吉都線~田野~清武前のページ | ホームに戻る | 次のページ 吉都線から田野、清武へ 吉都線から田野、清武へ <2008年2月2日の日記から> <1972年(昭和47年)7月31日の夜> 鹿児島機関区の夜の撮影が終わって,西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)近くで,食事をした。 ぶらりと入った店で注文したが,なにぶん金がないので,安いものを選んだ。 それが,とんそくだった。 「とんそく」なんて,知らんがな。どんなものだろう。出てきたものを見て, あちゃ~,これは食えんわい。ご飯と,味噌汁と,とんそく(豚足)。 そのまんまだった。「そうか,とんそくのとんは豚のことか。豚の足だ。」 注文した以上食わねばならぬ。 足先を切り落とした部分を茹でただけ。塩味はついているが,骨だらけで 食べる部分は少なかった。失敗だった。 でも,豚足なるものは,それ以後も食べたことがないので,いい思い出です。 吉都線で運用されているC55を写すために,吉松に向かった。 そして吉松機関区にて泊まることにした。吉松は山間部の町といえる。 八代から人吉までの球磨川沿いの川線に比べて,人吉から吉松までは, 有名な矢岳越えがある。大畑の大ループを迫力ある煙で登っていくD51は SLファンなら誰でも知っている路線です。 その,ふもとの吉松は周りが山,また山です。 例のごとく、機関区の風呂に入ることにした。駅舎の待合室に荷物を置いて, タオルだけを持っていった。機関区のはずれにそれらしき小屋がある。 しめしめ,誰も入っていない。ゆっくりと,ひとりで貸しきり状態だった。 そのうち誰かが入ってきた。やば~~~。 何にも話がないのもおかしいよね。ついに,相手が話しかけてきた。 でも,わからん。 「だれそれの何が何して,なんかいの~?」 みたいな内容だと思ったが,そんなの知らんワイ。 返事をしないわけにもいかず。生返事でごまかした。 だいたい,職員は少なくて,みんなが顔見知りですから,疑問に思われても不思議ではない。 まあ,なんとか佐賀弁でしのいだ。 風呂から上がって,やれやれほっとした。周りはほんとに山奥の田舎の風情でした。 風呂小屋を出てから、僕の周りに大きな虫が飛んでいた。小屋の明かりに寄ってきたのかな。 叩き落したか、何もしなかったのか、忘れたが、その虫はかぶと虫だった。 「え~~、おいおい、かぶと虫が飛び回る田舎かよ。すごい所だ。」 脳裏にかぶと虫の印象が残る吉松だった。 真夏だけど,少しひんやりしていた。待合室では店の閉店まで,ゆっくりと夜の時間を過ごした。 ここは、最終列車の到着で駅舎を締めるという。 当時は今みたいにコンビがあるわけでもなく,少し大きな駅には売店があった。 だから,防犯上,締め出されるのは仕方がない。 あれまあ、予定が狂ってしまった。どうしましょう。 寝床を探したが、乗務員宿舎が分からない。 宮崎機関区みたいに大きければ、厚かましく入り込むのだが、初めての場所です。 ちょっと、遠慮しましたね。それに、適度な気温で外で野宿もいいかなと、 機関区内を散歩しました。アイデアがひらめきます。 そうです。あたたかい場所があるのです。 乗車する予定の始発列車を牽引するD51を確認して、その運転席で寝ることを思いついた。 夜露がしのげれば良かったし、運転席はボイラーの程よい暖かさで気持ち良かった。 しかし、これが、今も残る火傷の痕を作ることになってしまった。 右足のふくらはぎが運転レバーの台座にあたっていた。 ボイラーからの熱が運転席の装置にまで,熱が伝わっていた。 それで,気持ちいいあたたかさであったが、一晩も続くと,だめなんですね。 次の日はどうも足がハチに刺されたみたいにチクチクと痛い。 ジーパンをめくってみると、あれまあ、ぷっくりと腫れて、水泡ができている。 低温やけどです。程度でいうと2度のレベルです。破れないことを祈っていましたが、 ジーパンはいて歩き回りますから、ついに破れた。 我慢するしかないですね。 その後、傷跡はピンポン玉の大きさで内部が固まってしまった。 内部の筋肉組織が柔らかくなるのに、10年ぐらいかかったように思う。 さて、吉都線ではC55を写すのを目的としていましたが、その日の運用は C57と同じに 宮崎~都城間だという。 ということで、吉松から都城までは、SL旅客列車に乗ることにした。 SLを撮影していると、なかなか乗ることがありません。たまにはいいもんです。 これより、<2008年2月2日の日記から> <1972年(昭和47年)8月1日> 吉都線を撮影したはずだが、どうしたのか、そのフィルムがない。 撮影していないというより、ネガを見ると吉松発の列車で都城まで行っている。 都城で機関区撮影のあとは、日豊本線に足を伸ばしている。 疲れて乗り過ごしたのかな?それとも撮影場所に魅力がなかったのかな。? 吉都線については別の撮影旅行で写していますから、そのときのアップの時に 出します。思い出しました。 C55です。九州で2両だけ残っているC55が吉都線ではなく、 日豊本線と肥薩線で運行されていたのがわかったのです。 吉松に宿泊したにもかかわらず、宮崎以南に撮影場所を変更しました。 やっと、謎が解明できた。この後の撮影されたSLの写真でわかりました。 結果的に良い作品が撮れたので、まあ満足です。 では、今回はドバ~と出します。 当時はミニスカートが流行りましたね。別にねらったわけではありません。 偶然です。ほんとだって。信じてください。お願い。僕の恋人はSLなんですから。 「高原駅」(たかはる)です。 宮崎県では「原」を「はる」とか「わら」と地名がついています。 東国原知事も「ひがしこくばる」と発音しますね。 広原(ひろわら)という駅が近くにあります。 このSLは何だったんだろう。D51の予定だが、はやりC57だったかなあ。 不思議なことに写してないのです。写していないから、きっとD51でしょう。 都城機関区です。 昔、親父から都城はな、「みやこんじょう」と地元は言うのだ。と聞いたことがあった。 駅に着いたとき、駅員の発音に留意して聞いたら、やはり「みやこんじょう」でした。 機関区で休んでいた目的のC55を写しました。 このC57127は走行写真が少ない。美しいサイドをどうぞ。 このあとの写真は青井岳からの撮影です。 ジャンル別一覧
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