テーマ:言葉と物(6)
カテゴリ:言葉と物
「ヴェーバーに接する人々は一様に、彼の掲示する問題の深刻さに脅かされ、不安にとりつかれます。人々は、この怪物を自身の姿に引き寄せて解釈し、それによって不安を打ち消そうと試みました。(中略) 人々は、ヴェーバーという巨像を借用し、この巨像の模写を造型する作業を通して自らが抱いている時代への思い入れを語ったのでした。したがって、周囲の人々が彫りあげたヴェーバーの彫像は、多くの場合、実は、その評価者自身の似姿なのです。」
「一般に社会科学にかかわる者は、自分の知が何らかの偏見にもとづいているとは考えないのですが、ひとたびヴェーバーにつきあうや否や、客観的で公平だと考えていた自分の知が、実は特定の歴史的価値判断によって支えられているということ、あるいは無限に複雑な関係の上に成り立っている事態の一面的な単純化に他ならないこと、その意味であえて言えば、偏見によって根拠づけられているという事実を、否応なしに認めさせられることになります。」 山之内靖著 「マックス・ヴェーバー入門」 より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
認めることが、まず大切なのだと思います。
己の思想たるものが何ものなのか、そして何なのかということを知る片鱗(てがかり)と、はじめて相対(あいたい)する素晴らしい瞬間です。 (Aug 27, 2005 01:21:17 AM)
slowlysheepさん、こんにちは。
「その評価者自身の似姿」であることを認めるのが大切という意味でしょうか? あるいは「己の思想たるものが何ものなのかを認めることが大切」という意味でしょうか? いずれの見方にも私は心から同意しますが。 そして自分が無意識に抱いている思想を理解し相対化することによってはじめて、己の思想を深めることも、あるいは異なる思想を選ぶことも可能になるのだと思います。 (Aug 27, 2005 01:20:04 PM) |
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