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あしたばの「選択」 [全2217件]

聖書から人生を学ぼう?・ 

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『自分を不幸にしない13の習慣』1ケ月お試し







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 ♪♪
○ 今年もまた、どこでも恒例になっている「忘年会」が各地で行われていることでしょう。「この一年間の嫌なことを全部忘れてしまいましょう‥‥!!」ということなのでしょうか。お酒を浴びるように飲み、二次会、三次会もやるので巷は酔っ払いで溢れています。毎年、この時期になると年中行事のように普通に行われていますが、何かおかしいとは思われませんか?お酒を飲んで忘れなければならないほど、嫌なことばかりが多い一年だったのでしょうか。しかし、聖書は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と勧めており、年を忘れる「忘年会」ではなく、「神に感謝する」ことを教えているのです。神の恵みを一つ一つ感謝することは幸いなことであります。

預言者サムエルの指導の下において、敵であったペリシテ人に対するイスラエルの大勝利が記されているところであります。ここで、「エベン・エゼル」ということばに注目していただきたいのですが、”エベン”は「石」の意であり、”エゼル”は、「助ける」ことを意味しています。この時代、イスラエルの民は、神の臨在の象徴とも言える「契約の箱」を失って、20年の長い間敵の圧制に苦しめられ、敗北の生活を味わっていたのです。そのとき、民は心を一つにして、自分たちの罪を悔い改め、主を慕い求めて熱心に祈ったのであります。

 イスラエルの民の切なる飢え渇きと悔い改めによって、イスラエルに大勝利がもたらされました。そして、その勝利の記念として、「記念の石」を建て、そこを「エベン・エゼル」と名づけたのです。この勝利は、決定的な勝利であったのです。そして、この勝利は神の小羊をささげた後に来た勝利であります。これには、大きな霊的な意味があるように思われます。神の小羊、イエス・キリストの十字架の贖いこそ、私たちの人生を決定的な勝利へと導くものであります。そして、「ここまで、主が私たちを助けてくださった。」と言って、サムエルは神様にすべての栄光を帰したのであります。私たちも、そのように主に栄光を帰し、感謝できたら幸いであります。

 人生の節目節目で、神様に感謝をささげることの出来る人生は幸いではないでしょうか。私たちを感謝の生活に導くものは、イエス・キリストの十字架と復活以外に決してないと言っても過言ではありません。なぜなら、旧約聖書で何度も預言されてあるとおりに、主イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださり、しかも、三日目に復活されたからであります。今年も、もう間もなく年の瀬を迎えようとしています。いろいろなことがあった一年でした。しかし、この一年を振り返るときに、イエス・キリストを信じる者にとっては、すべてが感謝であると言い切ることができるのです。

 そして、間もなく新しい年を迎えようとしています。この世界は、グローバルな視点から見ると、地球環境の悪化と異常気象による災害の多発、不道徳の蔓延と犯罪の増加など、何もかもが悪い方向に加速して行っているように見えます。しかし、キリストを信じる者にとっては、常にどのようなことがあっても感謝と希望の心を持って生きることが出来るのです。実は、このエベン・エゼルはかつては敗北した場所なのであります。そして、その同じ場所で今度は大勝利を得たのです。罪を捨てて、真剣に神を求めるとき、敗北の場所が、永久の勝利の場所となるのです。罪のゆえに、かつては敗北を味わった場所であっても、キリストを信じる時に、その同じ場所が勝利の場所となるのであります。

 また、このように言った人もいます。「神様は、一人一人に365個の高価な贈り物を用意して、ちょうど種蒔きが種を蒔くように、毎日、天からその贈り物を撒き散らそうとしているようなものである。」と。毎日、十分な労苦がありますが、また、贈り物もあるのです。そして、その人に最も必要な贈り物を神様は毎日用意して天から与えてくださるのです。ある人には「慰め」。ある人には「力」。ある人には「健康」。また、ある人には「病気の中にあってもそれに耐える力」。ある人には「希望」。ある人には「赦し」。ある人には「励まし」などを与えてくださいます。

 明日に向かって進むことは、未知の世界の中へ導かれることでもあります。しかし、主が共におられることを覚えるなら平安があります。一歩一歩、信仰によって前進することです。神様は、私たちが一歩進むごとに道を開き、また、新たな道を示してくださるのです。旧約時代のあのアブラハムも、自分があのモリヤの山に来るまで、神が犠牲として備えられた雄羊を見ることはありませんでした(創世記22章)。神様は、必ず必要なときに必要なものを備え給う御方なのです。ですから、この一年を回顧して神に感謝をささげ、また来るべき新しい年のことも、一切主にゆだねて信仰によって歩むことが出来たら幸いであります。




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最終更新日時 2009/11/24 3:24:52 AM
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『自分を不幸にしない13の習慣』1ケ月お試し







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○私の個人的な願いは、一人でも多くの方々が万物を創造された真の神様のご存在をお知りになり、生ける神のみことばである聖書に触れ、人間本来のあるべき姿に立ち帰られることです。「聖書」は神の霊感によって記された間違いのない神の真理のことばです。聖書が勧めておりますように、ご自分の(神に対する)罪をお認めになられ、愛なる神が救い主としてお遣わしになられた御子イエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われて、永遠のいのちをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

今の世界は、まさにかつてのノアの洪水前夜の様相を呈しております。「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記6:11)と、創世記に記録されてあるように、今日も巷では不道徳と犯罪がはびこり、その悲劇的な惨状は目を覆うばかりで、家庭は崩壊し、社会は腐敗堕落し、日毎に悪が増大しつつあります。確かに、聖書が警告しているように神の裁きの日が迫っていることは確実であると思われます。しかし、聖書は、神が完全に正義の御方ですが、また同時に完全な愛のご性質をお持ちのお方であることを語っております。ですから、神の前に罪を犯して滅びに向かっている私たちのために、救いの道を備えてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架と復活による福音なのです。神は、あなたが救われるのを待ち望んでおられるのです。

みなさん。どうか、聖書に記されているこれらのみことばをご自分に当てはめて深くお考えになってください。これらは、みなさん一人一人の人生と無関係なことばではありません。天地万物をお造りになられた真の神様が、みなさんお一人お一人に、個人的に語っておられるみことばなのです。決して無視できない神のことばなのです。人生は70年か80年の短い地上の生涯だけで終わってしまうのではありません。肉体の死は、死後に永遠に続く世界の入り口に過ぎません。死後には永遠に続く二つの世界があることは、聖書が繰り返し語っている事実なのです。

死後には、もう二度と救われるチャンスはありません。ある意味においては、この地上の生涯は、死後の永遠の世界をどこで過ごすかを決定するために備えるため与えられている準備期間でもあるのです。永遠のいのちか、永遠の滅びか。永遠の天国か永遠の地獄(火の池)か。永遠の祝福か、永遠の苦しみか。それを決定するのはあなた自身の決断にかかっていると言っても過言ではありません。これは、非常に厳粛なことです。どうか、賢明な人生の選択をなさってください。これは、私の心からの偽らざる切実な願いなのです。

 


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最終更新日時 2009/11/23 5:29:58 AM
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2009/11/22

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○【3】親切なサマリヤ人。
 最後に、その見捨てられた男のところにさまりや人がやって来ました。この人は、家畜に乗って来たのですが、彼のうめき声を聞いた時、心から同情して、その傷ついた男の人の所へ駆け寄ったのです。このサマリヤ人は、その哀れな旅人の前に跪いて、じっとその傷口を見ました。そして、自分が持っていたぶどう酒で傷口を消毒し、オリーブ油を注いで包帯をし、自分が乗って来た家畜にその男を乗せて、わざわざ宿屋まで連れて行って、自分のお金を取り出して、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。」とまで言いました。彼は、持っているすべてを与えて、この見知らぬ旅人に対して自分の命の危険を冒してまで愛と親切の限りを尽くしました。”人生は出会いで決まる”ということばがありますが、この旅人がこのサマリヤ人に出会ったことは本当に幸いなことでした。

 そして、この「親切なサマリヤ人」の姿こそ、実はイエス・キリストご自身の姿なのです。サマリヤ人がこの傷ついた旅人の所に来てくださったように、イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、大変な犠牲を払って天から来てくださったのです。そして、その33年間のご生涯の最期に十字架の血潮というぶどう酒で私たちの罪の傷口を洗い、聖霊の油をもって私たちの罪の傷を覆ってくださった御方なのです。イエス・キリストは、私たちを責めることもなく、ただ黙って十字架でご自分の血潮を流して、私たちの罪を赦し、「アガペーの愛」によって包帯をしてくださったのです。このサマリヤ人の自分を忘れ、自分の危険を顧みることもしない打算のない愛はキリストの純粋な愛を示しています。

 このサマリヤ人が、そのお金も労力も、物も時間もすべてを犠牲にして旅人を助けたように、キリストは私たち全人類のために十字架で、ご自分の命までも犠牲になさったのです。傷の手当てをし、介抱する姿 ----- ここに、キリストの無限の愛と優しさと思いやりとが余すところなく、表されています。”包帯を巻いてあげられなければ、他人の傷口に触れてはならない。”とのことばを読んだことがあります。私は、他人の傷口に触れてかえって、結果的にその傷口を広げてしまうことのある愚かな人間です。しかし、イエス・キリストの愛は違います。イエス・キリストは、十字架の血潮に染まった愛の包帯で私たちの傷口を覆ってくださるのです。

 この例え話の中でイエス様はわざとユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人の混血の民)を登場させました。このような敵対関係は、その当時、」もう400年以上も続いていたのです。そして、その憎しみの関係は、イエス様の時代にもまだ続いていたのです。ですから、このサマリヤ人がユダヤ人にした親切は信じられない出来事であったのです。このサマリヤ人は傷つき倒れているユダヤ人にユダヤ人を見て、「かわいそうに思い」ました。この「かわいそうに」ということばは、同情を表わすギリシャ語の中でも、一番強い表現で、”内臓が揺り動かされる”というような深い同情を意味することばなのです。そして、彼はその愛を実際の行動にによって表わしたのです。ただ、彼は外国人を愛したのではなく、400年に亙る憎しみの歴史を越えて、敵に対して真の隣人となったのです。

 私たち人類もまた、神に対して長い間敵対していた者たちであります。しかし、イエス・キリストは、そのすべてを乗り越えて、無条件で私たちを一方的に愛してくださいました。これは、まさに「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)です。この親切なサマリヤ人の姿の中にキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」のすべてが表わされています。十字架はそのクライマックスです。私たちは、あの強盗のように人を傷つけたことはないでしょうか(言葉でも、精神的にも)。私たちは被害者意識を強く持ちやすいのですが、自分が加害者になっていることを忘れやすい者です。また、祭司やレビ人のように助けを必要としている人の側を故意に通り過ぎたことはないでしょうか。私たちは、自分が傷つき倒れているみじめな罪人であることを素直に認めているでしょうか。

 私たちは、主から遠く離れ過ぎていて、助けを求めることができない時、あのサマリヤ人のようにイエス様の方から近づいてくださるのです。心のうめき声を聞いてくださるのです。イエス・キリストがあなたを助けるために、天から下って来られました。私たちの声にならないようなかすかな呻き声をも聞いて、同情して近づいてくださるのです。どうか、キリストが差し出しておられる愛の御手を拒まないで下さい。そして、キリストは例え話の最後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。キリストを信じて救われた人は、今度はほんとうに隣人を愛する力が与えられるのです。真の愛は「私の隣人とは誰か。」と問わしめるような冷たいものではありません。



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最終更新日時 2009/11/22 5:59:40 AM
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2009/11/21

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 ♪♪
○続き
(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。
(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。
(3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。
 
【1】強盗に襲われた旅人。
 一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。

 そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。

 そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。

 あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。

【2】祭司とレビ人。
 この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。

 これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。
 
 ”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。続く 



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最終更新日時 2009/11/21 6:00:35 AM
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2009/11/20

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○ある方が、世界の人類に関して、一つの統計結果を書いています。どのくらい正確な統計であるのかは、はっきり分かりませんが、大変興味深いもので次のような内容です。

 もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を「100人の村」に縮小するとどうなるでしょう。その村には、57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。52人が女性で、48人が男性です。70人が有色人種で、30人が白人、6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍、80人は標準以下の居住環境に住み、70人は文字が読めません。50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあります。1人(たった1人!)は大学の教育を受け、そしてたった1人(たった一人!)だけがコンピューターを所有しています。

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、今までと少し別な視点から世の中を見ることができるのではないでしょうか。私たちは、ものごとを見る時、どうしても、自分とその周囲の僅かな狭い視野からものごとを判断し、結論を出しやすいのですが、視点を変えてグローバルな視野でこの世界を見るなら、また、自分自身が置かれている状況を客観的に見ることが出来るように思われます。そして、同時に、この世界は何と不平等な世界だろうかと疑問を持ってしまうことも事実です。
  
世界中には、戦いの危険にさらされ、家族が引き裂かれ、投獄される孤独や苦悩、あるいはその日に食べる一切れのパン、スプーン一杯のスープもない飢餓に苦しみ、拷問や死の恐怖を感じながら生きている人々が数多くいることも事実なのです。また、独裁者が人民を抑圧し、自分の意見を一言も言えない言論の自由のない国に住んでいる人もいます。もし、あなたが冷蔵庫にいくらかの食料があり、着る服があり、頭の上に雨露をしのぐ屋根があり、寝る場所があるのなら、あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれているのです。

もし銀行に預金があり、財布にお金があるならあなたは、この世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人なのです。もし、あなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことであるわけです。また、日本人は文字が読めることを当然のように考えていますが、本や新聞などの文字を読める人は、世界中で、たった30%しかいないのです。私たち日本人はその点では大変恵まれています。もちろん、この日本でも、住む家のないホームレスの方もおられます。また、今、この瞬間にも、都会のどこかで、一人暮らしの老人が孤独死しているという現実があるかもしれません。この世界には、まだ知られていない多くの不安と恐怖に満ちた悲惨な現実があることをもまた事実なのです。

あなたは、この世界は何と矛盾に満ちており、何と不平等な世界だろうかと疑問を持たれるに違いありません。しかし、それでも聖書の神様は、依然として「愛の神」であるのです。神様は、あなたが、現在、どのような状況や環境にあろうとも、神様に愛されているということは事実なのです。人生が、もし地上の生涯だけで終わるのであれば、この世界は確かに不平等であると考えざるを得ないと思います。しかし、聖書によれば、肉体的な死は、死後の世界の入り口であり、永遠の始まりに過ぎません。そして、死後には天国と地獄は確かに存在します。神様は、私たちをかけがえのない一人一人として個人的に愛しておられ、そのために全人類の救い主としてご自身の御子を遣わされました。


 イエス・キリストを心から信じる者に、天国に入ることの出来る「永遠のいのち」の救いが与えられることにおいては、何の差別も不平等もないのです。これは、神様の恵み以外の何ものでもありません。

イエス様が語られたこの例え話は、多くの教訓を私たちに教えていますが、特にこの話に登場する三種類の人たちを通して、それぞれ私たちに大切なことを語っていますので、私たちの人生について考えてみましょう
(続き)


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最終更新日時 2009/11/20 5:31:05 AM
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2009/11/19

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○新約聖書の中で、イエス様が語られたとても有名なたとえ話があります。それは、「放蕩息子」の例え話と言われていますが、次のような話です。私はこのたとえ話を何百回も読みましたが、何度読んでも、飽きることがない感動的な話です。


  このたとえ話は、一般的に「放蕩息子のたとえ話」と言われていますが、実は、イエス様はこのたとえ話によって「神の愛」がいかに絶大であるかを語りたかったのです。「神の愛を示すたとえ話」と言った方が正確かもしれません。このたとえ話の中で、ふたりの息子の父親は「まことの神様」を示しています。また、父親から財産の分け前をもらって、家を出た放蕩息子(弟)は、神から離れて罪の中に生活している私たち人間の姿を表しています。(実は、このたとえ話には、このあとに続きが書かれていて、兄息子は父親の家にいて生活していましたが、自分を正しい者と思っていたパリサイ人を示しており、同様に罪人であったのです。)

 この弟息子は、父親の家で幸福に暮らしていたのに、親から自由になりたいと思って、勝手に家を飛び出して遠い国に行って、財産を浪費し、毎日遊び暮らして放蕩三昧な罪深い生活をしていました。これは、まことの神様の愛から離れて、神に背を向けて自分勝手に生活している人間の不幸で危険な姿を示しています。

 しかし、父親からもらった大切な財産をすべて使い果たし、飢えと孤独を経験し、惨めな人生のどん底まで落ちて、やっと彼は自分の犯した罪と間違いに目覚め、本心に立ち返って、豚小屋の中で、悔い改めて家に帰る決心をするのです。私たちも、神様の前に自分が今置かれている神を無視した生活がどんなに危険なものであるかを悟って、悔い改めることを神は待っておられるのです。この弟息子は、父の家から離れたために多くのものを失いました。お金、健康、暖かい家庭、健康、友人、信用など‥‥です。しかし、たった一つの失われなかったものがあるのです。それは、「父親の愛」です。あなたも、多くのものを失ったかもしれません。しかし、「神の愛」だけは失っていないことを、どうか覚えてください。

 毎日毎日、断腸の思いで息子の帰りを待っていた父親は、ある日の夕暮れ時、トボトボと重い足取りで帰って来た息子を遠くから見つけ、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけして迎えました。そして、この父親は、こんな放蕩息子のために、彼に着せるための「一番良い着物」を用意し、美味しいご馳走を作って家中で、息子の帰宅を喜びました。父親の喜ぶ姿が目に見えるようですね。神の愛もそれと同様なのです。

 あなたも、今、愛の神様から離れて、人生の悲哀と孤独と空しさを経験していませんか?でも、祝福と平安に満ちた父の家(神様のところ)に帰る勇気を持ってください。父の家にはパンがあり余っていたように、神様のところには、霊的な祝福が豊かに満ちているのです。あなたがご自分の罪を悔い改めるなら、神のひとり子イエス・キリストの十字架のみわざの故に、あなたのすべての罪を赦して、受け入れてくださるのです。





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最終更新日時 2009/11/19 5:40:29 AM
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2009/11/18

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○この話は、もう何十年も前に、スコットランドで実際に起こった出来事です。その古風な高地にある村は、木の生えない切り立ったスコットランドの山と山の間にありました。そして村の人たちは山間(やまあい)の畑で作物を作って生活していました。仕事の間、幼い子供たちはそばで遊び、赤ん坊はバスケットの中で眠っていました。

 ある朝、ものすごく大きな鷲が大空を舞っていましたが、すごい早さで急下降し、畑の方に飛んで来たかと思うと、バスケットの中で眠っていた赤ん坊を素早くわし掴みにして、空中高く舞い上がりました。村人たちは、すぐ追いかけましたが、鷲は高く舞い上がり、高い山の上の岩の上に、その赤ん坊を置いて飛んで行ってしまったのです。そして、もうその赤ん坊は助からないとだれもが考えました。 

 その時、勇敢な船乗りが、この急な山の斜面を登ろうとしましたが、あまりにも急で危険なため、諦めざるを得ませんでした。さらに、いかにも体のがっちりしたベテランの山男がこの急斜面に挑みましたが、やはり、途中で諦めて山を下る以外になかったのです。
ところが、なんと、更に、一人の貧相な農民の女の人がこの危険な斜面に挑んだのです。屈強な体格のいい男が無理だったのだから、これはあまりにも無謀な話です。

 ところが、彼女は意を決したように、命を賭けて溶岩をよじ登り始め、一歩一歩、上へ上へと登って行きました。そして、なんと、彼女はついにあの絶壁の頂上へと達したのであります。下の方では、村人たちが緊張して息を殺すようにして、張り詰めた雰囲気の中で、ハラハラしながら彼女を見ていました。彼女は、今度は一歩一歩、赤ん坊を背負ったまま、下り始めたのです。そして、村人たちの喜びと驚嘆の叫び声の中で、山のふもとに辿りついたのです。これは、なんと驚くべき光景でしょうか。

 一体、がっしりとした体格の良い船乗りや山男に出来なかったことが、どうして、この婦人にできたのでしょうか。これは、本当に不思議なことです。その答えは、ただ一つです!。その農夫の婦人は、その赤ん坊の「母親」であったのです。当然、その母親はわが子を強く愛していました。「愛は不可能を可能にならしめる不思議な力を持っている」のであります。「愛」はみなすばらしいものですが、とりわけ母親の愛は崇高なものではないでしょうか。母親の美しい愛は、たとえ全世界を敵(相手)に回しても、自分がお腹を痛めて産んだわが子を愛するものです。

 しかし、母親の愛よりも、何百倍(いや、幾万倍)も崇高な愛があります。それは、ご自身のひとり子イエス・キリストを賜ったほどの「神の愛」です。

 この世で最も美しく、崇高であるはずの「母親の愛」も、最近は、どうも怪しくなって来ました。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、泣き止まないからとか、言うことを聞かないからとか、そんな簡単な理由で、虐待して殴り殺したり、食べ物も与えずに放置して死なせたり、昔は考えられないような目に余る悲しいできごとが多くなって来ました。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2,700年も前に予知していたかのようなみことばにも思われます。母親があなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはないのです。





 ・・・・・hope to see you again・・・・・

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最終更新日時 2009/11/18 5:19:06 AM
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