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天の王朝

天の王朝

カストロが愛した女スパイ1

マリタ・ロレンツとフィデル・カストロ
2005-07-24 23:46:25

▼はじめに
 マタ・ハリとはマレー語で太陽という意味だ。太陽の光で敵の目を欺くという意味もあるのだろうか、第一次世界大戦前夜、パリのムーランルージュで人気を博したオランダのダンサー、マタ・ハリが実はドイツのスパイだったことから以後、女性スパイの代名詞となった。

 事件の陰に女あり。一九六三年十一月二十二日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の背後にも“マタ・ハリ”がいたのをご存じだろうか。CIAが未だかって公式に認めようとしない、CIAのために働いた、ドイツ生まれの女スパイ、マリタ・ロレンツだ。

 キューバ首相、フィデル・カストロの愛人だったロレンツは、ひょんなことからCIAによりスパイとしてスカウトされ、アメリカ合衆国のためにカストロの部屋から手紙を盗み出す仕事を手伝った。その後ある事件に巻き込まれ、キューバを一時脱出。CIAに洗脳されつつ、CIA傘下の殺し屋集団で各種殺しのテクニックを学び、今度はカストロ暗殺の刺客となった。

 しかし、暗殺計画は失敗、米国に戻ると、六一年のピッグズ湾事件で知られるキューバ侵攻計画に加わり、訓練を受けた。訓練で非情なまでに優秀な成績を残したロレンツは「冷たいドイツ人」と呼ばれるようになった。ロレンツにとって幸いだったのは、この訓練中に怪我を負い、キューバ上陸作戦に参加せずにすんだことだ。参加していたら、おそらくピッグズ湾事件で生き残ることは難しかっただろう。作戦は多くの犠牲者を出し大失敗に終わったのだから。

 カストロ暗殺計画など反カストロ工作にかかわったことさえ、ロレンツの波乱の人生にとって序の口にすぎなかった。ベネズエラ元大統領、マルコス・ペレス・ヒメネス将軍に近づき、CIAや反カストロ分子のための情報収集を命じられたのだ。ロレンツは間もなく将軍の愛人となり、しかも将軍との間に女の子をもうけた。やがて、将軍が本国送還となり、子供のための基金も悪徳弁護士により取り上げられると、途方にくれ、再びCIA傘下の殺し屋集団に助けを求めた。

 ロレンツはそこで、ケネディ暗殺直前、リー・ハーヴィー・オズワルドを含む暗殺集団がダラスに暗殺用の武器を運搬するのに立ち会った。ダラスではオズワルドを殺したジャック・ルビーやウォーターゲート事件で国中に悪名を馳せたCIA情報部員、ハワード・ハントがその暗殺集団と接触するのも目撃した。

 ケネディ暗殺事件後、あまりに真相に近付いたロレンツに危険が迫った。その危険から逃げるようにロレンツは赤ん坊を連れてベネズエラに将軍の後を追った。ベネズエラ政府当局に捕まった挙げ句、ヤノマノ族が住むジャングルの奥深くに、赤ん坊と二人きりで取り残されたロレンツは、そこで死にそうになりながらも驚異的な生命力で生き残り、一年後に母親が依頼した捜索隊により救出された。

 その後も何度か危機を脱出したロレンツは一九七八年五月、ようやく重い口を開き、ケネディ暗殺の真相を下院の特別委員会で語ったのだ。

 ロレンツの波乱万丈の人生は、冒険とロマンスとドラマに満ちている。ロレンツは何度も危険をかいくぐり、幾度も修羅場を経験、そのたびに強烈な個性と前向きさで、幾多の障害を乗り越えてきた歴戦の女戦士だ。そしてもし、彼女の衝撃的な証言内容が本当なら、ケネディ暗殺にはCIAが絡んでいたことになるのだ。

 刺客だと知りながらもカストロが愛したというCIAの元女スパイ、マリタ・ロレンツの証言から、謎と神話に満ちたケネディ暗殺事件や、スパイが暗躍した1960年代の世界情勢の真相がみえてくる。

▼証言の朝
 一九七八年五月三十一日水曜日の早朝、米国の首都ワシントンDCで目を覚ましたロレンツは少し憂鬱だった。この日、ジョン・F・ケネディ暗殺事件を調査している下院暗殺調査特別委員会に呼ばれ、証言することになっていたからだ。委員会のメンバーはどのような人物なのか。彼らはロレンツの証言をどう受け止めてくれるのか。ケネディ暗殺の真相究明がこれで進むのか、あるいは止まってしまうのか。いろいろな不安や思いがロレンツの頭の中を駆け巡っていた。

 ロレンツは別に証言したいとは思わなかったのだ。実際、子供たちを無事に育て上げ、自分自身と家族が一日一日生きていくのにやっとだった。証言をすることで世間の注目を浴び、マスコミの餌食となって、それに対応していく余裕などない。それでも一度証言すると決めたのだからもう後には引けなかった。何もかも話して自由になりたいという気持ちもあった。証言さえしてしまえば、あの煩わしいマスコミの群からも解放されるかもしれない。いや、証言した結果、もっとマスコミに追われることになるのか。ロレンツに再び不安がよぎった。

 証言の行われるアメリカ合衆国議事堂のあるキャピタル・ヒルの周辺は青々した芝生の臭いが立ちこめていた。丘の上にそびえるドーム型の議事堂が、手前にある池にくっきりと映し出され、時折風で波紋が立つ以外は美しい絵のように静止していた。

 このキャピタル・ヒルこそが、歴代合衆国大統領が就任演説をした場所でもある。ケネディ大統領が「アメリカ人のみなさん。国があなたに何をしてくれるかを問うてはいけない。あなたがあなた方の国に何ができるかを問いなさい」と国民に呼び掛けたあの有名な大統領就任演説もこの場所だったのだ。そのケネディは若くして暗殺者の凶弾に倒れた。凶弾を発したのは、ウォーレン委員会が結論づけたように、リー・ハーヴィー・オズワルドという精神を病んだ男の単独犯行だったのか。それとも背後に巨大な陰謀が存在したのか。それを見極めようとする世論が七〇年代後半になってようやく高まってきていた。そのため、一九七六年に下院に暗殺調査特別委員会が設置された。ロレンツはケネディ暗の背後にひそむ巨大な闇を知る数少ない生き残りの一人であったのだ。

▼美貌と罠
 ロレンツは目がパッチリと大きく、目鼻立ちのくっきりとした美しい女性である。いつも快活で、笑顔もチャーミングだ。半面、妖艶な美しさもそなえている。カストロがすぐに恋に落ちたというのもうなずける。ただこの美貌ゆえに、ロレンツは波乱の人生を送ることになった。

 ロレンツがケネディ暗殺事件解明の重要証人として注目されるようになったのは、七七年九月二十日。ニューヨーク・デイリー・ニューズがケネディ暗殺事件にかかわったとするロレンツの話を載せたためだ。ロレンツはその中で、ケネディ暗殺の直前、リー・ハーヴィー・オズワルドや後にウォーターゲート事件で逮捕されたCIA工作員、フランク・スタージスら暗殺集団とともに車でダラスに行ったと語った。この記事がきっかけとなって、ロレンツは米下院の暗殺調査特別委員会に召喚され、この日を迎えた。

 しかし、その証人として召喚されるきっかけとなった記事は、ロレンツの望んだものではなかった。「フランクがあんなことを言わなければ・・・」ー。ロレンツはこんなにも騒がれたことに関して、フランク・スタージスことフランク・フィオリーニを恨んでいた。

 ロレンツは、あの忌々しいスタージスとの最初の出会いを思い出していた。それは1959年の革命直後のキューバ。ロレンツはまだ20歳になったばかりのころだった。

▼闇の世界
 フランク・スタージスは、後にCIA工作員となった闇の世界の住人だ。アメリカで教育を受けたのか、完璧なアメリカなまりの英語を話した。キューバ革命当時、カストロに武器を調達した功績でカストロ革命政権では事実上の“賭博相”をしていたが、カストロが米国マフィアや賭博を取り締まり始めると、一転、反旗を翻しCIAの工作員として反カストロ工作に携わるようになった。ロレンツに近づいたのも、それが理由だった。

 当時ロレンツは、カストロの子を身ごもっていた。だが、カストロになかなか会えず、いらいらする毎日を送っていた。そういう事情を知っていたスタージスは、ハバナのヒルトンホテルに滞在していたロレンツに近づいた。ロレンツがコーヒー・ショップのロビーにいるとき、スタージスはメッセージを書いたテーブル用の紙マットをこっそりと渡した。そこには「おれはあんたを助けることができるよ、マリタ」と書かれていた。このときは、ロレンツの護衛が間に入り込み、スタージスはすぐに退散した。

 二度目は、1959年八月下旬、ハバナの高級ホテル「リヴィエラ」のロビーだった。カストロ政権が豪華ホテル群のギャンブル経営を査察しているときだ。査察といっても、目的は最初から決まっていた。アメリカのマフィア絡みのギャンブル利権を一掃することだった。カストロの弟のラウルは部下に命じて、スロットマシーンを接収させたり、カードテーブルやルーレットのテーブルを使えないように横倒しにさせたりした。

そのときだ。「キューバの軍服を着た、角張った顔の男」、すなわちスタージスがロレンツに近づいてきて、こうささやいた。
「やつ(カストロ)はとんでもない間違いを犯している」

▼スカウト
 困惑しているロレンツに向かって、スタージスは更に続けた。
「わかっているのか?」

 ロレンツはますます、困惑した。このキューバの軍服を着た男は、明らかにカストロのことを嫌っていた。キューバ軍服を着ているのに、カストロの部下ではないのか。この胡散臭い男は誰なのか。敵か、それとも味方か?

 ロレンツにはそのとき、この男が敵に思えた。「ねえ」とロレンツは言い返した。「誰だか知りませんが、余計なお世話だわ」

 その男はそれ以上、何も言わず、静かに立ち去った。ロレンツはカストロの側近から、その男がフランク・フィオリーニ(スタージス)であることを初めて聞いた。

「うるさくつきまとうあの男、何が目的かしら。どうも信用できない」と、ロレンツは護衛の一人につぶやいた。

 これは後からわかったことだが、スタージスはカストロの愛人だったロレンツをキューバでスパイとしてスカウトしようとしていたのだ。ロレンツはカストロに近づくことができる。情報を盗み出すことぐらいわけないはずだと考えた。

 そして、ある事件をきっかけにしてスタージスは、ロレンツをだまし事実上CIAのスパイとして利用することに成功する。カストロがロレンツを裏切ったと思い込ませたのだ。やがてスタージスはロレンツを訓練し、カストロ暗殺の刺客に育て上げた。ロレンツがカストロ暗殺に失敗した後も、スタージスはロレンツの上司として、ロレンツをキューバ侵攻計画に参加させるべく訓練したりもした。これがロレンツとスタージスの出会いと、ロレンツがスタージスの下で働くようになった簡単ないきさつだ。詳細はおいおい、明らかにされる。

▼証言までのいきさつ
 ロレンツにとって、あの忌々しい一九六三年十一月のケネディ暗殺事件以降、スタージスとは手を切ったはずだった。ジャック・ルビーのようなマフィアとかかわりをもつようになったスタージスのグループには、二度と戻るまいと決めたのだ。実際、その後約十四年間はグループとのつき合いはなかった。少なくともスタージスがロレンツのことを、マスコミを通じて非難し始めるまでは、彼のグループとは縁が切れたと信じていた。

 スタージスはロレンツのことを共産主義のスパイだと非難した。ロレンツは同じ共産主義のシンパであるオズワルドと仲がよく、ダラスでも一緒だったと吹聴し始めた。スタージスはあたかも、ケネディ暗殺の背後には共産主義の陰謀があるかのように新聞記者たちに話し始めたのだ。

 ロレンツにとって、共産主義のスパイだなどというのは全くの濡れ衣だった。もちろんカストロの愛人だったのは事実だ。しかし、愛していたのはカストロであって、共産主義が好きだったわけではない。たまたま共産主義者となったカストロと愛し合っただけだ。

 ロレンツはこの謂われのない共産主義スパイという噂を打ち消さなければならなかった。スタージスに対する反撃だ。ロレンツにはスタージスこそケネディ暗殺実行犯グループであるとの確信に近い疑いを持っていた。それが九月二十日のニューヨーク・デイリー・ニューズの記事になったのだ。

 メディアは女スパイ、ロレンツのことを大々的に取り上げた。ここまで騒ぎになれば、CIAの暗殺団も簡単にはロレンツを殺せまい。ところが、この一連の騒ぎのせいで、ロレンツに注目が集まり、下院の特別調査委員会から呼び出されたのだ。

▼キューバ革命(上)
 ここで、ロレンツがカストロの愛人だったという1959年当時のキューバ情勢と、キューバの歴史について簡単に触れておこう。

 キューバの近代史は圧政と腐敗の歴史でもある。19世紀の終わりにようやくスペインの抑圧から解放されたと思ったら、20世紀のキューバには、腐敗政治と圧政とアメリカの干渉が待ち受けていた。1902年に誕生した共和制初代大統領トマス・エストラダ・パルマ(1835~1908年)の政権では、退役軍人の年金をめぐる不正と政治改革の失敗により、各地で反乱が起こり、アメリカが介入することになった。

 暫定的なアメリカの統治が終わった1909年から25年にいたるゴメス、メノカル、サヤスの3政権は、いずれも腐敗政治の代名詞となり、内乱や暴動が後を絶たなかった。

 1925年に誕生したマチャド政権は、最初は改革の旗手を標榜したが、すぐに独裁政権へと変貌した。マチャドは反対勢力を押さえ込み、言論や出版、集会に制限を加えるなど徹底的な恐怖政治を展開した。マチャド政権は1933年に、反対勢力の台頭で崩壊するが、そのときに軍部の実験を握った軍人のフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバル(1901~1973年)は新たな独裁政治を敷いた。軍部の力を背景に政治を意のままに操ったのだ。

 そのバティスタの独裁に立ち向かったのが、1953年に蜂起したフィデル・カストロだった。一時メキシコに亡命していたが、57年に帰国してからは革命軍を率いて山間部でゲリラ戦を展開、勢力を拡大していった。

▼キューバ革命(中)
 約2年にわたる内乱の末、フィデル・カストロの革命軍は1959年1月1日、悪名高いバティスタ政権を打倒、ハバナの目抜き通りを凱旋した。20年以上にわたり権力を欲しいままにしていたバティスタは国外へ逃亡した。

 カストロの革命は当初、アメリカでは好意的に受け止められた。しかし、アイゼンハワー政権内では意見が分かれた。国務省のラテンアメリカ担当者の多くは、カストロ政権を早急に承認するよう主張したが、CIAのアレン・ダレス長官らはカストロが共産主義と結びつかないことがわかるまで承認すべきではないと反対。当時のリチャード・ニクソン副大統領もダレス長官と同様、カストロ政権の承認に反対した。

 ニクソン本人は自伝の中で、カストロ政権について触れ、次のように書いている。
「カストロ政権誕生の皮肉な結果とその悲劇は、キューバ人民がやっと右翼の独裁者から解放されたと思ったら、それよりもはるかに悪いと後でわかる左翼の独裁者を受け入れてしまったことだ。米国から見れば、バティスタは少なくともわが国に友好的であった。これに対し、カストロは和解しにくい、危険な敵であることが判明したのだ」

 ニクソンとダレスの意見を聞き入れたアイゼンハワー大統領は翌1960年はじめまでに、カストロ政権は合衆国にとって脅威で由々しき政権であると判断、キューバ国内外で反カストロ活動を支援することを容認した。ニクソンとダレス、それに反カストロのキューバ人の関係は、これにより緊密化した。

▼キューバ革命(下)
 アメリカ国内で大統領選挙が戦われている最中にも、カストロ政権と米政権の間は悪化していった。誕生直後はアメリカと敵対的な関係になかったカストロ政権も、アメリカの反カストロ政策に対抗して、反米宣伝を開始。同時に共産圏諸国とのいっそう緊密な経済関係を樹立していった。

 一九六〇年七月には、米国議会がキューバに対する砂糖輸入割当を他の国に回すことを承認した。これに対しカストロ政権は60年末までに、約10億ドルに達する在キューバのアメリカ資産を接収した。この一連の動きが、1961年にカストロ政権打倒のためにアメリカが仕掛け、大失敗に終わったピッグス湾事件へとつながるのである。

 カストロ政権誕生で影響や衝撃を受けたのは、キューバ国民や米国政府だけではなかった。バティスタ政権と癒着して甘い汁を吸っていた米マフィア関係者も後に多大な被害を被った。したたかなマフィアの大半は、カストロ革命軍がバティスタ政権の政府軍と戦っている最中から、カストロ革命軍が勝っても利権を損なうことのないよう、カストロに武器を売って恩も売り、いわば保険をかけていた。

 その保険は少なくともカストロが政権を取った直後は効果があった。マフィアは賭博場を運営できたし、カストロは自軍のために武器を調達したフランク・スタージスを事実上の“賭博大臣”に指名。短期間ではあるが、マフィアは前政権のときと同様に利益を上げることができた。

 ところが、反米色が強まり、カストロがソ連寄りの路線を鮮明に打ち出すにつれ、腐敗した資本主義の象徴である賭博やマフィアを締め出す動きが強まった。ロレンツがスタージスと出会ったのは、このころである。

 そしてカストロは1961年9月までに、すべてのマフィア関係者を国外追放した。ニューヨーク・タイムズによると、マフィアがキューバの賭博場から得ていた収益は年間三億五〇〇〇万ドルから七億ドルだったというから、このときのマフィアの打撃がいかに多大であったかがわかる。

 こうしてマフィアとCIAの利益が一致、マフィアはCIAによるカストロ暗殺計画を手伝うことになるのである。

▼委員会開会
 三揃えのパリッとした女性用スーツを着たロレンツが、二人の子供、それに小犬2匹を伴って首都ワシントンの議事堂に面したロングウォース・ハウス・オフィス・ビルに着いたのは、一九七八年五月三十一日午前九時半の少し前だった。このビルの一三一〇号室で委員会が開かれるのだ。正式名称は、下院暗殺調査特別委員会(HSCA)のケネディ暗殺に関する小委員会。議長はリチャードソン・プレイヤー。ロレンツにとって初めて出会う委員ばかりで、それがよけい不安を募らせた。

 ロレンツの証人としての権利を守るため、弁護士のローレンス・クリーガーがそばについていた。

 部屋には議長のプレイヤーのほか、二人の議員と九人のスタッフらが席に着いていた。ロレンツとクリーガー、それに子供二人は部屋の後ろの席に腰掛けた。開会前の重々しい緊張感が部屋に満ちていた。

 午前九時三十三分、議長がおもむろに口を開いた。
「委員会を開会する。バーニングさん(編注:委員会スタッフの一人、事務官)、きょうの委員会に選任された議員の名前を読み上げて下さい」
「議長であるあなたのほかに、ソーン氏、バーク氏、ドッド氏がケネディ小委員会の常任委員です。フィシアン氏はソウヤー氏の代理です」
「議長は、きょうの聴聞会を執行部の委員会(編注:非公開の委員会)とするという動議を認める。というのも、委員会にもたらされた情報に基づけば、きょうの証言が他の人々を誹謗中傷したり、有罪にしたりする可能性があるからである」

 ここで議員のフィシアンが口を挟んだ。
「そのように動議します。議長」

 議長に促されて事務官のバーニングが採決を採った。
「プレイヤーさん」
「賛成」
「ソーンさん」
(返答無し)
「バークさん」
(返答無し)
「ドッドさん」
「賛成」
「フィシアンさん」
「賛成」
「賛成三名です。議長」
「これにより委員会は非公開とする。証人の準備はできているかね」
 議長が委員会スタッフのトリプレットの方を向いて聞いた。トリプレットは「待ってました」とばかりに「はい」と短く返答。後方で待っていたロレンツとその弁護士のクリーガーに対して、前の証言席に歩み出るよう促した。ロレンツは子供二人小犬二匹を後ろの席に残し、弁護士のクリーガーを伴い、ゆっくりと踏みしめるように進み出ると、証人席に腰を下ろした。

(前回までのあらすじ)
ドイツ生まれの19歳のマリタ・ロレンツ。1959年2月、父親が船長を務める豪華客船で革命直後のキューバを訪れた。そこでフィデル・カストロと出会い、恋に落ちる。やがてロレンツは妊娠。当時、キューバで賭博場を仕切っていたCIA工作員フランク・スタージスにスパイとしてスカウトされ、数奇な人生を歩むことになる。1978年5月、そのスタージスのせいで、米下院ケネディ暗殺特別委員会の証人として、証言することになった。

▼宣誓
 議長が口を開いた。
 「我々のきょうの証人は、マリタ・ロレンツ女史である。証人は立って、宣誓をするよう求める。あなたは、あなたがこの小委員会に提供する証言・証拠が真実であり、真実そのものであり、真実以外の何ものでもないことを神に誓って、正式に誓いますか?」

 ロレンツは立ち上がって右手を挙げ、左手を聖書に置き「誓います」ときっぱりと言った。

 「ありがとう。ではまず、証人の弁護士は記録のために自分自身について述べなさい」と、議長はロレンツの弁護士に向かって言った。

 「議長。私の名前はローレンス・クリーガーです。私はロレンツ女史の弁護士です。私の事務所は、ニューヨーク州ニューヨーク市パーク街二三〇にあります。私はニューヨーク州法曹界とワシントンのコロンビア特別区法曹界のメンバーです」

 「ありがとう。クリーガーさん。ところで、委員会の規則が書かれたコピーが既に証人に手渡されたと思いますが」
 「その通りです。議長」

 「ありがとう。ここで議長として、この委員会の調査目的について簡単に述べておきたい。これはいつも、それぞれの証人に対して述べることである。
 この委員会に与えられた権限は、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺と暗殺にまつわる状況について、最大限かつ完全な調査、検討を実施することである。委員会の調査には、大統領を守るということに関する現行の米合衆国の法律、司法権、それにCIAなど省庁の能力が、条款や法律の執行面で適切であるかどうかを決めることも含まれる。また、合衆国政府の省庁や機関が証拠や情報をすべて公開したかどうか、政府機関が関知していない情報や証拠の中に、暗殺の調査に役立つものがあるのかどうか、もしあれば、なぜ、政府機関にそうした情報がもたらされなかったのか、なども調査対象になっている。そして、この特別委員会がもし、現行の法律の改正や新しい法律の制定が必要であると判断した場合、そのことを下院議会に推薦することも我々の仕事である。
 議長はトリプレット氏の証人に対する質問を認める」

 議長の承認を得たトリプレットは早速、質問に入った。
 「ロレンツさん。生年月日を教えていただけますか?」

▼生い立ち
 「一九三九年八月十八日です」とロレンツは答えた。これがこの後六時間を超える証言の幕開けだった。ロレンツの人生を決めるような大決戦が始まったかのようであった。
 トリプレットが聞いた。「どこで生まれたのですか?」
 「西ドイツのブレーメンです」
 「その後、米国で教育を受けましたか?」
 「はい」
 「あなたの学歴について簡単に説明していただけますか?いつ、どこで、どんな学位を取得したかについて」

 「初等教育はドイツとワシントンDCで受けました。初めて米国に来たのは、一九五〇年の五月です。中等教育まで受けた後、ニューヨークの医療学校や商業・金融関係の秘書学校に行ったほか、ニューヨーク市警による訓練も受けたことがあります」
 「議長。ここで証人とその弁護士に、JFK証拠物件ナンバー九四のコピーを手渡し、読むように求めたいのですが」
 弁護士のクリーガーが答えた。「議長。その手紙なら読みました。記録のために申し上げますが、私の依頼人のロレンツさんは、職務上知り得た情報の扱いに関して、CIAとの間で、いかなる書類にも署名したこともないし、同意したこともございません」
 トリプレットがロレンツに向かって聞いた。「その通りですか、ロレンツさん?」
 「その通りです」
 「分かりました」
 ロレンツとCIAがどのような関係であったのかが、このやり取りからうかがえる。正式にCIAに雇用されたのであれば、職務上知りえた情報について雇用期間が切れた後も口外してはならないとの書類にサインするのが常である。それをしていないということは、ロレンツはかなり末端の工作員であるか、非公式の工作員であった可能性が強くなる。

事実、CIAはロレンツを工作員と認めたことはない。ただ、ハワード・ハントやフランク・スタージスといったウォーターゲート事件関係者、つまりCIAの非合法工作員らと「裏の仕事」をしていたのは、まぎれもない事実である。

▼カストロとの出会い1
 トリプレットはロレンツに対する質問を続けた。「これまでにフィデル・カストロと会う機会がありましたか?」
 「はい、ありました」
 「いつ、どこで最初にフィデル・カストロに会ったのですか?」
 ロレンツにとってカストロの話をするのは、個人的には楽しかった日々を思い出す反面、対外的には自分の古傷に触られるような気がして、あまり愉快な話ではなかった。また、その後、ある事件をきっかけにCIAに転向、カストロ暗殺計画に加わった“前科”もある。ここは慎重に答えなければならなかった。ロレンツはあらかじめ、弁護士から教えられていた通りにこう発言した。「その質問に対する私の答えが自ら罪を認めることになるおそれがあるので、お答えできません。私は、合衆国憲法第五条により保証されている、自分から有罪を認めるような発言に対する保護を求めます」
 議長がここで割って入った。「確か、ブライアント判事から証人に免責を認める命令が下りていたと思うが」
 トリプレットが答えた。「その通りです、議長」
 「この際、証人とその弁護士にその命令書を手渡すように」
 「JFK証拠物件一二二の命令書です」と言って、トリプレットがロレンツとクリーガーに命令書を手渡すと、二人は命令書を食い入るように読み、確認した。そこには免責特権がロレンツに与えられることがはっきりと記されていた。ただ、一カ所だけ誤字があったのでクリーガーは議長に訂正を申し入れた。「一つだけ訂正があります。証人の名前はメリタではなく、マリタです」
 「分かりました。その免責命令を考慮して、議長は証人に先の質問に答えるよう命令する」
 「トリプレットさん。最後の質問をもう一度繰り返していただけませんか?」とクリーガーは念を押した。

 「質問は、いつ、どこで、最初にフィデル・カストロと出会ったかです」とトリプレットはロレンツに向かって質問を繰り返した。
 「私はフィデル・カストロに一九五九年二月二十八日に出会いました(編注:実際は二月二十七日。ロレンツの勘違いであるとみられる)。ハバナ港で、船長を務める父の船の上で出会いました」と、ロレンツは口を開いた。カストロの革命が成功した直後のキューバであった。
 「それは乗客船“ベルリン号”で間違いないですか?」
 「その通りです」
 「どうやって、カストロ氏と知り合うようになったのですか?」
 「彼自身が私に話したのですが、彼がハバナ・ヒルトン・ホテルのバルコニーに立っていると、港に大型客船が見えたのだそうです。彼はそれまで豪華な大型快速船に乗ったことがなかったので、乗ってみたくなり、部下約四十人を連れて、乗り込んできたのです」
 「その後、キューバにとどまったのですか?」
 「いいえ。私は父とともにニューヨークに戻りました。ただ、フィデルは私の住所を聞き出していたのです」ー。

▼カストロとの出会い2
 ここまで話すと、ロレンツに当時の思い出が津波のように押し寄せてきた。カストロとの最初の出会い。ロレンツはまだ十九歳と六ヶ月だった。

 それは、父親のハインリッヒ・ロレンツが船長を務める豪華客船ベルリン号が2ヶ月に及ぶ西インド諸島への航海を経て、最後の停泊地であるハバナに寄港した一九五九年二月二七日の午後のことだった。熱帯のジャスミンの甘い香りがマンボとルンバのリズムに乗って、甲板までそよそよと漂ってきていた。
 
 船の上は当時、おてんばのロレンツの遊び場であった。乗客のランチを運んでいるウェイターから薄切りハムをかすめとったり、客室に忍び込みほかの客の靴と取り替えたり、父親が不在のときに金庫からピストルを持ち出して、空に向かって撃ったり、ロレンツが“発案”した悪戯は数え切れなかった。
 
 おてんば娘から大人の女性へ――。この航海が終わると、ロレンツはニューヨークにいる秘書養成学校に入ることになっていた。そこで技術を学び、ゆくゆくは両親が決めた許婚である若きドイツ人医師と結婚し、落ち着いた家庭を築き、子供たちを育てるという平凡の生活が待っていた。
 
 だが、ロレンツがあこがれたのは海。海の上は自由と冒険に満ちた刺激のある世界だ。多感なロレンツは、若くて恋にあこがれ、思いっ切り背伸びをして大人の世界をのぞき見たい、そんな好奇心に満ちた年頃の娘でもあった。カストロはその好奇心を十分に満たしてくれる人物だった。
 
 ベルリン号が寄港したときカストロは、革命本部があるハバナのヒルトンホテル23階のバルコニーから、豪華客船が港に入ってくるのを見ていた。そして、一度も外洋航海船に乗ったことがなかったので、部下を引き連れて見学しようと思い立ったのだ。
 
 カストロが部下とともに大型ボートでベルリン号に向かってくるのを見た乗客は、色めきたった。カストロたちが武器を携帯し、しかも弾薬をいっぱい詰めた弾帯を身に付けていたからだ。カストロがベルリン号を乗っ取りに来たのではないか。乗客の間に動揺が広がった。

▼カストロとの出会い3
 カストロの一団がベルリン号に近づいているとき、船長であるロレンツの父親は深夜の出航に備えて昼寝の最中で、誰も正午から午後3時までは起こしてはいけないことになっていた。乗客が動揺していることを気にした船室係の一人が、ロレンツに父親を起こすことを期待してか、「何とかしてくれ」と言ってきた。

 しかしヤンチャなロレンツは、父親を午後3時まで起こしてはならないという命令を逆手にとって、船長代行を演じることにした。大型ボートに乗ったカストロの一団(もちろんそのときは、乗客もロレンツもカストロだとは気づいていない)を見渡せるトップ・デッキに登ったロレンツは、乗船用デッキに接舷しようとしている大型ボートの一団に向かって甲高い声で叫び、指で口笛を吹いた。

いきなりの叫び声と口笛に驚いた兵士の何人かはバランスを崩し、あやうく海に落ちそうになった。その中で一人の男が顔を上げ、ロレンツを見上げた。ほんの一瞬だが目と目が合った。これがロレンツとカストロの最初の出会いであった。

ロレンツは一団に対して、そこで待つように叫び、自分は乗船用デッキへと続くタラップへと急いだ。タラップの最上段に足を伸ばしたそのとき、先の男と再び目が合ってしまった。その男、カストロはじっと、ロレンツのことを見つめていた。カストロが一段階段を踏み出したのを機に、ロレンツも階段を下り始めた。ロレンツの胸はどきどきしていた。この男は何者なのか、友好的な男だろうか。

全員が固唾を飲んで見守る中、二人はタラップの真ん中で出会った。潮の混じった熱帯の風がタラップを時折、激しく揺らした。お互いが相手の出方を待って、しばらく沈黙が続いた。やがて、カストロが口を開き、緊張感に満ちた沈黙を破った。たどたどしい英語であった。

「私、私の名前はドクター、カストロ、フィデルです。どうか、あなたの素晴らしい船を見学することができますか? 私、私はキューバ! あなた、ドイツ人ですか?」

ロレンツは訛りのないスペイン語で答えた。「私は、イローナ・ロレンツ、ドイツ人です。私は船長の代理を務めています。今あなたが足を乗せている船はドイツです。何の御用ですか? こんなものは必要ないはずです!」

ロレンツはそう言うと、毅然とした態度で、カストロが持っていたライフルに手を伸ばした。ロレンツは、いかなる武器も船には持ち込ませるものかとの気概をもっていた。
(続く)

▼カストロとの出会い4
 ライフルを取り上げようとしている自分に対して、この男はどう反応するだろうか。いきなり怒り出し、ライフルを発射するのではないか。あるいは逆上して、部下に命じて船を乗っ取ろうとするかもしれない。カストロは、ライフルを持っている自分の手に視線を落とした。間髪いれずにロレンツは、不測の事態を予測しながら、言葉を続けた。

「ドイツはキューバと友好的な関係にあります。ライフルは没収します。そうでなければ、乗船は認められません」

 一瞬、沈黙が走ったような気がした。しかし次の瞬間には、カストロは顔に笑みを浮かべながら、降伏した兵士のようにライフルをロレンツに手渡した。その際、カストロの手とロレンツの手が初めて触れ合った。この光景を見ていた船の上の乗客から拍手が沸き起こった。ロレンツとカストロはそのまま階段を登り、船に乗り込んだ。

 カストロはクマのようにひげを伸ばしていたが、精悍な顔立ちをしていた。キューバ軍の軍服と制帽をかぶり、一見恐そうな面持ちだったが、目は澄んで優しそうだった。うつむいたときはちょっと悲しげな顔を見せた。

 ロレンツとカストロの後から、25名の兵士もひとりずつ乗船してきた。ロレンツは彼らにも声を張り上げた。「さあ、腰の銃もはずして、全員武器をこの床の上においてちょうだい!」
 
 兵士の中には不平を言うものも現われたが、カストロが武器を置くよう命じると、みなそれに従った。ロレンツはちゃんと保管して、後で必ず返すことをカストロに約束した。

 カストロは船長にしきりに会いたがったが、ロレンツは午後3時までは自分が船長代理であるとして、自分が船内を案内すると言い張った。実はロレンツは何よりも、カストロの目やその立ち居振る舞いに惹かれ始めていた。彼の射抜くような目や微笑、肉体的魅力を目の前にして、ロレンツは感情が高ぶり、どぎまぎした。

 当時のロレンツは、ボーイフレンドもおらず、キスをしたこともない初心な女の子であった。一方カストロは、葉巻の臭いを漂わせていた。それはロレンツの父の持つ大人の臭いでもあった。そして何よりも、キューバ人民による改革の情熱に燃えた三十三歳の若き革命家であるカストロは、冒険とロマンにあふれた大人の世界をロレンツの目の前に広げて見せてくれたのだ。

 ロレンツは、すっかりカストロに夢中になってしまった。カストロも、若くて快活で、少しお茶目なロレンツがすぐに気に入った。

▼カストロの生い立ち
 ここでカストロの生い立ちにも触れておこう。

 カストロは1927年8月13日、キューバ・オリエンテ州の裕福なサトウキビ農家に生まれた。父はスペインからの移民であった。

 カストロはハバナの私立学校コレジオ・ベレンなどイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中する日々を送った。1944年には、最優秀高校スポーツ選手にも選ばれたという。45年にはハバナ大学法学部に入学。在学中の1948年には、アメリカのメジャーリーグ選抜チームと対戦し、投手として3安打無得点に抑えたこともあったという。50年には法学士号を取得した。

 在学中から学生運動にも乗り出し、革命運動に身を投じてドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨ打倒の遠征軍にも参加した。卒業後、1950年から二年間ほどは、弁護士として貧困者のために活動していたが、52年の議会選挙に立候補して政治活動を展開中に、バティスタ将軍率いるクーデターが起こり、選挙の結果を無効にされた。

 カストロは憲法裁判所にバティスタを告発したものの、請願が拒絶されたため、武力によるバティスタ打倒を決意した。

 武装勢力を組織したカストロは1953年7月26日、サンチャゴ郊外のモンカダ兵営を襲撃した。だが、結果は襲撃者の80人以上が死亡し、カストロは逮捕された。懲役15年の刑を受けて服役中、55年5月に恩赦により釈放。二ヵ月後にメキシコへ渡り、そこでキューバ人亡命者を訓練して革命軍を組織した。

 56年12月2日には、メキシコから約80人の亡命者とともに秘密裏にキューバに上陸したが、その大部分は殺され、あるいは逮捕された。このとき生き残ったのは、カストロのほか、弟のラウル・カストロ、有名なチェ・ゲバラ、カミロ・シエンフェゴスら12人だけであった。彼らはかろうじて逃げ延び、シエラ・マエストラ山中に拠点を構え、ゲリラ戦を開始した。この運動は、1953年のモンカダ兵営襲撃にちなんで「7月26日運動」と名づけられた。

 この運動は次第に民衆の支持を獲得し、800人以上の勢力に成長。対するバティスタは17の大隊を送り出し、革命軍討伐に乗り出したが、政府軍兵士の軍務放棄などもあり、数字の上では圧倒的に不利であったカストロの革命軍が勝利。59年1月1日、暴君バティスタをキューバから追い出し、ハバナに凱旋した。カストロは新政権を掌握し、同年二月、首相に就任。まさに、その革命の勝利の余韻が残る二月、カストロとロレンツの運命的な出会いがあったわけだ。

▼恋の芽生え
 32歳の情熱的な若き革命家カストロと、冒険心に富み怖いもの知らずの19歳のロレンツ―ー。一目見ただけで、お互いに惹かれあったとしても不思議ではなかった。

 その出来事は、ロレンツがカストロをベルリン号のエンジンルームへと案内するエレベータの中で起きた。二人にとって幸いなことに、お付きの兵士たちはエレベータが狭いため乗り込めず、二人だけになったことだった。二人は無言のままだった。カストロはロレンツを見つめ、二人は狭いエレベータ内で密着していた。カストロの息とあごひげが、ロレンツの鼻をくすぐる。カストロの手はロレンツの腰へと回された。

 時間が止まったような気がした。しかし無常にも、エレベータは目的の階に達すると動きを止める。止まる直前、ロレンツは思い切ってカストロに体を預けた。カストロはロレンツを抱きしめた。ロレンツはなおも身を寄せた。ロレンツは突然の恋の芽生えに半ば混乱していたが、この気分が永遠に続けばいいと願っていた。

 エレベータの扉が開くと、ロレンツはカストロの手を取り、油のこびりついた階段を降りて、けたたましいピストンの音が鳴り響くエンジンルームへと案内した。カストロの部下たちは、二人の後を追って、エンジンの上に渡した格子状の通路までついてきていた。カストロは騒音に負けまいと、大きな声でロレンツに自分とキューバについて語りかけてきた。ロレンツはにっこりと微笑み返した。

 やがてカストロは、ロレンツから一時離れ、部下にエンジンルームの説明を始めた。ロレンツにとって、部下たちは邪魔者にほかならなかった。どうやったら二人だけになれるか、ロレンツの頭の中にはそれしかなかった。

 父親が起きる時間まで後40分はあった。そこでロレンツは、カストロの一行をバーに案内することにした。「皆さんに冷えたドイツビールをご馳走します」と言って、許されてもいないのに、つけでベックス・ブレーメンを人数分注文した。ロレンツ自身はウェイターに父親に黙っているように念を押しながら、ラムとコーラでつくる「キューバ・リブレ」を注文した。

 飲み物が行き渡ると、カストロが「自由となったキューバに!」と祝杯を挙げた。ロレンツは「ドイツよ、永遠なれ!」と応じた。

 ロレンツはバーで、カストロと楽しい時間を過ごした。しかし、当時ロレンツはバーへの出入りを禁じられていた。一等航海士らが噂を聞きつけて、バーにやってきた。父親が起きる時間も近づいていた。そこでロレンツは、一等航海士らにその場を任せ自室に戻ると、午後のコーヒー・タイム用のドレスに着替えた。

▼カストロとの会食
お下げ髪を解き、ドレスに着替えたロレンツは、父親の部屋へと向かう途中のカストロたち一行に合流した。ロレンツの代わりにカストロたちを案内していた一等航海士は、案内役を再びロレンツに譲った。

ロレンツの父親は既に起きており、上のデッキからロレンツたちを見下ろしていた。「一体、どういうことなんだ?」と、父親は大声でどなった。ロレンツは説明した。「こちらはドクター・フィデル・カストロ・ルス。キューバの指導者よ。船を見学したいんですって。パパに会いたがっているの」

事態を把握したロレンツの父親は、主任船室係を呼んで、サンドイッチとケーキと飲み物を銀のトレイに乗せて持ってこさせ、カストロたちに振舞った。今度は父親がカストロたちを案内する番だ。海図室と操舵室を回り、客室へと案内した。

客室でカストロとロレンツの父親は、飲みながら三時間も話し込んだ。飲んで話をするうちに、二人は打ち解けていったようだ。

カストロが父親に言った。「船長、私は今キューバです。私は山を下りて、革命を成功させましたが、政治については学ぶべきことはたくさんあります。人々に対する約束を守っていかなければならないし、バティスタが残したものを一掃する必要もある」

ロレンツの父親がこれに答えた。「あなたが決してやってはいけないことは、どんな形であれアメリカと不和になることです」

「ええ、そのつもりはまったくありません。絶対に。事実、アメリカと話し合いたいと思っているのです」と、カストロは述べながら、共産主義との結びつきを猛然と否定し、自分たちの革命をヒューマニズムであると呼んだ。

午後6時ちょうど、ロレンツの父親はカストロたち全員をファーストクラスの船長席の夕食に招待した。カストロは、ロレンツとロレンツの父親の間に座った。その際、カストロは、ナプキンにメッセージを書いて、それを折りたたみ、テーブルの下からロレンツに渡した。そこには「マリタ、私のアレマニアータ(ドイツ娘の意)――永遠に。フィデル。1959年2月27日」と書かれていた。

▼あいびき
カストロは英雄視されることを好まないらしく、おそらくその理由で自伝を書かせない。そのため、ロレンツと出会った当時のカストロ自身の心情は推測するほかない。

ロレンツの自伝によれば、カストロはかなり積極的にロレンツにアプローチした。おそらく一目ぼれであったのだろう、夕食後、カストロはロレンツの父親に、手紙を翻訳する個人秘書として娘のロレンツを雇いたいと、礼儀正しい口調で申し出た。父親は一瞬、あっけにとられたが、すぐにこう返答した。「実にありがたい申し出ですが、ドクター・カストロ、ちょっとそれはかなわぬことです。娘はニューヨークの学校へ行くことになっているのです。それに娘はまだほんの子供です」

出航時間が迫っていた。ロレンツの父親は出航準備があるため席を立ち、ブリッジへと向かった。残されたロレンツとカストロは、デッキに出た。既に熱帯の太陽は沈み、カラフルな照明が船を照らしていた。船尾のデッキからは、ジャスミンの香りとルンバのリズムが流れてきていた。

二人がデッキに出たので、カストロの部下たちと二人の高級船員も続いた。カストロはロレンツの手を取った。ロレンツは、ハバナ港の素晴らしい夜景を見せるふりをして、6番と7番の救命ボートの透き間にすばやくカストロを引っ張り込んだ。部下と高級船員たちは、そのまま通り過ぎていった。外界から隔てられた二人だけの世界ができあがった。

カストロはロレンツの体を引き寄せると、きつく抱きしめ、キスをした。ロレンツにとって、初めてのキスであった。カストロのあごひげは、キューバ葉巻の匂いがした。

カストロはロレンツに「ああ、愛しているよ」とスペイン語でささやいた。カストロの優しさにあふれた目は、しっかりとロレンツの目を見つめていた。カストロの言葉はこの上なく甘く、ロレンツの耳に響いた。「そばにいておくれ」

「フィデル、それはできないわ。私たちの船は二時間後には出港するの」とロレンツは答えた。
「行かないでおくれ、アレマニータ」とカストロは懇願する。
「駄目よ、フィデル。行きたくないけれど、行かなくては」
「私のところへ来て、一緒にキューバのために働いてほしい。君が必要なんだ」
「戻ってくるわ」
「私が年上すぎるかな? 君はとても若い」
「そんなことないわ。完璧よ」

 それは恋人たちの悲しい別れだった。まるでドラマの主人公になったようでもあった。ロレンツは今でも鮮明に、おそらく生涯を通じて宝物のように大事に、このときのことを覚えているに違いないと感じていた。

(前回までのあらすじ)
下院ケネディ暗殺調査特別委員会で証言を求められているロレンツは、19年前のカストロとの最初の出会いを思い出す。父親の豪華客船で革命直後のキューバに立ち寄った19歳のロレンツは、そこで若きキューバの指導者カストロと運命的な出会いをする。二人はたちまち恋に落ちるが、出航時間が迫っていた。自分のそばにとどまってほしいと懇願するカストロに、ロレンツは「戻ってくるわ」と返答するのが精一杯であった。

▼二度目の出会い
 「次にカストロ氏に会ったのはいつですか?」――。トリプレットの質問にロレンツは我に返った。委員会でのロレンツの証言は、まだ始まったばかりであった。
 「五九年の三月初めか、二月の末に、私がハバナに再び行ったときです。それが二度目に彼に会ったときです(編注:二月の末は物理的に不可能。ロレンツの勘違いであるとみられる)」
 「ハバナで出会った二度目も、お父さんの船で行ったのですか?」
 「いいえ。クバナ航空、つまり、フィデルの飛行機で行ったのです」
 「だれかの招待でハバナに行ったのですか?」
 「フィデル自身の招待です」

 そう、すべてはフィデル・カストロがアレンジしたのだ。ロレンツはニューヨークに戻っていた。父親はヨーロッパへ向け航行中、母親は外国任務でドイツにいた。その電話がかかってきたとき、ロレンツは自宅で一人だった。

国際電話の交換手がたずねた。「マリタ・ロレンツですか?」
「はい」とロレンツが答えた。
「ちょっとお待ちください。首相からです」

ロレンツは驚いた。首相って、もしや・・・。
受話器の向こう側から、聞き覚えのあるしゃがれ声が聞こえてきた。
「君がいないと寂しい」――。カストロの声だった。「戻ってきてくれるかい?」
「わからないわ。パパは今日、出航したの。一ヶ月は戻ってこないわ」と、ロレンツは困惑しながら答えた。
「だったら、一週間は来られるんじゃないかい」とカストロは言う。そしてスペイン語で「愛しているよ、アレマニータ」と付け加えた。

この電話から24時間も経たないうちに、3人のカストロの側近がニューヨークの自宅にいるロレンツを迎えに来た。わざわざチャーターしたとみられるクバナ航空の飛行機がアイドルワイルド空港(現JFK空港)でロレンツを待っていた。カストロの待つキューバのハバナまで、まさに一飛びであった。


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