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カテゴリ:土方歳三
東海道宿場町・品川。
土方さんが何度も通ったであろうこの場所に漸く来られました。 ~品川寺~ほんせんじ 品川区南品川3-5-17 ここにはなぜか 亀趺座が…。 何故寺に…? ~地蔵菩薩坐像~ 品川寺(ほんせんじ)にある地蔵菩薩坐像。 深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵第一番として、宝永5年(1708)に造立したものである。 製作者は神田鍋町鋳物師太田駿河守正儀。 この大仏さんは江戸時代からずっとずっとここを通る人たちを見続けてきたのだ。 慶応4年1月15日。 鳥羽伏見で負けてボロボロになって帰ってきたときも、ここから次の戦いに向かって準備していたときも、ずっとずっと見ていたんだよね。 たぶん土方さんも(お参りは無理だろうけど)その目に入れていたんだろうな。 なんと言っても街道沿いだしね ~溺死者供養之塚~ ここは海の近くだったんだ! と思わされる「溺死者供養之塚」 ここの境内にはもう一つ土方さんを見守っていたモノがありました ~イチョウ~ 幹周り5.35メートル、樹高25メートル。推定樹齢約600年という古木です。 樹齢600年迫力ありますぅ。しかも青々として全然元気。 ~大梵鐘~ ここの鐘楼は不思議な運命を辿っている。 待て待て。慶応3年(1867)4月1日からの万博にパリにあって、昭和5年(1930)に戻ってきたという事はもしや土方さんは見てないのでは…? いやいや、元治2年(1865)3月末に東下したとき見たよね、きっと。 ~釜屋跡~ その大仏さんの品川寺前にあった旅籠・釜屋。 元治2年3月、伊東甲子太郎・斎藤一とともに東下。 同年4月上京。 慶応3年9月、井上源三郎とともに東下。 同年10月21日、江戸で最後の隊士募集となった31名とともに上洛。 このとき釜屋で昼食をとったことが残っている。 そして慶応4年1月15日。 23日に鍛冶橋の屋敷に移るまでここに滞在していたんだよね。 残念ながら建物は残ってないけれど、申し訳程度のプレートがぽつんと残ってます。 プレートは土方康さんが書かれたとか…。 せっかくだから全文掲載。 この地はもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちは、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大へん繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築しました。それで俗に「本陣」とよばれたりしました。 幕末動乱の世情を反映して慶応三年(1867)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。長井尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が数多く利用しました。 有名な新選組副長土方歳三も、隊志を連れて、慶応三年十月二十一日に休息しています。 また、慶応四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組隊志たちは、同月十五日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。 今から百二十余年前を偲びつつ、ここに記す次第です。 平成八年九月二十九日 青物横丁商店会 まちのお宝保存委員会 せっかくだからあたりを散策。 東海道から一本海側の通りはその名を 「元なぎさ通り」 というから昔はもうこのあたりはすぐ海だったんじゃないだろうか? なんたって柳が街路樹って珍しくない? 柳と言えば川べり。←え?そうなの? 今でも少しあるくと 京浜運河です。 釜屋前から旧東海道を望む。こっちへ行くと鮫洲。 こっちへ行くと 品川の町。 せっかくだから旧東海道を歩いてみようっと。 このあたりの人達はこの東海道をとても大切にしてるみたいだ。 日曜日だったせいで商店街の多くのお店のシャッターが下りてたんだけど、たいていのシャッターが東海道の錦絵なの。 なんかさぁ。 猫が多いんだよ。やせっぽちなんだけどミョーに懐っこくてかわいい仔ばっかり。 この仔らのおかげで道草くうくう。←逃げないんだもん。 ついナデナデナデ。 → お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月03日 20時27分57秒
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