客様は来てくれない。どうやって魅力的な百貨店にするかを議論していたら、アメリカの百貨店にはマーチャンダイジングというものがあるらしいというのでその手引き書を購入、翻訳テキストを作成、社内研修を重ね、要点だけを羅列した小さなメモを社員は携帯することになったそうです。

1990年新宿にバーニーズジャパンがオープンしたとき、伊勢丹から出向した田代敏明社長の名刺入れにもこの小型メモはありました。品揃えや商品展開に迷ったらこのメモを見る、伊勢丹社員にとっては必携のお守りでした。1976年山中さんが伊勢丹専務から松屋に転じたら社員は同じメモの携帯を義務付けられ、閉店後売り場で社長自らマーチャンダイジングを教える「山中学校」を開いた話は有名です。さらに、1990年東武百貨店社長に就任されたときも、東武の社員にはやや大きめ文字の同じメモを配りました。

1950年代米国式マーチャンダイジングの導入と実践を伊勢丹でリードしたのは山中さんの上司だった山本宗二さん、のちに東急グループ五島昇さんに請われて東急百貨店の再建に乗り出す「デパートの神様」と呼ばれた方です。「百貨店として当たり前のことを当たり前にやる」山本イズムと、米国式マーチャンダイジングを叩き込まれた山中さんは伊勢丹の番頭さん(専務取締役)として、松屋の社長並びに東武百貨店の社長として、たくさんの後進指導に当たりました。

1987年、思いがけず山中社長から電話が入りました。前にも触れた松屋ディレクター原口理恵さん急逝のあとのことです。要件は「キミに会いたいんだ、オフィスはどこかね」。場所を説明するより伺った方が早い、私は松屋銀座の事務館を訪ねました。松屋の取締役が数人同席、山中社長は「こいつらは委託販売で問屋に丸め込まれてバカなんだ」、何回も「バカ」「バカ」とおっしゃる(いまなら完全にパワハラ発言でしょうね)。アパレルメーカーとの間で委託販売や消化仕入れ取引の比重が高くなり、買い取りをしなくなったから百貨店は弱体化しているという意味でした。


​(中央・山中鏆さん、右・繊研新聞社松尾武幸さん)​

これを受けて私はミスター百貨店に、「委託はバツ、買い取りはマルなんて言うあなたこそバカじゃないんですか」、と遠慮なく申し上げました。するとムカっとした表情で「キミはアメリカが長いんだろっ」、買い取りビジネスが一般的なアメリカで仕事してきた者がおかしなことを言うじゃないかと思われたのでしょう。

「アメリカを知っているから申し上げているんです。買い取りはリスクありますが、収益は高い。委託取引は低収益でもノーリスク、実績のないブランドをすぐ導入できます。買い取りのメリット、委託のメリット両方を取り入れるのがビジネス、どっちがマルかバツなんて古いです」。

するといきなり「社長顧問になってくれないか」、これにはびっくりしました。まだ35歳にも満たない若造、いろんな百貨店と仲良くしなければならない中立的な組織の責任者が特定百貨店の社長顧問は無理です、とお断りしてこの日は帰りました。

その翌日、松屋の役員らがわがオフィスに。話は前日の続きでした。社長顧問は無理でも時々会食しながら相談に乗って欲しいという話でしたから、「それは喜んで」と答えました。ここから私と松屋の長い関係が始まります。

1989年は創業120年、これに向けて松屋は銀座店の大きな改装を計画中でした。山中さんは松屋幹部もいる宴席で「社員はルイヴィトンを導入したいと言ってるんだが、キミはどう思うかね」、私は「ルイヴィトンを入れるだけが大改装計画ではカッコ悪いでしょ」と答えました。すると「(太田は)ダメと言ってるぞ」と幹部に。私はルイヴィトンが悪いなんてことは一言も言っていませんが、山中さんはご自身のお考えもあってか導入に反対だったのでしょう。

山中さんは記者団がいる場でも、高価なルイヴィトンのバッグを持っている女性たちを否定するかのようなコメントを発し、ルイヴィトン側からクレームが来たとも聞きました。いまだったらこんなコメントは女性に対するハラスメントとしてテレビや週刊誌で激しく叩かれるでしょうね。

これはまずい、さっそく山中社長を訪ねました。「誤解しないでください。ルイヴィトンは悪いブランドではありません。120周年の記念すべき改装なんですから、現時点で無名でも将来性ありそうなブランドを発掘し、売り場で育ててこそ百貨店の仕事でしょ」と申し上げ、無名ブランドの一例として六本木の星条旗通りに路面直営店があった英国マルベリーの名前をあげました。

翌日、山中社長はマルベリー直営店に現れます。その場に居合わせたブランド責任者の馬場宗俊さん(当時は八木通商マルベリー担当)に「太田くんが行けと言うから見に来たんだよ」。すぐ馬場さんから「びっくりしました」と電話がありました。そして松屋はメインフロアにマルベリーのショップを開店、ジャパン社設立に協力しても良いという提案も馬場さんにあったようです。結果的にマルベリージャパンは元松屋コーディネーター西山栄子さんのご主人で堀留の生地問屋の社長さんが出資しました。

創業120周年を機に山中さんは創業一族の古屋勝彦さんに社長をバトンタッチ、松屋会長に就任されました。ちょうどその頃私たちは墨田区役所と一緒にファッションビジネスのプロ育成機関を移転後の区役所跡地に建設する構想(IFIビジネススクールにいずれは繋がるもの)を練っていました。座長は繊研新聞社編集局長松尾武幸さん、コルクルームの安達市三さんと私が主たるカリキュラム立案者。大筋教育プランがまとまり、理事長兼学長を誰にしようか議論していたところへ松屋社長退任のニュース、正式開校時には相談役か名誉職、少しは教育に時間を割けるだろうと就任の可能性を打診しました。

山中さんは「墨田区の皆さんには松屋浅草店が大変お世話になっている」という理由もあって就任要請を受け、ここから墨田区の戦略会議に参加されました。ところが、松屋会長を退任して今度は東武百貨店社長就任のニュース、私はすぐ会長室を訪問しました。年齢のこともあって社長の激務は大変、人材育成機関代表との兼務となればさらにきつい、思いとどまるわけにはいかないでしょうかと申し上げると、私の発言は完全無視、上着の内ポケットから取り出した紙切れを渡されました。東武百貨店の組織図でした。

「この組織図、良くないですねえ。商品部門が組織図の下の方に書いてあります。直して良いですか」とお断りして組織ラインを修正、山中さんに戻しました。山中さんは手を入れた組織図の上下を逆さにして「できたな」。逆さにした組織図の最上段は「お客様」、最下段は「取締役会」だったか「社長」だったかは忘れましたが、このとき「このじいさんやっぱり凄いわ」と改めて思いました。

東武百貨店社長就任時、池袋駅の反対側の西武百貨店といかに戦うかを話し合ったことがあります。私は豊島区の住民、西武も東武も利用します。百貨店を寿司屋に例えてこう説明しました。

冷凍物を一切使わない高級店、ネタは全て揃っている。しかし、常連客には丁寧な対応だがフリー客にはちょっと敷居が高い店があります。これに対して、冷凍マグロも使うお店はどういう戦略を取りますか。常連客もフリー客も分け隔てなく平等に扱い、丁寧に寿司を握るしか道はないでしょう。冷凍物でも良いじゃないですか、美味しければ。

後日東武百貨店から発表されたキャッチコピーは「親切一番店」と「普通の百貨店」。飲みながら話したことを山中さんが社員に伝えて誕生したのでしょう。親子ほど年の離れた若造の話にも真摯に耳を傾ける、その耳はダンボのようにとてつもなく大きかったです。





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Last updated  2022.11.18 15:39:17
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