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カテゴリ:読書
凶天使(上・下) 野阿梓 ハヤカワ文庫
アラスジ:熾天使・セラフィは上帝より、時空の歪みの原因を探る命を受ける。美神・アフロディトが怒りに任せ引き起こそうとしていた最終戦争が、歪みの元と知る。そして、その怒りを静める為、諸因の端となった罪人・ジラフの探索を引き受ける事となった。ジラフ―“龍”はあらゆる手段で身を隠し、逃亡を図る。人間界深くへまで降りたって。至高の天界住人であるセラフィも、人的存在に受肉し、龍を追う。そして遂に、追い詰める。或る天才の思考の中に逃げ込んだ龍を。龍は“天才”の言葉を刺激し、天才は“龍”を言葉で操る。天才―稀代の言葉の錬金術師シェイクスピア。国家とは、愛とは、戦いとは。壮大なスケールで語られる、日本SF屈指の名作。 PCが使えなかった間も、読書だけは欠かさず。エッヘン って威張れる事じゃないっすね。単なる暇人って事なんで。 さて、今回は、先日のラルクのASIA LIVEのイメージキャラである龍に刺激されて、古い本を引っ張り出して読んでみた。 野阿 梓―のあ あずさ。 この名を知る人は、限られているのでは。 それなりのお年で、なかなかの好事家なら、名前くらいは聞いた事があるだろう。 SF好き、耽美好きな向きに、マニアックな人気がある(あった)作家だ。 名前の字面から連想されるのとは真逆の、かなりご立派な男性作家である。 『凶天使』は、その野阿氏の初期の傑作の一つ。 世に隠れた名作、だと思う。 世に容れられない名作、と言った方が良いか。 この本が出版された時、そのセンセーショナルな作風に注目があつまり、一部ではあったがかなり高い評価を得たと記憶している。 私の拙い粗筋では伝わり難いが、この本のスケールの大きさ、構想の複雑さには圧巻される。 “日本SF屈指の名作”と書いたが、個人的にではあるが、これは初読以来、今だ変わらず持ち続けている感慨である。 あ、嫌、何を以って“SF”と定義するかは難しいので、“日本幻想文学”と変えても良い。 そもそもカテゴライズするには難しい話なので、いっそ、枠を取っ払って“屈指の名作”と言おうか。 まぁ、それくらい深い思い入れと、高い評価をしている本だ。 なんせ、青春の1冊だものでw 萩尾望都と言う、少女漫画の巨匠の手による表紙・イラストからは想像もつかない、非常に骨太い構造と緻密な展開が、独自の哲学に貫かれて描かれている。 枝葉だけを見ると、美少年のてんこ盛りなお耽美小説のように見えるが、それを隠れ蓑にして描かれるのは、壮絶な争いと愛の物語だ。(まぁ、耽美なのは多分に野阿本人の趣味なんだろうけど) そのキーワードが“龍”。 龍とは何か。 野阿は、それを「国家」と定義する。 「国家とは、人間を人間的存在であらしめる為の絶対悪」だとも。 ジラフと言う天界の罪無き咎人が、存在そのものが罪状をしたためた令状である熾天使に追われる事で、罪は罪として形作られ、悪は悪として汚れを振りまく。 その過程ともたらした結果は、ひどく残酷だ。 そして、美しい。 “罪”は罪として認識された瞬間から、背徳の黒く甘い香りを発する。 だから、罪の告発と同時に罪そのものであるこの話が、汚れと美しさを併せ持っていても不思議は無い。 ジラフの逃れの最終段階を、人間の夢想に封じた展開には、驚かされた。 何と言う発想。何と言う絢爛たる罠。 二重三重に入れ子細工になった話は、ひたすら、読む者を魅惑し撹乱する。 しかも、器にされたのは、腐朽の名作であるあのシェイクスピア作品だ。 大胆かつ繊細な翻案がまた、度肝を抜く。 ハムレットだよ、ハムレット。 知らぬ者の方が少ない名作を、アッと驚く切り口で、原作以上の展開をさせてしまう豪腕に、ただだた圧倒されるばかり。 謎解きとして見ると、この本での解釈の方が、原作より勝って見えてしまうのだが、贔屓目過ぎるか。 と、ここで歯噛みしても、こんな空回りする感想文では千分、万分のイチも、その凄さは伝わらないだろう。悔しい。 ただ只管、“凄い物語である”と感嘆を繰り返す事しか出来ない。 闘いは愛だ。 恐らく、野阿はそう考えているのだと思う。 そうでなければ、こんなに美しい物語を書ける訳が無い。 装飾的で秀麗な文章も、彼の魅力の一つ。 迸る言葉の煌きと才知に、身を任せる愉悦。 また、知識や見識も見事なもので、奔放に転じる世界も基礎固めがなされているので、説得力を増す。 と、ここで最初に戻る。 屈指の名作であると、私は信じる。 だが、これが世に容れられぬ事も、判らなくない。 ここまで到達してしまった世界は、決して正統にはなれないから。 高みを目指せば目指すほど、それは異端に近づく。 そう、龍を追う狩人が、やがては龍なってしまうように。 野阿梓、書く事そのものが、己に対する絢爛たる罠になってしまう作家なのである。 千年帝国、龍が眠る平穏の時。 野阿氏は、近年、作家活動が途絶えている。 元々寡作な人だが、この数年、新作を拝んでいない。 自サイトをお持ちなのだが、他者の干渉を嫌い、掲示板は愚かカウンターすら排除すると言う、なかなかな御仁である。 そう、野阿梓その人も、龍―臥龍なのだと思う。 野阿さん、そろそろミレニアムの眠りから覚め、龍を解き放ちませんか? 狂おしい物語を、再びこの世界に。 私は待っている。ずっと。 いつもの事ではあるが、読んだ事の無い人には全く意味をなさぬ感想文だ。 さりとて、野阿文学に一言ある人からみたら、笑止な文でもあり。 全くの個人的な思い入れを綴っているので、お許しあれ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月02日 01時51分56秒
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