カテゴリ:■ ご先祖様の、日本史探訪。
■ [4k]KAMAKURA JAPAN 鶴岡八幡宮例大祭 鎌倉観光 Tsurugaoka Hachiman-gū Reitaisai (Festival)SAMURAI,BUSHIDO, 日本観光 ご先祖様を辿れば、日本史になってしまう。そんな、「ご先祖様の日本史探訪」です。 (1)源氏と同盟を組んだ氏族。 清和源氏と、藤原氏の主流であった藤原北家は、保元平治の乱で、壊滅的打撃を受けました。 藤原北家は、平家に政権を奪われ、源氏は、ほぼ全滅状態となったのです。 この状態から、源氏は、なぜ、鎌倉幕府を作れたのか、それは、藤原氏と、源氏の同盟関係が構築されていたからです。 そして、この同盟は、血縁関係を結ぶ事により、強化されて行ったのです。 関東の源氏を中心として、同盟関係に有ったのは、藤原北家、藤原秀郷の流れをくむ武士団の藤原氏、熱田神宮を拠点とする藤原南家、そして板東平氏でした。 藤原北家(八田氏・宇都宮氏・足立氏・安達氏・那須氏) 藤原秀郷流(伊賀氏・小山氏・比企氏) 藤原南家・熱田神宮(頼朝の母・二階堂氏・工藤氏) 板東平氏(千葉氏・北条氏・畠山氏・三浦氏・和田氏・鎌倉氏・梶原氏) 平家全盛の時代は、平家の監視が厳しく、まともに頼朝に接近しょうものなら、謀反と思われるでしょうし、子を持つなどしたら、殺害される可能性すらあったのです。 それ故、乳母と言う名目で接近する者が多かったのだと思われますが、ご落胤が多いのは、その為だと思われます。 (2)源頼朝の、ご落胤たち。 この、ご落胤に該当する者は、八田知家・島津忠久・大友能直・結城朝光・貞暁(じょうぎょう)などがおりますが、頼朝が流人であると言う状況から、戦略的に、源氏を名のらせないで子孫を残そうとしたのだと思われます。 (八田知家は、頼朝の父、源義朝のご落胤。すなわち、頼朝と異母兄弟。) また、頼朝は、他氏との同盟関係上、血統を重んじました。 その結果、清和源氏の棟梁(とうりょう)や、将軍になれるのは、藤原氏と関係ある者のみに限定せざるを得なかったのではないか、と思われます。 結城朝光の場合は、少なくとも、母の寒河尼は、数代前に朝廷を支配していた藤原北家の流れで、頼朝などより、家格は、上だったのです。 「源氏」と言うのは、嵯峨天皇の嵯峨源氏から始まりますが、要するに、将来、天皇になれない子供を、皇族から、リストラして、臣下にしたものに授ける称号とでも言いましょうか。 つまり、由緒はあるものの、天皇家から、降格された家系となった事を意味する称号なのです。 ちなみに、源氏21流と言われ、21人の天皇から、源氏が分かれて行きました。 ところで、一見、源頼朝が、朝廷から政権を奪い、幕府を開いた様にも見えますが、当初は、そうでは無かったと考えられます。 第一、征夷大将軍と言う称号も、朝廷から与えられたものであり、頼朝は、平家と戦をしたのであって、朝廷と戦をしたわけでもないのです。 それ故、後白河天皇の第三皇子の、以仁王の令旨を受けて、挙兵した訳ですが、それが無ければ、おそらく、挙兵は、しなかたと考えられます。 要するに、同盟軍が、足並みをそろえて、一斉に立ち上がらないと、動こうにも、動けなかった訳ですね。 源頼朝は、金も無い、部下もいない、土地も無い、官位もない罪人であり、家族もバラバラで、いつ殺されてもおかしくない様な、清和源氏の死にぞこない、にすぎなかったのです。 そんな、権威も何も無い、頼朝の「ご落胤」を、どうして名乗る者達が居たのでしょうか? 単純に考えると、名乗って、得するどころか、平家に知られたら、首を討たれます。 それ故、「ご落胤」は、同盟軍の結束を強める為の、最初からの戦略であった、と考えると、合点が行くのです。 (3)結城朝光は、ご落胤の筆頭で、藤原北家、藤原秀郷流「藤原氏」、醍醐源氏を結び付けた。 ここでは、ご落胤の筆頭である、結城朝光について、述べて行きます。 結城朝光の母は、寒川尼で、藤原北家(平家に政権を奪われた藤原氏)の出身です。 また、彼が、「伊賀朝光」の娘を妻とする事で、藤原秀郷流「藤原氏」と、醍醐源氏を、結びつける事になりました。 次の系図は、「伊賀朝光」を中心とする、結城朝光の系図ですが、彼は、父の頼朝よりも、格が高い事が分かります。 後年、頼朝が、自分の兄弟である、義経、範頼を臣下として扱い、距離をおき、公の場で、源氏を名乗らせなかったのは、母親の血統が、問題であった、と言うのが、本当の理由だと思われます。 義経の母は、「近衛天皇」の、中宮・九条院「藤原呈子」の、雑仕女(ぞうしめ)であった、「常盤御前」(ときわごぜん)で、源氏没落の後「平清盛」の、妾となっていました。 これに対し、寒川尼は、「近衛天皇」の、女房であった様です。 同じく、弟の「源範頼」の、母は、池田宿の、遊女だった様です。 しかし、たとえ、遊女では、あったとしても、貴族系の、人々の、相手をしている所から、家系を、辿れば、没落した、貴族の、系統と考えられますが、同盟の関係上、地位は、低くなります。 (2022年5月20日、修正、加筆) これに対し、源氏を名乗る事を許された者には、御門葉(ごもんよう)が与えられました。 結城朝光は、源氏を名乗ることを許されましたが、御門葉は、与えられて無い様です。 これは、一体、どう言う事でしょうか。 ある時、結城朝光は、御門葉を許された、足利義氏と、喧嘩になり、普通であれば、足利が勝つはずですが、結城朝光の主張が通っています。 これは、結城朝光が、本来、御門葉を許された源氏などより、家格が高かったので、そう言う結果になったものと思われます。 頼朝も、結城朝光に、御門葉を与えると、何か、降格させる様なイメージを抱いたのでしょう。 それで、そう言う称号は与えず、その代わりに、1兆円分の黄金を与えたのではないか? 歴史の研究者の中には、吾妻鑑の記述に、結城朝光が、頼朝の子であると書かれていないので、それは、嘘だと言う人もいます。 しかし、結城家の系図には、ちゃんと、そう書かれていますし、誰が、赤の他人に、1兆円の黄金など与えましょうか、よく、考えてみて下さい。 ちなみに、この黄金は、奥州藤原氏を滅ぼした時に、手に入れたものですが、日本三大埋蔵金伝説の一つになっております。 結城朝光は、この黄金の一部を使って、頼朝が「征夷大将軍」に就任できる様に、朝廷に働きかけたのではないでしょうか? (4)ご落胤は、血縁戦略の為に作られた。 当然、この戦略は、若年の頼朝が考えたものとは、思われません。 経済力や、人脈が無ければ、出来ない事だからです。 後白河法皇や、摂関家、藤原南家などが、地方に散っている血縁を通じて、頼朝と婚姻関係を結ぶように仕向けたのではないか。 そして、それを実行したのは、頼朝の乳母達でした。 ■ 知られている、主な乳母は4人ですが、まだ、他にも居たかもしれません。 ・比企尼 ・寒川尼 ・山内尼 ・三善康信の伯母 私が、そう考える理由は幾つかありますが、まず、第一に、頼朝の住所を知らなければ、乳母の集団は、頼朝に会う事は出来ません。 各、乳母たちは、どうやって、頼朝の住所を知ったのでしょうか? その当時は、電話帳はありませんし、地図だってありません。交番なんかもありません。 インターネットもなければ、道路だって整備されておりません。 車も有りません。 夜道には、街路灯も有りませんし、狼や、盗賊が出るかもしれません。 女性が、一人で、米を背負って、頼朝に会いに行ったとも思えません。 少なくとも、頼朝の母方の藤原南家は、頼朝を援助しておりました。 結城朝光の母の寒河尼は、藤原摂関家の流で、女房として近衛天皇に仕えた経歴をもっていたらしいのです。 その、宮中に居た人が、なぜ、都から遠く離れた、辺ぴな、ど田舎の流刑の地まで来て、見ず知らずの、頼朝の乳母になったのでしょうか? 寒河尼が、10キロの米を担いで、二週間も野宿をしながら、伊豆を観光旅行していたら、偶然、乳母募集の貼り紙でも見て、面接をして合格したとでも言うのでしょうか? これは、最初から仕組まれた、ご落胤戦略の為だとしたら、合点がいくのです。 相当な経済力が無ければ、こう言う戦略は実行できません。 ですから、江戸時代の天一坊とか、他の時代の、ご落胤説などとは、全く性質が異なるもなのです。 打倒、平家。 藤原北家の政権奪還、そして、源氏の復興のための周到な計画に基ずく作戦が実行されて行ったのです。 それ故、同じ様なパターンのご落胤が複数、存在する訳なのです。 「他の豪族が、ご落胤を名乗っているから、うちも名乗ろう。」 そんな、幼稚な遊び感覚で、ご落胤であることを、家伝の系図に載せたりはしないでしょう。 まかり間違えば、首が飛びます。一族滅亡の危機さえあるのです。 家伝の系図に、頼朝の名を載せるのは、「末代まで、源氏として、頼朝と共に、平家と戦うぞ。」と言う、決意の表れと考えられますが、これは秘伝であり、公にすると、平家に知られますので、秘していたのでしょう。 第一、流人のご落胤など、何の価値もないのですから・・・。 ■ デアゴスティーニ 日本の神社 第20号 (5)藤原南家による、他の源氏との血縁戦略。 さて、こうして、頼朝は、乳母軍団に恵まれ、ご落胤戦略などの政略結婚で、その勢力を拡大して行ったのです。 若い頼朝は、その戦略を知らないで、乳母や、その娘たちと関係を持ったのでしょう。 もし、頼朝が、自分で乳母たちを雇う生活をしていたとすれば、今に換算すると、月収50万以上なければ、無理では無かったか、非常にいい加減な計算ではありますが、流人の分際で、なぜ、そんなに金回りがいいのか、それは、藤原氏各派との同盟関係が成立していたからでしょう。 また、ご落胤で、自分の子供を作れば、相手の実家からの援助を、密かに受けることもできたとも考えられます。 ところで、足利義康が、藤原南家の娘をもらう事により、その兄の新田義重も一緒に、頼朝と義兄弟となっております。 源氏の系図で、三人が兄弟として並んでいるのは、そう言う理由からだったのです。 本当は、母系の兄弟だったんですね。 しかも、頼朝の母の、由良御前が、自分の兄の娘を養子にしておりますので、実質的には、義理の「いとこ」だったのです。 なぜ、養子の手続きをしたのか、それは、いとこより、兄弟となった方が結束が強まると言う事と、将軍になる序列に影響するからだと思います。 この様な事から、鎌倉幕府とは、私の先祖と、その親戚関係で成立していた、と考えても過言では無いと思います。 また、うちの自宅に、草薙の剣があったのですから、すごいでしょう。 [ 今日のご先祖様 ] 醍醐天皇、源高明、源邦業(くになり)、高望王、藤原行遠、二階堂行正と娘、藤原季兼と娘、尾張員職(かずもと)と娘、藤原光郷、工藤為憲、桓武天皇、嵯峨天皇、藤原秀郷、伊賀朝光、結城朝光、寒河尼、由良御前、源頼朝。 (赤い文字は、新たに先祖であると、判明した方々。) ■ 子どものためのまんがで読む古事記(1) [ 久松文雄 ] 久松文雄/画 スーパージェッタ―でおなじみの、あの久松文雄が描く古事記倭建命。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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