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テーマ:休日の過ごし方(2465)
カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
ああっ!なんて暑いんだ今日は。まるでまた夏が戻ってきたみたいだ
だがしかーし!めげない私は再びの青山掃苔! あ、掃苔(そうたい)っていうのは「先人の墓所を訪ね、苔を払いその事跡を調べて回ること」だよ(^O^)/ ~青山霊園~再び 大体の位置はもうわかってる(←本当か?) とりあえず大鳥さんのお墓 にご挨拶がてら寄ってみた …!! なんと人がいる!お参りというか…ご同輩?(←メモとペンとカメラ持ってた!) しかも、数日前のものらしいお花まで供えてある 結構人気あるんじゃん、大鳥さん。 ぽんぽんと肩をたたいてあげたいような気持ちでちょっとニヤニヤしつつ沢さんのお墓 にもご挨拶して再びの探検…もとい掃苔。 発見。秋月悌次郎さん 1種ロ12号26側 なかなかりっぱな一族のお墓でやっぱりお参りされた後が。 悌次郎さんのお墓の隣には容大(かたはる)さん揮毫の碑が。 容大さんは明治2年6月容保候の実子として生れる。時代は大きなうねりを上げて会津藩を飲み込もうとしているまさにその時。 容保候はじめ会津藩の人々は藩を救う為、容保候に側室を持たせ実子を誕生させたのだ。 当時、子供のいなかった容保候は徳川慶喜の弟慶徳(のぶのり)を養子に迎え会津藩主の座を譲っていた。 しかし敗戦、謹慎、特旨をもって晴れて免罪になると明治6年8月、喜徳の養子縁組は解かれ水戸藩の支藩である旧守山藩(福島県郡山市に属す)の養嫡子となる。 喜徳は明治9年フランスに留学し11年に帰国したが明治24年(1891)、37歳で亡くなった。 会津戦争のとき14歳だよ!!それで藩主になって、朝敵呼ばわりされて…。 この方には土方さんはもちろん会ってるし、島田さんは報奨金をいただいたはず。 慶応4年6.3(7.22)新選組、福良に至り会津喜徳候に拝謁。島田、病院にて公より25両下賜される(島田魁日記より) 一方の容大さん、物心ついたときはすっかり明治の世の中。 いろんな意味で大変な生涯だったんだろうなぁ。 さて、あんまり浸ってないで次行きましょう 青山陸橋を渡り「立山地区」と呼ばれる区域に入る。 あったあった! 尺振八さんのお墓。立山1種イ4号1側 この方は新選組とは全然関係ないんだけど(笑)伊庭クンが追われていたときに匿ってくれて箱館へ行くのを手伝ってくれた人。 いやいや、その節は御世話になりました。おかげで無事箱館に着き、人見さんや土方さんと再会できて最後まで共に戦いました。ありがとう(←いや、私が言ってもね) これで青山霊園掃苔は終わりますm(__)m あーよかった!全部見つけられて……はっ!「忠犬ハチ公」のお墓見つけられなかった!!!(>_<) ~吉祥寺~ 曹洞宗、諏訪山。長禄年間(1457~59)太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥」の金印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれる。 徳川家康時代に現在の水道橋際に移り、1657年明暦の大火で焼失し現在地に移転。 関東における曹洞宗の宗門随一の栴檀林(僧侶の育成機関。駒澤大学の前身)がおかれ多くの学僧が学んだ。 第二次大戦でそのほとんどが焼失し、現在は山門と経蔵だけが往時をしのばせる。(案内板より) 結構広いので案内もなくて平気かしら?と思ったがご心配なく 榎本さんのお墓 はすぐ見つかりました。だってすごく広くてきれいだから。 こうしてみると榎本さんは「蝦夷共和国総裁」じゃなくて「海軍中将子爵」なんだな。明治政府に反抗した幕臣の中で多分一番立派なお墓じゃないかな。 ここもお参りしたらしくお花もあり土方さんのお墓くらいキレイに手入れがなされていました。 ここには他に 二宮尊徳(幕末の農政家) 鳥居耀蔵(江戸南町奉行) 川上眉山(小説家) のお墓があるそうですが鳥居さんはわからなかった。 さすがに古いお寺なので崩れかけた墓碑や石がはがれてしまったのがあったりして、探しにくかったです。 また備中松山藩主で老中の板倉勝静、幕臣・箱館戦争では砲兵隊頭取細谷安太郎などのお墓もあるはずなんだけどわからなかった。 なにかイベントが近いのか本堂付近はテントが沢山建てられとても近づける雰囲気じゃなかったなぁ。 ちなみに武蔵野市にある吉祥寺は1659年の江戸大火で、武蔵野に移住した江戸市内の吉祥寺門前町の住人が開墾し、「吉祥寺」というまちを造ったことが始まりです。(吉祥寺の歴史より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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