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カテゴリ:1975年頃のディスコのお話
1975年の夏も終わり、V-oneの仕事にも慣れ始めたころ、委員長の前に旧友が一気に現れ始めました。
高校時代からのバカ友、井の頭線三鷹台駅前の酒屋の次男坊は、新しい彼女を連れて客としてやって来るようになりました。 その次男坊の地元中学の同級生ケイゾーも、ようやく新しい職場に落ち着き、スネさんを伴って遊びに来ました。もちろんS子も一緒です。 ちなみに、この三人が遊びに来た日に客同士のちょっとしたケンカがあったのですが、なんと止めに入って裁いたのはS子でした。ケンカの当事者同士もスゴスゴと引き下がるほどの迫力に、今更ながら頭の下がった委員長でした。 「あたしさぁ、小さいときからお祭り好きでさぁ、神輿担ぐのも大好きなんだよね。でももうそろそろ落ち着かなきゃいけないでしょ、ハハハ」って言ってる矢先の出来事でした。 更に、ビバヤングのDJマチャアキが新宿のジュリーこと鈴木昇二君を連れてやってきました。 博多からジャズドラマー目指して上京してきたマチャアキですが、ここらで一念発起、ミュージシャンの夢は一旦あきらめ、事業家としての出発を試みたのでした。 その相棒がジュリーで、新宿の仲間を集めて企画会社を立ち上げたとのこと、まずはそのご挨拶と、第一回企画として「パーティ」を主催するための会場にV-oneを使わせて欲しいとのお願いに来たのでした。 まんざら知らない仲でもなし、マチャアキは梅ちゃんに頼んで格安パーティ会場の提供を受けたのです。 そこで久々にマチャアキと再会した委員長は、マチャアキの誘いにこころよく応じ、この時はじめてジュリーこと鈴木昇二と出会いました。 「俺達みたいなモンでも集まれば何かできるはずだ」 (若い頃は誰でも一度は経験ありますね) (しかしバカがいくら集まったところでカバにもなれません。ゴホン、失礼) そう熱く語るマチャアキに道楽者のバカ一同は感動し、夢の世界へ一直線。 怖いもの知らずの若者はいつの時代でも、それが無謀な生き方だと判っていても夢見ることに憧れます。(何の根拠もない夢なんだけどね) “総合企画 ひとやすみ” 社長○○マサアキ 副社長鈴木昇二 あとのメンバーも、ディスコDJや喫茶店で働く新宿の仲間が集まっていると聞いて、委員長も異常に興奮しました。オレも入れてくれぇ~ってなもんです。 もちろんケイゾーやヒデトも、元来お調子者の道楽者ですから、それなら俺らも一枚乗るぞってなことで、すぐに話は進みます。 酒屋の息子だけは現役の大学生、ちょっと大人の彼女もできたせいか、今までに無く落ち着いた態度で、「しっかりやれよ」みたいな生意気こいて、この日を境に道楽者の仲間からは外れていきました。(それがあたりまえなんだけどね) そしてこの時、マチャアキからジョイ吉野が目黒のディスコでDJデビューした話を聞いて、「なにぃ~」と益々燃え上がる委員長でした。 どういう経緯でたどり着いたのかは知りませんが、目黒のファンキーホースという店でDJを始めた吉野、後輩ながらあっぱれという気持ちと、先を越されたという複雑な気持ちでした。この時の委員長は、別段DJを目指していたわけではありませんが、相変わらずディスコでウェイターをやってる自分がひどく遅れをとったような気がしたのです。 総合企画ひとやすみ主催 「愛と夢を求めて~ディスコパーティ’75」 なんだかよく分からないコンセプトですが、都会で生活する寂しい若者のための楽しいパーティの場を提供するって、今風に言うと「合コン」ですか。そのまんまですね。 要は「出会い」を求めている若者を集めて、酒飲まして躍らせるって、委員長が高校生の頃からやってるパーティ屋ですよね。 単にプロが仕掛けただけのことで、中味にたいした違いはありませんが、なんつってもそりゃディスコの従業員やDJがパー券売るんですから、あっという間に完売です。 委員長にしてみりゃ、そんな金儲けとかより、また新しい道楽者に出会えるってことの方が興味深くて、「ひとやすみ」の溜まり場であった歌舞伎町DJ喫茶「白馬車」へ出入りすることの方がとても刺激的でした。 白馬車は、歌舞伎町一番街のコマ劇場寄りにあるビルの2階にあった喫茶店で、3階は同伴で、いわゆる深夜喫茶と呼ばれる24時間営業のお店でした。 この店の特徴は、店の中央部にサテライトがあり、ラジオさながらのディスクジョッキーが入っていたことでした。もちろん、マチャアキやジュリーもここでラジオDJ目指して修行を積んだ場所であり、当時はラジオのジョッキーを目指すアマチュアの登竜門のようなお店でした。この店の支配人をしていたフジワラさんという年配のおっちゃんが、マチャアキとジュリーの話に興味を持って、それならオレにも一口乗せてくれってな話から、次第に仲間が増えていったというような経緯でありました。 コトの発端は、仕事帰りの始発待ちにこの店を利用していた同業者が、深夜のDJを通じて顔見知りになり、愚にも付かない夢を語っているうちに本気になったというような、典型的な道楽者の戯言、ヤマ話だったわけです。 集まったメンバーは、当時スキャットのDJだったイサムちゃん、クレージーホースのDJ高橋さん(この人がV-one出身だったと後で聞かされて驚きました)、ムゲンの渡辺さん、トゥモローの池ちゃん(この人もV-one出身だった)、あとDJ見習いのような若者数人(いつの間にかいなくなちゃったケド)、などが毎晩白馬車に集まっては愚にも付かないヤマ話に花咲いたのでした。 そーいえば、ビバヤングの兄貴、オオイケさんも一時ここに顔出していましたね。 マチャアキの見習いみたいなことして、白馬車のブースで皿回したりしてました。 ほんの一時でしたが、更正しようとはしたんでしょうね。 まあとにかく、何が起こるかわかりませんが、時代もまさにディスコブーム真っ只中、わけもわからず明日に期待する、あのワクワクした感じってのは、そう簡単には言葉で現すことはできません。一体何が起こるんだろう、何が始まるんだろうっていう時代への期待感は、若さとともに大きく膨らまずにはいられませんでした。 このときジュリーは吉岡さんから輸入盤仕入れてディスコに卸す仕事を始め、K観光グループチェーンを皮切りに新宿の大方のディスコと契約を結びました。 ジュリーは当時からメージャー目指して頑張ってましたね。 とにかく生活設計というか、生活観というか、委員長たち道楽者と違って随分と大人に見えました。(同い年だったんですけどね) レコード屋さんにも興味があったようでしたね。 委員長は、この人はレコード屋さんで身を立てるのかなぁ、なんて思ったくらいでした。 DJだ、ダンサーだ、SOULだFUNKYだ、花だ提灯だと戯言をコイる委員長たちと比べて、貯金だ、確定申告だ、と難しいことを良く知っている人だなあ、と思っていました。 DJもうまかったですね。当時からディスコというよりラジオDJっぽかったですね。 トークっつうかおしゃべりが非常にうまかった。 糸井五郎さんに相当心酔していたし。 白馬車に集まる連中のほとんどが、始発まで「おいちょかぶ」で興奮する中、ジュリーは黙々とDJの勉強してましたからね。ホント、偉いやっちゃ、みたいなね。 さて、そんな新しい時代の幕開けを期待していた委員長に、ついにヨーパンもどきの彼女ができたのです。 茶髪のアフロで長身の彼女はGETの元常連、V-oneに入社したばかりのツトム君やケン坊の知り合いということで、女友達と遊びに来たのでした。 新しい踊り「レゲエ」も知ってるし、フロアではやたら目立つ彼女でしたが、どう見ても不良まるだし、ヨーパンもどき、まず普通の人は手は出しませんね。 顔立ちは、そうねぇ、研ナオコ系みたいな感じかなぁ、黒人ぽかったよね。 ツトム君が冷やかし半分で委員長に言ってきました。 「あいつ、男探してるらしいぜ」 どういうつもりで委員長に言ったのかはわかりませんが、委員長がすぐに立候補したのは言うまでもありません。 ツトム君、驚いた表情で、「マジかよ」、委員長「マジですよ」、そうか、わかったってなことで、その場でお見合いです。 言葉はあまり交わしませんでしたが、“決まり”です。 まわりのやつらは皆、「へえ~」ってな感じでした。 確かに個性的な彼女でしたが、委員長の潜在意識の中に残っている、ビバヤングのリンダ嬢を髣髴とさせるフィーリングに重なったのです。 ドゥリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのジャケットに写っているアフロLADYに良く似ていましたね。(おかげでV-oneではちょっとHITしました) 恋に落ちた委員長、遂にSOUL SISTERをGETしてSOUL MAN“RONNY”の誕生です。 好きなことをしてメシを食う人生の始まりです。 SOUL SISTERの名前はDORI/ドーリー。 後で知ったことですが、 彼女は超ど近眼、 メガネはかけていませんでした。(^、^; お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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