★「長谷川平蔵」
★「長谷川平蔵」最近 宇多田ヒカルのブログを読んでるとやたらめったら登場する鬼平犯科帳の長谷川平蔵ですが気になって調べてみました本名は長谷川 宣以(はせがわ のぶため)延享3年(1746年)に400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として赤坂築地中之町(現.東京都港区赤坂6丁目)で誕生、幼名は銕三郎(てつさぶろう)長谷川家は両番(書院番士、小姓番士)の家柄母親は長谷川家の知行地(将軍から授かった土地)の上総から奉公に来ていた庄屋・三原氏の娘鬼平犯科帳では巣鴨村の大百姓である三沢仙右衛門の娘・お園この結婚の為か宣雄は長谷川家には住まずに妻と息子と共に妻の実家で生活をする延享6年(1749年)3歳の時に叔父の長谷川宣尹が宣雄を末期養子(死に際に縁組みされる養子)にし、家督相続の為に宣以の母親と別れさせ宣尹の妹(養子)と結婚させた(鬼平犯科帳での名前は「波津」)寛延3年(1750年)5月22日 5歳で築地湊町の鉄砲洲(現.東京都中央区湊1丁目)に転居ここは長谷川家の屋敷7月15日、義母が他界鬼平犯科帳では明和元年(1763年)17歳で父の尽力により実家である長谷川家に迎えられるが波津とはそりが合わず「妾腹の子」と手酷く蔑まれ、その反発から家出する本所・深川界隈の無頼漢の頭となり「本所の鬼」「入江町の銕さん」などと恐れられ、長谷川家を勘当寸前になるが父が庇い勘当は免れたこの当時に剣術を一刀流・高杉銀平に学び、腕を磨いた明和元年(1764年)4月11日に19歳で父・宣雄が先手・弓の8番手の組頭に出世これにより10月17日、本所三ツ目(現・新宿線「菊川」)の1238坪の屋敷に転居明和5年(1768年)12月5日、23歳で10代将軍・家治に御目見、長谷川家の家督相続人となる(旗本、武士として公式に認められた)明和6年(1769年)24歳で旗本の大橋与惣兵衛親英の三女「久栄(鬼平犯科帳での名前、17歳)」と結婚明和8年(1771年)26歳で長男の宣義が誕生10月17日、父・宣雄が火盗改助役に任命される安永元年(1772年)3月6日、27歳で父・宣雄が火盗改本役に任命される10月15日、父・宣雄が京都西町奉行に栄転、京都に転居安永2年(1773年)6月22日、28歳で父宣雄・没(55歳)9月7日、本所三ツ目の屋敷に転居、遺跡を継ぐ小普請(無役の窓際族か辞令待ち)の閑職になる安永3年(1774年)11月11日、29歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任命される天明元 (1781年) 36歳で次男、銕次郎が誕生 天明4年(1784年)11月11日、39歳で進物番に任命される12月8日、西の丸御徒士頭に任命される12月16日、布衣(部隊長格の証)の着用を許される天明6年(1786年)7月26日、46歳で御先手組弓頭に任命される天明7年(1787年)42歳で5月に江戸で起こった打ちこわしの暴動を先手組と与力75騎、同心300名を率いて鎮圧これが老中・松平定信の目に留まり9月19日、 火付盗賊改方の加役(臨時職で火附盗賊改兼先手組頭)に任命される天明7年(1787年)9月に助役に任命される天明8年(1788年)4月28日、43歳で助役を解任される、天明8年(1788年)10月2日、本役として再任される12月23日、長男・宣義が将軍に御目見(18歳)寛政元年(1789年)44歳で4月に関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲とも書かれている)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる8月頃、定信、無宿人対策を問う寛政2年(1790年)2月19日、45歳で老中松平定信の命で石川島人足寄場設置を決定、6月4日、寄場完成、人足寄場取扱を兼務する10月16日、捕盗留任寛政3年(1791年)4月、45歳で銭相場に関与4月22日、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、5月3日(6月4日)、葵小僧を獄門寛政4年(1792年) 6月4日、47歳で人足寄場取扱を罷免、黄金5枚賜下寛政6年(1794年)10月29日、49歳で火盗改に時服賜下寛政7年(1795年)4月、50歳で病に倒れる5月10日(6月26日)没、病死喪を秘す(戒名・海雲院殿光遠日耀居士)5月14日、御役御免を申し出5月16日、御役御免、黄金5枚と時服一領を賜下5月19日、喪を発す愛刀は「粟田口国綱(あわたぐちくにつな)」鎌倉時代初期、山城国粟田口の刀工鳥羽天皇の御番鍛冶を勤る鎌倉山の内に移住し、北条時頼のために天下五剣の一つ「鬼丸(皇室御物)」を作刀(天下五剣は他に「童子切(国宝 )」「三日月宗近(国宝 )」「大典太(国宝 )」「数珠丸(重要文化財)」がある)「井上真改(いのうえ しんかい)」江戸時代前期に摂津国で活動した刀工津田越前守助広とともに大坂新刀の双璧と称される刀工刀の銘は壮年期まで「国貞」で晩年は「真改」書をはじめ刀剣以外の美術・工芸にも造形が深い脇差に「備前兼光」長船鍛冶の嫡流で景光の子備前長船派の刀工の中でも一際雄大な刀姿を誇り、その切れ味と豪壮な造り込みから戦国武将に好まれ、足利尊氏、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、黒田長政など兼光を愛刀とした武将は数多い。長谷川平蔵の住居跡に数十年後遠山景元(遠山の金さん)が住んだそうです