ホタテバーガー☆ミ
PR
カテゴリ
カレンダー
バックナンバー
コメント新着
キーワードサーチ
< 新しい記事
新着記事一覧(全921件)
過去の記事 >
~土蔵相模跡~ 品川区北品川1-23 旅籠屋を営む相模屋は外壁が土蔵のような海鼠壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていました。 1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。 「さがみや」ね…。なぜか「どぞうずもう」と読んでしまってなんで土蔵で相撲したんだろ~?ってまじまじ見ちゃった… 土蔵のような海鼠壁…? 建物全部がって訳じゃなかったのかな。←ジオラマが怪しいのか? ~品川宿本陣跡~ 品川区北品川2 今は聖蹟公園となっていて明治天皇の宿舎にもなったらしい。 公園とはいえ当時の面影はまるでなし。オマケに盆踊り会場になっていてそうそうに立ち去りました。 東海道品川宿は諸街道の最初の宿場町。 旅人は品川宿を経由して西を目指し、また家路に着いたことから「東海道の玄関口」として栄えた。宿内の家屋は1600軒。人口7000人の規模。 お泊りはしなくても休憩はしたのだ。 いや、立派な本陣ですよ。わかりにくいけど奥には日本庭園のようなお庭もあります。 何処まで本当かは何とも言えませんが…。 でもさ…何でこのジオラマ長州の紋付けてんのかしら… ~荏原神社~ 北品川2-30-28 ここは品川神社とともに南北天王様といわれ、昔から祭礼が盛んに行われ今に到っているらしい。 はっ 「品川神社」 しまった~。寄れなかったよぅ。品川神社には富士塚があるのにィ。一生の不覚だ でもこの神社ステキ ~品川橋~ 目黒川に掛かる品川橋。 当時はこんな様子だった?! ここを通って江戸と行き来したのだ。 宿場町らしくあちこちに江戸のカケラが残ってるのが楽しいなぁ。 鮫洲を過ぎたあたりで船宿の看板が。 つられて運河の方へ行ってみる。 昔の面影はないんだろうケドきっと船宿が軒を連ねていたんだろうなぁ。 でもって、こんなところから船が沢山でていったのかな~。 水面がゆらゆら揺れて盛んにかもめが寄ってくる。なんだろう?と見に行くと…。 驚いた。魚が見える。小さな魚が群れになって泳いでる 運河を過ぎ再び東海道に戻ったところにある「浜川橋」 ~浜川橋~ なんだか昔の面影も風情もない橋だけど、ここは別名を「涙橋」という。 東海道を旅するには関係ないんだけど、この橋が架けられたのは徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われる。 慶安4年(1651)品川にお仕置き場(鈴が森刑場のこと)が設けられ、ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきた。 この時、親族等が密かに見送りに来てこの橋で共に涙を流しながら別れたという事からこの名がついたそうだ。 (案内板より) なんだ、「涙橋」っていうから…。ジョーの住んでたところかと あれは山谷。しかも「泪橋」 つまんないこと言ってないで進みましょう。 うむむそう思ってみると切ない感じ…。 実際の河はあんまりきれいじゃなかったし、車も結構通るのでとても感傷的にはなれないけれどね ほんの少しですが楽しく東海道を歩きましたぁ。
← →
新選組史跡散策 2017年10月08日
佐藤彦五郎忌 2015年09月13日
兼定展示 2015年05月04日
もっと見る
フリーページ
プロフィール
ちにた♪
幕末中心に興味のあることを気ままに書き散らかしてマス。