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2006.11.24
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カテゴリ:世界史
次の文章A, Bは,1659年から1668年まで10年近くを医官,哲学者としてムガル帝国に仕えたフランス人ペルニアの著書『ムガル帝国誌』(1670年)から抜粋したものである.
A. 「シャー・ジャハーンの息子4人のうち,長男はダーラー,三男はアウラングゼーブである.ダーラーは,マホメット教徒であるが,ヒンドゥー教徒に向かえばヒンズー教徒になり,キリスト教徒に向かえばキリスト教徒になる.ヒンズー教徒の学僧を何人か,いつも側近に侍らせている.アウラングゼーブがダーラーの首を切らせるのに使った口実は,彼が背教者,偶像崇拝者になってしまった,というものである.」
B.「この国土の上には,大ムガルの支配力が十分に及ばない民族が少なからず居て,大抵は今でも独自の首長,君主を戴いており,この君主たちは,強制されてしぶしぶ大ムガルに従い,貢物を納めているのです.王国全土に有力なラージャつまりヒンドゥーの君主があり,もしも力を合わせれば,大ムガルにとってひどく厄介な問題になるでしょう.大ムガルは敵国の真っただ中に居るようなもので,常に大軍を維持していなければなりません.軍隊を構成するのは,一部はラージャやパタン人ですが,主として王と同じムガル人か,少なくともそう見なされている人間です.大ムガルはラージャたちにたいそう多額の俸禄を当てがい,外国人でマホメット教徒である他の貴族と同等に見なし,いつも身辺においている軍勢の中に入れたり,野戦場にいる軍隊に加えたりしています.貴族は,低い官職から高い者へと進んでいくのが,ほぼ一般的な慣習です.彼等の俸禄は馬の数で決まります,土地の割り当てを受けます.」
(ペルニエ著,関美奈子,倉田信子共訳,『ムガル帝国誌』,岩波書店,に基づく.)
問1.引用文Aのダーラーとアウラングゼーブは,宗教・異教徒(特に,ヒンドゥー教徒)に対して,対照的な態度を示している.この事を念頭において,ムガル帝国の宗教政策とその変化を説明しなさい.(60字以内).
問2.引用文Bを読み,ムガル帝国の統治・行政・財政機構の特徴を説明しなさい.(140字以内).

一橋大学の入試問題からの抜粋である.大学教養課程のレポート課題になりそうな良問である.限られた時間内に解答するにはもったいない内容である.真正面から解答するにはかなりの教養が必要である.Wikipediaの記述からの引用でムガール帝国の宗教観の変遷を追ってみた.
 ムガール帝国は1526-1858年までインド北部を支配したイスラム王朝である.テュルク系遊牧貴族バーブルが,現在のアフガニスタンからインドに移住して建国した.ペルシア語のムガールは,モンゴル人を意味し「モンゴル人の帝国」の意がある.ムガル朝の中興の祖は第2代フマユーンが不慮の死を遂げた後を継いだアクバルである.彼は遠征により,東はベンガル,南はデカン高原まで平定し,北インド全域を領土に治めた.アクバルからアウラングゼーブに至る17世紀末までが最盛期であった.インド=イスラム文化の繁栄もこの時期である.
 バーブルの母の系図にはチンギス・ハーンの次男チャガタイの血が受け継がれている.ムガール朝の支配者には,潜在的に父祖の地である中央アジアへの回帰の願望があったはずである.
 
 ムガル朝の支配階級はイスラーム教であったが,帝国の被支配階級のほとんどはヒンンドゥー教に帰依していた.バーブルが帝国を成立させた後も,王朝は不安定で一時は滅亡しかけたこともある.アクバル王の治世となり,彼自身の自由主義的性格により,生来のインドの習俗と伝統への理解が深まった.アクバル時代に非イスラーム教徒に対する人頭税(jizya)が廃止された.また,イスラーム世界の伝統である太陰暦を廃止し,農業政策に便利な太陽暦を採用した.アクバルの最も顕著な宗教観はDin-i-Ilahi (faith-of-God)という思想である.この思想は宗教の折衷主義であり,ヒンンドゥー教とスーフィーイスラーム教,ゾロアスター教,キリスト教の教義を混合させた宗教観である.アクバルの死まで,この宗教観が国家の宗教として採用された.しかし,これらの宗教行動は,頑迷なイスラーム聖職者からの反対にあった.アクバルが示した他の宗教の受容,他の宗教への興味,大衆の信仰への寛容,非イスラーム住民の人頭税廃止は,一方でイスラーム正統主義を唱える人からは背教者に等しく映った.その反動がアウラングゼーブのイスラーム回帰に如実に現れている.彼は信心深いイスラーム教徒であり,ムガル史上最も強力な軍事指導者であった.帝国の末期を象徴するアウラングゼーブ朝は,それまでの自由主義的政策を撤退させた.この頑なさが滅亡と混沌への序章となったことは確かなようである.





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Last updated  2006.11.24 21:36:49



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