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カテゴリ:中島三郎助
先日からすっかり気になる人に昇格した(?)中島三郎助さん
この方は知れば知るほど驚くばかり 吃驚その壱 天然理心流門人門人だった! 近藤勇は天然理心流の四代目なのは有名な話だけれど、初代近藤内蔵之助長裕の高弟、小幡万兵衛健貞に免許を受けた桑原永助昌英(旗本?)に入門したらしいのだ 天保5年(1834)3月10日入門 天保9年(1838)目録 とある。(江戸博図録参考) 吃驚その弐 桂小五郎とは師弟関係 安政2年(1855)7月 桂小五郎寄宿と年表にあって「ふ~ん」と思ってたけど実は桂は中島さんに造船研究のため師事していたのだ。 9月には中島さんが伝習生として長崎へ行ってしまったのでわずか3ヶ月ではあったが、桂はずいぶんと尊敬していたらしく三郎助戦死後、残った妻子の世話を終生し続け娘・阿六は引き取って養育した。 「父子三人戦死せり(略)聞此報不堪悲痛なり今日尚當時を想思し不覚潜然たり」 「中島三郎助の娘阿六今日より余の宅に来れり」 「余會て妻子を輔助せんと欲し窃に人に托し置けり」(木戸孝允日記) 吃驚その参 大鳥さんがその日記の中で中島さんを偲ぶ漢詩を詠んでいる あんまり接点がないと思っていたけれど、そういえば5月15日に千代ヶ岡撤退を勧めに行ったのはこの人だっけ 結局中島さんの説得に失敗して一人で五稜郭に引き上げてきたんだよね 悼中島父子戦死 慷慨平生結満膓。一朝国破見忠良。 可憐父子三人骨。青草空埋千代岡。 獄中の明治3年1月28日わざわざ中島さんの死を悼んでって詠んでる。 吃驚その四 江川太郎左衛門とも知り合い。 高島秋帆は砲術のセンセイ。 この辺はもう少し色々調べてみたいのでまた後日。 吃驚その五 安政元年(1854)正月10日 吉田松陰と会う。このとき一緒にいたのが宮部鼎蔵! 宮部は肥後熊本藩兵法師範となった翌年の嘉永4年(1851)江戸へ赴き、吉田松陰と行動を共にする。 吉田松陰は三郎助の父・清司の「弘化上書」を目にしてその国防に対する父子の考え方に興味を持ち早くから接触を持っていたらしい。 訪問の目的は建造中の鳳凰丸の見学だろうと思われる。 あぁ、浦賀で最後に見つけた「徳田屋」に泊まったんだぁ! 案内板にはそのことは書いてないけどそうだよね~vv ふぅ~ん、そうかぁ。なんか急に実感が沸いちゃった。 そのわずか6日後にペリー艦隊が来て松陰は密航を企てて失敗、投獄されて5年後(1859)に処刑されたのか…! え~っ!その1月16日のペリーとの会談って三郎助さん、乗ってるよね。 さらにその5年後(1864)6月5日、「池田屋」で宮部が命を落とした。 その宮部の命を奪った新選組と三郎助は最後まで戦うんだ 歴史の皮肉はオモシロイ。でもこういうのは勘弁してほしい。 歴史に「もしも」は禁物だけど幕末のこの時期、もし国内が割れなかったら。 西軍と東軍に分かれず一丸となって異国と対峙していたら。 ありえないことだとわかっているけれどちょっとそんなこと考えてみたくなる。 まだまだ中島さんは続く予感~♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年02月22日 09時53分52秒
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