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2005年04月26日
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また一年経ちました。1年前の日記を再掲載いたします。


今日4月25日は私にとってとても大事な日です。

飯村大くんという私の教え子の命日でした。大くんが交通事故でこの世を去ってから今日でちょうど2年です。

2年前、大君のお母様から私宛に電話がありました。何か嫌な胸騒ぎがしました。大くんが夜中に北海道の支笏湖近くの道を車で走っていたとき、何かを避けるようにしてハンドルをきり(たぬきでも避けたのでしょうか)、あわててハンドルを逆に戻したところ、道路わきのコンクリートに乗り上げ、横転し、電信柱に激突した、とのことです。腹部の骨がすべて複雑骨折し、苦しむ間もない即死だっただろう、とのことでした。私は自分の中で何がなんだかわからなくなり、絶句したあと、教室には先生も生徒もたくさんいるのにもかかわらず、電話口で号泣、嗚咽しました。

死ぬ直前、死ぬ瞬間、大君は何を考え、何を感じていたのでしょうか。あまりにも早すぎる彼の死ですが、彼は幸せな人生だったのでしょうか、そうではないのでしょうか。それは本当のところは私にはわかりません。ただ、これから紹介する彼が残したメッセージを読むと生きがい、やりがいに溢れた幸せな最後の数年間だったのではないかと思います。彼が20歳のときに書き、ベッドの横にはりつけ目標にしていた紙と、お父さんへの手紙を紹介します。お父様への手紙は書いたものの、投函することはなく、彼の部屋に残されていたそうです。志半ばで焦点した彼のメッセージを読み、何かを感じてくれる事を願っています。私たちも一瞬一瞬を大切に、自らの人生を燃やし続けていかなければなりません。

飯村大君がアシストに通っていたときのこと

私のアシストという塾は平成9年にスタートしました。当時、私はそれまで勤めていた銀行を26歳で退職し、「子供たちにやる気、勇気、元気を与えよう」「タフに生き抜く子供を育てよう」と思い、資金も経験もないまま横浜のマンションの1室を借りてスタートしました。当時は私の住まいと職場が兼用の本当に小さな小さな塾でした。不登校の子ばかりが集う塾で片道2時間くらいかけて通ってくる生徒もいるような一種独特な塾でした。
 そんな小さな塾の初期のころ、Yくんという不登校の塾生に連れられて大君はアシストにやってきました。Y君が言うには「先生、俺もいい加減でダメ人間だけど、この大って奴は俺の100倍、無気力でやる気がないんだぜ!ははは!」などと紹介されていました。
本人に聞くと小学校4年生から不登校が始まり、19歳の今まで何度も学校に行きかけたけど、続かなくなり、ほとんど学校には通っていない、とのことでした。そのときも大検を受検しようとし、駿台予備校に行き始めたけど、結局すぐに通うのをやめてしまっている、という時期でした。
 大君は身長が170センチくらいあるのに体重は43キロしかないやせっぽちの男でいつも顔色が悪く、一日にコーラを10本以上飲んでいるような子でした。友人に連れられて塾に来ると、いつもそれなりに楽しんでいくのですが、友人に誘われないと一人では塾に通えないような生徒でした。家に帰ると「塾に行って、今村先生に会うのは楽しいんだよな。でも、行くのが面倒だから、朝起きれないんだ」と通うのをやめてしまうような無気力な不登校児でした。
 塾にも来たり来なかったりが続いてはいましたが、少しずつ彼の顔に生気が浮かんできたころ、彼に「ねえ、大君。大君が一番やりたいこととか興味って何だよ?」と尋ねました。すると「麻雀と車の免許を取ることかな」と言いました。私は「人間、興味のあること、好きな事をするときには気力が充実し、疲れもしない」「長所を伸ばせば気力体力が充実してくる」「一流の人間に関われば一流の人になれる」ということを経験的に知っています。彼の人生の無気力な悪循環をとめるにはとことん好きなことに没頭させることが必要だ、と思い「よし!麻雀の世界に桜井章一さんという素晴らしい人がいる。大君、桜井章一さんの主宰している麻雀道場に通って、雰囲気を楽しんで来い。そして車の免許も取って来い。ただし、今までの大くんだと車の免許を取りに通い始めても、途中で億劫になり通うのを止めてしまう可能性もある。だから自動車学校は塾の裏手にある関東自動車学校にしろ。さらに免許を取るまではうちで合宿しろ」と話しました。
 当時、一度家に帰ってしまうと、だらしない生活に戻ってしまったり、陰気な生活に戻ってしまう子が多く、いかに塾で楽しい体験をさせても、塾に通うのを面倒になってしまう子が多かったので、積極的な生活習慣がつくまでは塾で預かっていて、たくさんの生徒が塾内で共同生活をしていました。朝はランニング、昼は少しだけ勉強をして、あとは大好きな漫画を読んだり、テレビ、映画を見たり、昼寝をしたりで、英語や数学の勉強なんておまけ程度のものでした。ただし、積極的なものの考え方、見方を手に入れるためにウェイトトレーニングと読書だけは必須でした。大くんは腕立て伏せも腹筋も1回もできないようなもやしっ子でした。当時は生徒数も少なく、同居している約15人の生徒の食費などの生活費はすべてこちらで個人負担していたので、私自身、相当お金に窮していて、昼間は土方のアルバイトやその他の金になることはなんでもやるくらい必至になってバイトをしながら皆を養っていました。ただし、このころが大君にとっても僕にとっても一番の青春時代だったのかもしれません。6畳2間に15人くらいが雑魚寝をしていて、なんの具も入っていないそばやうどんを食べ、それすらも切らしているときには誰かが冷蔵庫の隅からマヨネーズを見つけてきてみんなの手のひらにマヨネーズを少しずつたらし、みんなでペロペロなめながら空腹を癒し、大笑いしていました。まだ私も26歳で良い兄貴分でいてあげられ、たくさん関われる時間があり、笑がたえなかったあのころがアシストの原点なのでしょう。
 うちで共同生活をするようになってしばらくしたころ、筋トレ効果と桜井章一先生の麻雀道場が良かったのでしょう。大君は気力体力充実し、大検試験にも合格しました。目にも力が入っています。さらに大君はスクワット500回、腕立て伏せ100回、腹筋300回ができるようになっていました。
 このころから無気力な大くんはどこかに消えうせ、いつも快活な男になってきました。「この漫画おもしろいから読めよ」「この本、おもしろいから読めよ」「○○っておもしろいから大君、やってみろよ」と伝えると水を得た魚のように僕が渡した課題を楽しみながらこなしていきました。このころに読んだ本で中村天風師の本が彼には会っていた様子で「僕は積極的な行き方をするんだ!」という決意が伝わってくるような風格が漂ってきました。すでに僕にとって教え子というよりも、良き話し相手、一人前のパートナーになっていました。
 大検合格後、大君はすぐには大学進学をしませんでした。何をやりたいのかもっと考えて、英語の実力ももっと身につけてから大学を選びたい、と言っていました。そんなある日、私のいとこが自動車短大というところに進み、立派な知識と腕を手に入れ、充実した人生を手に入れている話を大君にしました。「大君、まわりが言っているような偏差値や世間体で学校選びなんかするなよ。それでは今までの小学校、中学校、高校と同じでつまらなくなってしまうぞ。また通うのがイヤになてつぃまうぞ。お前の一番好きで一番やりたいことに磨きをかけるような道を選べよ。と伝えました。そうしてしばらくすると、彼自身も車の世界で身を立てたいという自分の深い心に気づき、北海道自動車短大への進学を決めました。
 横浜を離れ、札幌に行く直前に大君と飲みました。彼は希望にあふれていました。私はとにかく「自分のしたいことをしろ。まわりの目は無視しろ。おまえには無限の可能性がある。無理に決まっているよ、と無責任に言う夢泥棒の言葉には耳を貸すな。学生時代に確固たる自信を持つために何かで北海道で一番になってこい。できればどんな小さなことでもいいから日本一を目指してみろ」と話し、送り出しました。
 その後、彼は横浜に帰省するといつも私に会いに来てくれ、楽しい報告をたくさんしてくれました。大学の自治会の会長になったこと、ソーラーカーの大会で優勝したこと、成績優秀で卒業式の総代になったこと、車のレースで活躍していること・・・・・・。そこには10年間、不登校、引きこもりだった子供の面影は一切ありませんでした。いつも会うだけで、私のほうが励まされ、勇気付けられるような立派な青年になっていました。飯村大君が「ただ存在するだけで、周りの人の喜びになる」ような深い愛情と優しさと強さと信念の強さを持った青年になっていたのです。
 私が最後に彼と話したのは亡くなる2ヶ月くらい前でしょうか。電話で話しました。「先生、僕は外国に行ってラリーを本気で修行してくる。本場でもまれて、その道で日本のトップになる。そうして、出会いによって運命は変わるんだ、誰でも夢に燃えて生きれば人生を変えることができるんだ、ということを今度は僕が人に伝えたい。何をやっても中途半端だった元不登校児の俺だからできることがあるんだ。だから、今村先生のところで、少し働かせてほしい。そして塾のことも教えてほしい」と言ってくれました。私にとってはものすごくありがたく嬉しい申し出なので「大君、来年の4月からうちの正社員として働け。うちは厳しいけど、おまえなら平気だ」と約束し、来年の春の到来を私は心より楽しみにしていました。

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最終更新日  2005年04月27日 00時33分04秒
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