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2011年06月24日
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ユダヤ人が悔い改めれば世界は一変する

キリスト教は罪が分かっていません。キリスト教で考えている罪と、聖書で言っている罪とは、全然違うのです。次元が違うのです。
ペテロが言っています。「あなたがたを召してくださった聖なるかたに習って、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『私が聖な者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」ペテロの第一の手紙1・15、16)。
これは神と同じ者になれという意味ですが、これがキリスト教では何のことか分からないのです。キリスト教が根本から間違っているのは、こういう理由なのです。
マタイによる福音書に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(5・48)とあります。これが宗教では絶対にできないのです。神のように完全になることは、どうしてできるのでしょうか。この意味で、キリスト教の神父、牧師、信者は、全部偽善者です。親鸞のような正直な人間だったら、キリスト教にはいられないでしょう。
私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである。天の父の聖なるように、あなたがたも聖なる者になりなさいと言っている。これはキリストの命令なのです。できないのにキリストを信じると言っている。キリストを信じているつもりですけれど信じられませんというべきです。そう言えば聖霊に導いてもらえるのです。
日本のキリスト教はアメリカのキリスト教と同じことを言っているのです。白人社会のキリスト教が間違っているのです。間違ったキリスト教をそのまま日本に持ってきているのです。キリスト教を信じている以上、絶対に救われないのです。
キリスト教では、天の父の完全であるように、完全になることが不可能です。なぜ不可能かと言いますと、悔い改めていないからです。「悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・11)というイエスの第一声が、全然分かっていないのです。
「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」(文語訳)という汝らとは、キリスト教会をさしていないのです。ユダヤ人をさしているのです。口語訳ではあなた方という言葉を落としている。あなたがたという言葉があるかないかは、非常に大きなことなのです。
マタイによる福音書の第六章に、主の祈りがあります。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。私たちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(6・9~11)。
この文句はキリスト教信者なら誰でも知っていますが、内容は誰も知らないのです。神を父と呼べる民族はユダヤ人だけです。イエスはあなたがたはこのように祈りなさいと言っていますが、このあなたがたというのはユダヤ人をさしているのです。イエスはユダヤ人に福音を伝えるために来たのであって、異邦人に伝道するためではないのです。だから異邦人が息子を治してくださいと言ってきた時、断っているのです。
キリスト教はこれが分からないから困ったものです。山上の垂訓はどこまでもユダヤ人を相手にしているのです。
私はキリスト教を軽蔑します。なぜなら、キリストの名によって神に反抗しているからです。けしからんことをしているのです。ローマ法王を初めとして、十数億のキリスト教徒が神に反抗しているのです。だからキリスト教はひどく神に叱られるでしょう。キリスト再臨の直前に、第一に槍玉に上がるのがキリスト教です。裁きは神の家から始まると聖書に書いてあるからです。こういう所はキリスト教は一切勉強しないのです。
聖とは何かと言いますと、神の持ち前を言うのです。聖はギリシア語でハギオスと言います。これは清いという意味もありますが、驚くべきという意味が大変強いのです。驚くべきというのは、人間が考えられないことという意味です。人間が考えられない広さと深さを持っているのです。
神は驚くべきものです。驚くべきとはどういうことかと言いますと、人の心に思い浮かびもしなかったという意味です。パウロがコリント人への第一の手紙で言っていますが、神が愛するもののために備えられたことは、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかった」(2・9)ことなのです。これが聖なることです。
人の心に思い浮かびもしなかったことですから、人が信じることはできないはずです。人の心で想像ができることなら信じられます。人の心で想像ができないことを、どうして信じられるのでしょうか。これをイエスが指摘しているのです。
汝ら悔い改めて福音を信じよ。暗が満ちたとイエスが言ったのは、神がユダヤ人に与えた約束の時期が来ている。神の国がやってくる。だから悔い改めよと言っているのです。これをユダヤ人に対して言っているのです。
神は日本人を全然を相手にしていません。パウロは異邦人を相手に伝道をしていますが、それはユダヤ人がだめになったから神が全世界の人間を相手にするようになったのですけれど、イエスがこの地上にいた時には、異邦人を一切相手にしていなかったのです。
汝ら悔い改めて福音を信じよ。ユダヤ人さえ悔い改めたら、神の国はすぐに来ます。今でもそうなのです。ユダヤ人が悪かったと気がつけば、世界の政治状態、経済状態、社会状態は表するのです。汝ら悔い改めヤという言葉は、今でも通用するのです。世界を現在のような混乱状態に引き込んだのは、ユダヤ人です。ユダヤ人が悪いのは、神の約束を踏みにじっていることです。
キリスト教はイエスの名前を踏みにじっているのです。ヨハネによる福音書に、「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(1・12)とあります。これがキリスト教では分からないのです。
悔い改めよとは何か。自分の自をどう考えるかで決まるのです。白人社会では自分が救われることが一番大きい問題です。ところが自分の命を救いたいと思う者は、必ず滅ぼされるとイエスは言っているのです。
罪とはどういうことかと言いますと、自分が生きていると思っていること、自分が存在すると思っていることです。これが根本的な罪です。自分が存在すると思っている人は、その人の考えていることは全部間違っています。自分が生きていると思っている人は、自己中心に判断するに決まっているからです。
欲望はそこから発生するのです。欲はらみて罪を産み、罪はらみて死を産むとヤコブの手紙にあります(1・15)。なぜ欲がはらむのか。自分が生きていると思っているからです。 皆様の命は自分のものではありません。それを自分の命があると思っている。これが罪です。
命は神のものです。神のものである命を預かっているのです。私たちは神に生かされています。天にいます我らの父という意味が分かってきますいと、死んだことにならなのです。
心臓が動いていても、脳波が止まれば、人事不省になりますから、人間としての法律的な権利も義務もなくなるのです。脳波が問題です。脳波の正体が宗教では全然分かっていないのです。医学も知らないのです。実は、脳波と新約聖書は、大関係があるのです。聖書はそういうものです。
聖書をよく勉強すると、脳波が止まらなくなる可能性が見えてくるのです。脳波は皆様ご自身で造ったものではありませんし、自分で脳波を操縦することもできないのです。ただ一つのやり方は、新約聖書を信じて聖霊に満たされることです。これをしますと脳波のあり方が変わってくるのです。
皆様に必要なことは悔い改めるということです。悔い改めをしないままで、いくら聖書の勉強をしてもだめです。自分本位の聖書の解釈になってしまうからです。
イエス・キリストを信じるとはどうすることか。イエスは汝我におれと言っています。我におれというのは、英語でアバイド(avide)という言葉を使っています。アバイドとは住み込んでしまうことです。イエスの中に住み込んでしまうのです。住み込んでしまいますと、イエスの同居人になるのです。イエスの人格の中へ、皆様の人格が入り込んでしまうのです。これが悔い改めです。これがキリスト教ではできないのです。
自分が救われたいと思うことが、根本的に神をバカにしているのです。神は人間を救うために、イエス・キリストを使わしたのではありません。神の国を実現するためなのです。
自分の命が救われたいと思うものは、それを失うとイエスは断言しています。これが分からないために、自分が生きているままの状態で、聖書の勉強をしようと考えている。これが間違っているのです。
生きているのは皆様の目が見えること、耳が聞こえることですが、これが悪いというのではありません。五官の働きは悪くないのです。自分が生きているという気持ちのままで聖書の勉強をすることが、間違っているのです。自分が救われるという目的を持って聖書の勉強をすることが、間違っているのです。
宗教はすべて現世に生きている人間がそのままの状態で神や仏を信じるのです。悔い改めていないのです。固有名詞の自分が存在するという気持ちのままで、キリスト教を信じる。仏教を信じる。それがだめです。全部宗教になるのです。
イエスに同化すると、無限の平安が与えられるのです。どうしてイエスの中に入るか。御霊によって導かれ、御霊を崇めて聖書を読めば、聖書の言葉の一つ一つが、命になるのです。
命はみずからのものではありません。おのずからのものです。おのずからのものです。日本式にいえば、お天とうさんになるのです。天然のことです。天然の本体が神なのです。
皆様は天然自然によって生まれてきたのであって、この原則が皆様の命の根本です。聖書を学ぶというのは、天然自然を学ぶのです。聖書にある造り主とは、天然の主ということです。これが父なる神です。天然の主は創世記の幸二章、三章にはっきり書いていますが、その読み方が分からないのです。
マタイによる福音書に、「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(16・24)とあります。イエスについていくためには、まず自分を捨てよと言うのです。そして十字架を負うことが悔い改めです。これができないのです。
キリスト教は自分が救われたいと思うのです。そうではない、自分を捨てれば救われる。自分が消えてしまうのです。これが本当の救いです。
自分が救われたいという気持ちを捨ててしまっても、皆様の心臓は動いています。脳波も働いています。これがイエスです。
自分という思いを捨てても、五官の働きは消えません。自分はいないけれども五官の働きはあります。これがイエスが持っていた神の子としての命なのです。これが分かると初めて、聖書が自分のものになるのです。
このためにどうしても必要なことは般若心経の五薀皆空です。自分自身を空じるのです。
聖書には空じるという言葉はありませんが、パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように説きなさい。ギリシャ人にはギリシャ人のように説きなさいと言っています。従って日本人には日本人に分かるように説かなければいけないというのです。





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最終更新日  2011年06月24日 19時35分59秒
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