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June 28, 2007
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テーマ:Jazz(1967)
カテゴリ:Songwriter
【ジャズ・スタンダード・ナンバーの作曲家】

今日は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の作曲者として有名な、
アメリカの作曲家、リチャード・ロジャーズ生誕105周年です。

リチャード・ロジャーズ(ロジャース)(Richard Rodgers)は、
1919年、17歳のときに作曲した曲がミュージカルに使われてから、
死の直前の1979年、77歳での作品『ママの思い出』までの、
約60年間という長期にわたって作曲活動を行いました。

1920年代から作詞家ロレンツ・ハート(Lorenz Hart)と組み「マンハッタン」のヒットで有名になり、
次々と大ヒット・ミュージカル作品を世に送り出しました。

中でも、1959年に作詞家オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein2)とのコンビによる
ミュージカル作品『サウンド・オブ・ミュージック』は、1965年に映画化され
ミュージカル映画最大のヒットを記録しました。
ジュリー・アンドリュースと子供たちが歌う「ド・レ・ミの歌」は、
日本でも子供たちが最初に歌う歌のひとつとしておなじみですし、
「マイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)」は、
ジョン・コルトレーンの演奏で、ジャズ・スタンダード・ナンバーとしてもあまりにも有名です。

そのほかにも、ロレンツ・ハートとのコンビのものでは、
「ブルー・ムーン」、「マイ・ロマンス」、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、
「スプリング・イズ・ヒア」、「恋に恋して(Falling In Love With Love)」、「魅惑されて(Bewitched)」、
1943年のハートの死後は、オスカー・ハマースタイン2世と組んで
「マイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)」、「春の如(ごと)く(It Might As Well Be Spring)」など、
リチャード・ロジャーズの作品は、
たいへん多くのものがジャズ・スタンダード・ナンバーとして演奏され続けています。

Richard Rodgers

●リチャード・ロジャーズ(ロジャース)(Richard Rodgers)

1902年6月28日、アメリカ、ニューヨーク州ロング・アイランド生まれ。
1979年12月30日、ニューヨークで死去。
77歳。

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リチャード・ロジャーズは、1902年6月28日、ニューヨーク州ロング・アイランドで、
医者の息子として生まれました。

彼の両親、ロジャーズ夫妻は音楽好きで、よく最新のブロードウェイのショーの楽譜を買ってきては、
ホームコンサートを開いていました。
ドクターがバリトンで歌い、妻がピアノを弾きました。
そんな環境の中で、リチャードは6歳のころから、母親にピアノを習い、
14歳の時に見た、ブロードウェイ・ミュージカルの虜(とりこ)になります。
この夫妻は、他の親と違って、将来ミュージカルの作曲家になりたいという息子を、
全面的にバックアップするのでした。

コロンビア大学に進んだリチャードは、大学のショーのための作曲を数多く手掛けているうちに、
1919年17歳の時、同じコロンビア大学の卒業生でもあるロレンツ・ハートと運命的な出会いをします。
ロジャーズが作曲をし、ハートが作詞をするということで、早くもこの年には2人の曲が出版されました。
その後もこのコンビは作品を書き続けるのですが、これといった反響もないまま時は過ぎて行き、
ロジャーズは、サラリーマンになることを真剣に考え始めるのでした。

そんな1925年に、
『ザ・ギャーリック・ゲイティーズ』というショーのために書いた「マンハッタン」という曲が大ヒットしました。
これによって、このコンビはガーシュウィンなどがいたハームス・ミュージックと契約し、
次々とミュージカル作品を、ブロードウェイやロンドンに送り出すのでした。

このコンビは1942年まで続きますが、そのうち、ハートのアルコール依存症がひどくなり、
体調不良や失踪(しっそう)など、問題が多くなり、新しい作品が書けない状態になってしまいました。
そして、ロレンツ・ハートは肺炎を患ったのが原因で、1943年に48歳という若さでこの世を去ります。

ロジャーズは1943年、ハートと同じコロンビア大学の先輩でハートと同じ1895年生まれの、
オスカー・ハマースタイン2世とコンビを組んで、ミュージカル作品の『オクラホマ』を作ります。
ロジャーズとハマースタインは、少年時代に同じ地区に住んでいて顔見知りであり、
アマチュア時代にはいっしょに曲を作ったこともあった仲でした。
ハマースタインは、1920年代の始めからジェローム・カーンなどと組んで、
すでにブロードウェイの中心的な台本作者、作詞家として有名でしたが、
30年代に入ると失敗が続き、40年代になると誰もが彼の時代は終わったものと考えていました。
『オクラホマ』はハマースタインもミュージカル化を考えていたもので、
ジェローム・カーンのところに話しを持っていくと、
カウボーイが出てくるような古めかしい題材では当たらないと言って断られたそうです。
しかし、この『オクラホマ』は2212回という、それまでの記録を塗り替える最大のヒット作となったのです。
これ以降、このコンビは次々と大ヒットミュージカルを世に送り出しました。

1959年のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』はそのコンビの最後の作品となりました。
この作品の完成間近のころ、2人ともガンに侵されていて、
ロジャーズは病院と舞台を往復しながら、ハマースタインは余命宣告を受けながら、
最後の「エーデルワイス」を書き下ろしたと言います。

『サウンド・オブ・ミュージック』が上演された翌年の1960年に、
オスカー・ハマースタイン2世はこの世を去りました。

リチャード・ロジャーズはハマースタインの死後も作品を書き続け、
晩年は卒中と心臓発作とガンとに苦しめられながらも、
最後の力を振り絞って『ママの思い出』を完成させ、その作品が閉幕した3カ月後の、
1979年12月30日、ニューヨークの自宅で77年の生涯を終えたのです。

ウイットに富みシャレたハーツの詞と、どっしりとした演劇的なハマースタインの詞という、
異なったパートナーにより、ロジャーズは2つのスタイルを持てたと言えるかもしれません。
また、ロジャーズの作曲技法は、コール・ポーターやジョージ・ガーシュウィンに比べると、
アメリカ的であるジャズ的サウンドの要素が薄いと言われますが、
彼の多くの曲が、ジャズ・ミュージシャンにより演奏され続けていることを見ると、
彼の曲が、いかにジャズの素材としても素晴らしいものかということがわかると思います。

●ブロードウェイ・ミュージカル

19世紀半ばヨーロッパで盛行したオペレッタなどを源流としながら、
20世紀初頭に、アメリカで独自の発達を遂げたブロードウェイ・ミュージカルは、
アメリカを代表する文化的所産の一つである。

ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーター、
そして、リチャード・ロジャーズはミュージカル5大作曲家(Mighty Five)と呼ばれています。

*****

●代表作

【ロジャーズ&ハーツ】

Manhattan(1925)

Blue Moon(1935)

My Romance(1935)

My Funny Valentine(1937)

Spring Is Here(1938)

Falling In Love With Love【恋に恋して】(1938)

This Can’t Be Love(1938)

Bewitched【魅惑されて】(1941)

【ロジャーズ&ハマースタイン】

Oklahoma(1943)

It Might As Well Be Spring【春の如く】(1945)

Sound Of Music(1959)

My Favorite Things【私のお気に入り】(1959)

DO-RE-MI【ド・レ・ミの歌】(1959)

Edelweiss(1959)

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Last updated  June 28, 2007 06:51:26 PM
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