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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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ゆきよきの専門分野として
言語学・夏目漱石・日本史
を設定し、これらに関する勉強内容やコメントを書き綴ると共に、これら以外の事柄でも、日常的に考えたことを書き記す。


ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。
2018年03月19日
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カテゴリ:言語学
(5)言語はいわば使って創るが、言語規範は創って使うものである

 本稿では、言語とは何か、言語規範とは何か、これらの区別と連関はどのようなもので、そこに言語の意味という問題はどのように関わっているのか、といった問題について、言語規範ということを中心に展開してきました。

 ここでこれまでの展開を、大事な部分を中心に振り返っておきたいと思います。

 まず、言語規範とは何か、その言語との区別と連関は如何なるものかを明らかにするために、筆者の現時点での実力で規定した言語の仮説的一般論である「言語とは、人間が個別的・特殊的・一般的な共通の像を正確に描くために、規範を媒介とすることで、概念を音声や文字の類的創造として表現するものである」を提示して順次説明していきました。結論から言えば、言語は表現であって、言語規範は認識の一形態であるということでした。もう少し具体的には、言語は認識を表現した音声や文字それ自体であって、言語規範は、観念的に対象化された意志である規範の一種であって、規範というものは、自らの行動を規定する、あるいは自らに命令する役割を果たすものであることを説きました。その上で、言語規範は個人の頭の中にあって、ある特定の認識の表現には特定の文字や音声を使わなければならないという、また逆に、ある特定の文字や音声を受け取ったら特定の認識を思い浮かべなければならないという、客観的な約束事で、「共通の像を正確に描くために」は、必然的に社会的な性格をもつものだと説明していきました。

 次に、規範一般のあり方を突っ込んで検討していきました。そして、規範というものが個人の独自の意志に対立する、社会的な客観的な意志であって、個人の独自の意志が常に変転しているものであるのに比べて、規範が一定の期間については変化しないもの、固定化されたものであること、また、個人の頭の中で、社会的な・客観的な・意志と個人的な・主観的な・意志とが二重化する形で併存していることを明らかにしました。規範は個人の頭の中に存在していて、個人の独自の意志を規定したり制限したりすることになるのでした。その上で、言語規範とは何かをより構造に分け入って検討していきました。言語として表現される認識と言語規範という認識とは、関係はあるが別個の存在であり、言語として表現される認識は個々の言語が成立する直前に認識として成立する、いわば生きた・個人的・具体的・認識ですが、言語規範という認識は、特定の認識と特定の音声や文字を結びつける約束事として成立している、対象化された・社会的・抽象的・認識だということを明らかにしました。言語表現に際しては、言語の直接の基盤となる認識と言語規範との概念の二重化が現れてくるのであって、言語の直接の基盤となる認識は言語規範を媒介として初めて表現されるものであるという、両者の関係を説きました。

 最後に、言語の意味について考察していきました。まず、言語規範が規定する特定の認識と特定の音声や文字との結びつきを、誰の目にも見える形で表したものが辞書であることを確認しました。その上で、言語表現をする際の頭の中の概念の二重化の問題と言語の意味の問題を繋げて考察したのでした。すなわち、辞書が規定する言語の意味というのは、対象化された・社会的・抽象的・認識を表したものであるのに対して、言語の意味というのは、いわば生きた・個人的・具体的・認識に関係するものであって、両者は別のものだということでした。そして、辞書的な意味を言語の意味から区別するために意義と呼ぶこととし、言語の意味は意義を中心とした一定の幅を持っていることを説きました。

 以上振り返った内容を改めて本稿の目的に照らして結論として述べるなら、言語規範とは、特定の認識と特定の音声や文字を結びつける約束事として成立している、対象化された・社会的・抽象的・認識であり、言語の直接の基盤となる認識はこの言語規範を媒介として言語として創出されるものだということになります。ですから、言語の意味といった場合、それは辞書に記載されてある抽象的な内容にとどまらず、その時々の表現者の頭の中にあるいわば生きた・個人的・具体的・認識に大きく関係しているものとして把握しなければならないということになります。

 ここで言語と言語規範との関係について、それらの過程的構造に分け入ってさらに突っ込んで考えてみましょう。

 人間の系統発生において言語が成立するためには、必ず言語規範が存在しなければなりません。これは言語が超感性的な認識である概念を感性的なあり方として表現しなければならない、という矛盾を実現するとともに解決する手段として、人間が生み出した独自の形態なのです。言語の歴史的な創出は、直接言語規範の歴史的な創出でもあるわけです。

 では、こうした言語や言語規範というものは、人間の個体発生においてはどのように創出されるのでしょうか。ここでまず問題にしなければならないことは、言語は使うものではなくて創るものだということです。本稿は言語規範とは何かを説くことを中心にしていますので、詳細は別稿でということになりますが、簡単にいえば、言語は表現であるわけですから、「使う」というのではなくて「創る」というのが正しいことになります。これは表現の一種である絵画の例で考えていただければ納得してもらえるでしょう。絵画を描くというのは、「創る」ことであって、決して「使う」ことではないからです。

 さて、では言語と言語規範が人間の個体発生においてどのように創出されるのかという問題に戻ります。人間は言語規範なしで言語を操ることはできないわけですから、論理的にいえば、言語よりも先に言語規範が創られることになります。そこでまず、言語規範がどのように創られるかを見てみると、それは赤ちゃんのころから親をはじめとする大人たちの発音を聞き、音声の模倣を繰り返す過程で、社会的な約束である規範を抽象し固定化し、観念的に対象化することを通じて、です。いわば他の人間の言語を使って自らの頭の中に言語規範を創るのだと言えるわけです。一方で言語が創られる過程はどのように捉えることができるでしょうか。それは自らの認識を他の人間に伝えるべく、この創り上げた言語規範を使って、様々な言語表現を行う、ということになります。ここでは、言語規範を使って言語を創っていくということになります。

 このことを別の角度から言えば、言語はいわば使って創るが、言語規範は創って使うものだということになるでしょう。すなわち、人間の成長過程においては、初めは言語を使って言語規範を創るという側面が積極面であったものの、成長するにつれて徐々に言語規範を使って言語を創るという側面が大きくなっていくということです。ただ、本来的な機能としては、言語は創出するもの、言語規範は使用するものであって、この2つの過程は直接的同一性であると言えます。

 言語と言語規範は密接に結びついたものであるとはいえ、相対的に独立したものです。言語規範は言語を使用することで創出され、そうして創出された言語規範に言語が規定されるとはいえ、一定の範囲内で言語は自由に創出することができる(言語の意味は意義を中心にある程度の幅を持つ)し、ここから新たな言語規範も生まれてくる(言語の意味の中心である意義の場所の移動)という相互浸透も発展していきます。また、一定の範囲内で言語を自由に創出することができるからこそ、言語を媒介とした人間の認識の発展も可能となっていく(言語の意味を意義に解消するのでは文化遺産の発展的継承の過程が説けない!)のです。

 科学的弁証法を確立したエンゲルスも、以下のように、言語の意味が発展していくこと、言語は創出していくものであることを明快に述べています。

「とはいえ、われわれが読者にたいして取りのぞいておくことができなかった困難が一つある。すなわち、ある種の用語を、それらが日常生活で用いられている意味と異なるばかりでなく、普通の経済学で用いられている意味とも異なる意味に使用していることがそれである。しかしこれは避けられないことであった。科学上の新しい見地は、いずれも、その科学の術語における革命を含んでいる。」(マルクス『資本論1』編集者の序言〔英語版への〕、新日本出版社、p.41)


 こうして考えてみると、言語は人間が共通の像を描けるようにするという目的のために創出されたとはいえ、その目的を遥かに超えた大きな役割を人類史上に果たしていると言えるでしょう。言語を媒介とした認識の相互浸透なしには、人間の精神的な交通を可能とする言語なくしては、人類は文化遺産を継承することもまして発展させることも不可能だったのです。学問の発展を支えるとともに、それ自体学問であるところの科学的言語学を構築し、言語に関する諸々の問題を解決していくことこそ筆者の人生の目的です。本稿で明らかにできた問題以上の困難がこの先待ち受けていますが、この険しい道を京都弁証法認識論研究会とともに歩んでいく決意を述べて、本稿を終えたいと思います。

(了)





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最終更新日  2018年03月19日 10時15分47秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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