▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼
(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓)




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○続き
(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。
(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。
(3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。
【1】強盗に襲われた旅人。
一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。
そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。
そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。
あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。
【2】祭司とレビ人。
この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。
これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。
”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。続く
・・・・・hope to see you again・・・・・
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