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カテゴリ:毎日の記録
歴代会津藩主はそのほとんどがカミサマです。
保科正之公といえば神道家でもあり、特に山崎闇斎の神道、垂加神道に深かったようです。 吉田神道あるいはその流れを汲む吉川神道や垂加神道では、人霊を神として祀る時の神号として、 明神 霊社 霊神 の3階位を立てていました。 吉田・吉川ではこれらの神号を生前受けても自分の帰幽後祀られましたが、垂加霊社の神号を受けた山崎闇斎は生前に自らの神霊を封じて祀ることを始めました。 この山崎闇斎の神道は垂加神道と呼ばれます。 跡部光海著「神道葬祭家礼」と言うものに次のようにあるそうです。 会津藩主保科正之の家臣の神道志の者は「体代(かたしろ)と云て立て祭らせ玉ふ。 是は高さ八寸の木を八角に削り、頭をば丸く削る。 木は檜の木也。台は八角の台、高さ四寸、幅四寸。右の真木の真中へさし込也。 さて真木を二つに割り、中に長さ三寸、幅一寸ほどに陥中とてほりこみをして、書付もせずそのまま漆にて二つに割たるを合せて、さし込立る也。 また笏のなりを削りて立るもあり。是は一枚板也。無位無官にても、笏勧請も苦しからず。 笏の時は、櫟(くぬぎ)の木・桜の木にても用いる也。 笏にても体代(かたしろ)にても、霊号を正面に書す。男は何姓何氏名乗神霊と書也。女は何姓何氏神霊と書なり。 若し神道の許しを得ば、男は何々の霊社、女は何々の媛と書べし。媛号は男の霊社号同前也。 さて、神霊を封する人、神道を弁へねばならぬことなり。 神道を知らぬ者の神霊には、神道の教る心にても、封ずべし。 書付も、平人は神霊と書くこと也。霊神と書かぬこと也。霊神は霊社号より上のこと也。 会津正之公などは、土津霊神と申奉ること也。」 思想も儒教もサッパリわからないけれど色々探してみるとこの「垂加神道」なるものと保科正之公の結びつきが強いことはわかります。 山崎闇斎(1618~1682) 京都の浪人の子。 少年時代は比叡山延暦寺の小僧となり、15歳で妙心寺の僧となり、19歳で土佐の吸江寺へ移る。 土佐で朱子学者と親交を持ち、仏教から儒教へと転じた。 京都に戻り開講したが、41歳(万治元年1658)から毎年、江戸へ赴き朱子学を講じた。 そこで聴聞していた会津藩主保科正之により江戸に招聘されて客分となる。 保科正之の家臣服部安休と出会う。 服部は吉川惟足の門人だった為に闇斎も影響される事になり神道に興味を持ち始めて吉川神道の吉川惟足に入門する。 また伊勢神道・向日神社の向日神道も学び、寛文9年(1669)に伊勢神宮大宮司より中臣祓の秘伝を受ける。 寛文11年(1671)には吉川惟足より垂加霊社の生前霊社号を授与された。 生前霊社号は最高奥秘である四重奥秘「神籬磐境伝(ひもろぎいわさかのつたえ)を受けた者のみ許授される事から闇斎もこの時点で四重奥秘を受けていたと考えられる。 更に山鹿素行の門人より、忌部神道・天社神道(土御門神道)・賀茂神道・望月家神道・御霊神道なども学んだ。 吉川神道とは江戸幕府神道方の吉川惟足により始まる。 惟足は京都に訪ねて吉田神道に入門する。そこで吉田神道の四重奥秘を受ける。 吉田神道の四重奥秘は本来吉田家嫡子のみに伝えられるものであったが、当時吉田家は当主が幼少の為道統が途絶えかけていた。 そこで全くの血脈の外の人間に伝え、年を経て返伝してもらうという約束で伝受されたらしい。 何のことだかサッパリわからん。 「霊神」は「霊社」より上。となっているけど、これは代々の藩主が正之公を敬って霊社としたのかな 時間がたったら「霊社」と言う説もあるようだし。結構この辺りはおおらかなのかしらね それぞれの藩主の埋葬時の様子をUPしたいんだけど、なかなか難解。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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