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ゆきよきの専門分野として
言語学・夏目漱石・日本史 を設定し、これらに関する勉強内容やコメントを書き綴ると共に、これら以外の事柄でも、日常的に考えたことを書き記す。 ゆきよきの戯言 [全139件]
最近、娘の食べ物の好き嫌いがはっきりしてきた。はっきりさせてしまったというべきか。 具体的に言うと、ご飯(米)をあまり食べたがらない。わたしの影響か、脂っこい物とか、チーズとか漬けものとか、ビールによく合う食べ物が好きだし、嫁さんに似てか、喫茶店で出てくるピーナッツ等の豆も大好物だ。豆つながりで納豆も大好きだ。あとは、誰に似たのか、シイタケ等のキノコ類にも目がない。 人間の実体をつくる食べ物は非常に重要であり、バランスの良い食事が、バランスの良い体を作る。そこで今日の夕食で、いつものように最後まで残していたご飯(米)を食べさせるために、娘の認識に働きかけてみようと思った。 おいしそうにご飯(米)を食べて見せてみたり、真剣な顔でちゃんと食べるように促してみたりいろいろしてみた。少しはほおばったが、すぐにイヤイヤをした。娘の脳細胞に描かれている像を「見る」のはかなり困難な仕事だ。 ちなみに、嫁さんはというと、ちょうどその時テレビでやっていた山姥(やまんば)を引き合いに出して、「ご飯をちゃんと食べないと、山姥みたいになるよ。こわいこわいよ。お肌もボロボロになってかゆいかゆいよ。」とか言っていた。山姥やお肌ボロボロの像はまだ娘には描けないと思うのだが。
自分の妻や彼女のことをどう呼ぶかということについて考えてみる。私の場合は、妻のことを固有名詞で呼ぶ。但し、これは別に3人称ではないと思う。というのは、私の友人で彼女のことを3人称で呼ぶのはどうも違和感がある、というものがあり、自分は「お前」と呼んでいると主張する者がいるからだ。 そもそも人称というのは、話し手とその対象について、1.話し手と話し手自身との関係2.話し手と聞き手との関係3.話し手と話に扱われる人間との関係、のいずれかであり、それぞれを1人称、2人称、3人称という。 例 1.私は毎日電車で通勤しています。 2.君はどう思いますか。 3.彼は何故怒っているのですか。 固有名詞を使うとき、その話し手が対象をどのように認識しているかによって、何人称として使っているかは変わってくる。課長と一緒に昼ご飯を食べているときに、「鈴木君は今困っていることはないかね。」といわれた場合、この「鈴木君」は2の2人称として用いている。「鈴木君」の代わりに「君」と表現しても中身は同じになる。 同じ状況でも「伊藤君は何故あんなに怒っていたのかね。」とそこにはいない、別の対象を取り上げる場合、この「伊藤君」は3の3人称で、「彼」と表現しても同じ内容になる。 おそらく、私の友人の中では、彼女のことを名前そのもので呼んだりすると、上の例の後者のような感覚がして、どこかよそよそしい感じがするので、「お前」と呼ぶのだと思う。 一般的に言えることは、代名詞や固有名詞はそれぞれ転用されると言うことだ。 己の行為を恥じる。(1人称)/己にっくき奴。(2人称) 鈴木はなぜあんなに怒っていたのだろ。(3人称)/鈴木はただいまから外出します。(1人称) また、代名詞は感情や意志などを客体として扱うことなく直接に表現する品詞に転用されることもある。 これ、そんなことをしてはいかん。 それ、出撃だ。 あれ、なんてことだ。 彼女や奥さんをどう呼ぶかというのは、呼びかける主体である自分の感覚(言語規範)の問題でもあるし、呼びかけられる対象である、彼女や奥さんの感覚(言語規範)の問題もある。「お前」とは言われたくない、と言う相手に、なかなか「お前」とは言い続けられないし、私の友人ももし相手がこういう感覚(言語規範)の持ち主なら、その影響できっと名前か何かで呼ぶようになるだろう。 言語規範というのは、小社会たる家庭で作られる。逆の側面でいえば、意識的な言語による教育の側面も出てくる。反抗的な息子に対して父親が以下のようにいうとき、言語によるしつけを行っていることになる。 貴様にはお父さんのこの苦しみが分らぬのか。 言語規範が小社会の像たる家庭内の認識に規定されることは私の経験が実証している。 私と私の妻と 妻の両親で会話をしていたときのことである。私の妻が両親に向かって私の話をしているとき、私のことを「旦那」と表現するのである。目の前に「旦那」である私がいるところ、その私を指示して「旦那」と表現するのはいかにも異な感じがしていたが、妻の母親が自分の夫を指示してやはり「旦那」と表現したから納得した。これが相互浸透であり、ここに教育の重要性がある。 ちなみにその時の会話は概要以下のようなものであった。 妻:ウチの旦那なんかベロベロに酔っぱらって、電車乗り過ごして、終点からタクシーで帰ってくるんやで〜。何考えとんね。そのくせ、こまめに電気消せ、とか言いよんねん。どっちがもったいないねん。 母:まあまあ、Tさん(私のこと)はいいがね。ウチの旦那なんて、ちょっと飲んだだけですぐに顔赤くしてよっぱっらってまうんよ。飲めんのに、まー今日もTさんといると頑張って飲んでまうんやから。 なお、配置はというと、2人ずつが向かい合う4人掛けのテーブルで、私の左に妻、正面にお母さん、斜向かいにお父さんという配置である。
本田克也・浅野昌充・神庭純子『統計学という名の魔法の杖』(現代社白鳳選書)を読んだ。 統計学という名の魔法の杖 統計学の歴史を辿りながら、統計学がどういうものか、統計学でどういうことができるのかを解りやすく説いている。 統計学というのは、その完成した姿でもともと存在していたものではなく、また、統計学者というものがいて、彼らが作ってきたものではない。統計学は、天文学や生物学、経済学等の研究を通じて、膨大な量のデータを集計し、集約し、整理するために生み出されてきたものである。 その発展の大きない礎を築いたのが、ガウスによる正規分布の発見であった。どんなものでも、無数といえるほどの数を集めると、その分布は釣り鐘状の正規分布になる。この発見こそ、森羅万象を貫く弁証法性に理論的に支えられたこの正規分布の発見こそ、統計学を安心して適用できる大きな根拠となっている。 ただ、巷に溢れる統計学のテキストは、複雑な数式の適用をひたすら練習したりするものばかりで、そもそも統計学とはどういうものか、という問いには全く触れられていない。統計学的な手法を自らの研究に適用する際に、もっとも注意すべき点は、自らの研究の対象の中から、いかにして全体を代表するようなデータを選び出すかということである。自らの研究対象について研鑽し、精通していなければ、大きな落とし穴に陥ることになる。如何に統計学的手法や計算方法に精通していようとも、そもそも標本となるデータからどのような結果を導き出したいのか、その仮説が正しいものと証明できるだけのデータを集め、正しい手法を用いられているのか、このこと抜きには統計学を魔法の杖とすることはできない。 現在の社会は、すぐに結果を出すことに大きな評価を与える傾向にある。逆に言えば、過程はどうでもいいが、結果さえそれなりのものがでていればそれでいいという風潮があるように思う。自分の仕事でも政治の世界でも、結果こそが重要であり、しかもすぐに結果を出さなければならない。これでは、本書で説かれている、自らが歴史の発展を辿り、物事の本質、弁証法性を理解して全体から物事を考えていくような態度はほとんど価値を与えられない。 自分の目標や人生のあり方をもう一度見直してみるきっかけともなった書物であった。
星野ジャパンが北京オリンピック出場を決めた。 昨日の采配、岩瀬の酷使はどうかと思ったが、今日のサブローのスクイズはなかなかだった。まあ、勢いの采配だなと思った。 落合なら岩瀬は酷使しないし、サブローのスクイズまでにもっと驚くサプライズで既に主導権を握っていたかもしれない。 眼鏡を買った。コンタクトの調子が悪くて、1年間の保証期間中だったので無料交換をと思って眼科に行ったが、右目の角膜が下の方に傷があって治療してからでしか新しいコンタクトを呉れないという。仕方がないので治療用の目薬をもらって、違う店で眼鏡を買った。その店で私一人で眼鏡を選んで買っても良かったのだが、嫁さんにセンスが無いだのなんだの言われるのが嫌で嫁さんと一緒に選びに行ったのだ。なかなか良いものが買えて私も満足である。 仕事の同期が新婚旅行から帰ってきた。何で眼鏡なん、と聞かれたので目の病気だと応えておいた。返す刀でそういえばお土産は、と聞くと何がいい、紅茶でいい、と聞くので紅茶は飲めんし別のもので、と言ったが、紅茶しかないし、と返してくる。じゃあ、何で何が良いと聞くのだ。まあ、丁寧にお礼を言って受け取って帰ってきた。 最近、娘がお風呂で上機嫌だ。但し、お風呂の縁を掴んでいるときに限る。お風呂の中央で手が届かないようにすると途端に不安そうに泣きそうになる。ちょっと前に冗談で顔まで湯につけてからかって、あわわあわわとなるのを楽しんでいたのが原因か。 昨日書こうと思ったことがなかなか思い出せない。仕方なくとりとめもないことを書いてしまった。こうしている間にも私に捕まって絡んでくる娘もいることだし、嫁さんもお風呂をあがったようなのでこの辺で。
明後日は私の30歳の誕生日である。あいにく月曜日なので、今日早めのお祝いを嫁さんにしてもらった。ところがである・・・ 朝ご飯に納豆をといてもらって、そこに卵を入れてもらった。かんかん卵を割っている音が聞こえてきたが、突然「わっ!」という叫び声。何かと思って見てみると、お椀にではなく、キッチンの上に卵を落としている。なんて鈍くさい。 お昼ご飯は、お祝いということで私の大好きなラーメンを食べに行った。途中でコンビニによって再び車に乗り込んだとき、先に車に戻っていた嫁さんの様子がおかしい。何かと思ってみてみると、「ジーパンが破れた・・・」と苦笑い。ネットで買っって初めてはいたジーパンである。車に乗り込んだはずみでおしりのところがザックリ破れている。 今日はまだまだある。ラーメンの帰り道、運転してもらっていたのだが、道に迷って行きの倍ほどかかって家に着いた。破れたジーパンを履き替えて珈琲屋へ。その帰りにコンビニでビールを買うことにしたのだが、ビールを床に落とすは、財布を車に忘れてくるは散々である。 家に帰って娘のオムツを替えているときに、誤って娘のアタマを床にゴン。ビールの二の舞である。 たいがい使えない嫁さん。ビール飲みながら野球でも見て気を落ちつけるか。
前述の勉強会を水曜日に行った。 端的に感想を述べれば、古代ギリシャの論争をしているような感想だった。あんまり通じない。わたし自身の問題でもあるが。 相手は現象的な問題にとらわれて、私の伝えようとしていることはあまり伝わっていない感じがした。例えば、『育児の認識学』で認識を変えるためにどうするかという問題で、実体に働きかけて変えるのか認識に働きかけて変えるのか、という問題があったが、保育士をしているメンバーの感想が、「私は後者(認識に働きかけて変えるパターン)で良かった」というもの。私はその人がそうだとはわんまり思わないのだが。 結局、自分のレベルを上げるための勉強会であると位置づけると、「こんなレベルの奴らとやっていては話にならん。」で終わってしまう。こんなレベルの奴らこそ、何とかして少なくても自分のレベルまで、自分とまともに話せるレベルまで持って行くことが自分の役割である、と考えて勉強会を運営していくことが当面の課題だと考えるしかないと結論した。 この結論が正しいかどうかは分からない。しかし、この方向でしばらくやってみようと思う。自分一人でやっていくよりはまだ発展の可能性があると思うから。
職場でサークル的なものを作って勉強会をすることになった。 テーマは特に決めず、順番に自分の好きなテーマについて調べてきてみんなの前で発表、報告して、その後討論するような形式で運営することを決めた。とは言っても、最初の3回は中心メンバーで予めテーマを決めていて、この勉強会が軌道に乗ってきたら他のメンバーにも講師をお願いしようと内々には思っている。 私もその中心メンバーの一人で、他の中心メンバーの半ば強引な説得によって、第2回目に「宗教」をテーマに発表することになっている。さて、どこから話を展開していけばよいのか。 実は私はこの勉強会で、表向きの目的以外にも私独自の目的を持っている。私の勉強している三浦さんを始めとする方々を一緒に学べる人を探し出す、より正確には一緒に学べる人を作り出すことである。そのためには、内容面で単に宗教の話をしてもダメである。認識論の全体像から観念的二重化へ、話を上手く展開しなければならない。当然レジュメの段階から相当練ったものを検討しなければならない。 プレゼンのやり方も形式的にとても重要である。誰にでもわかりやすい話の持って行き方、導入や結論のあり方、余談的なものの取り入れ方等、これも十分に準備しておかなければならない。 今の段階では、『弁証法はどういう科学か』の対立物の相互浸透のところを中心に構成しようと思っている。「宗教」について、その本質的な部分やこれだけは語らなくてはならないことなどあれば、是非この文章をお読みになったかたのご意見をお伺いしたい。
今日仕事でエクセルのマクロを組んだ。 毎月月末のデータを統計として記録しておくのだが、様々なデータをエクセルの様式に手打ちで入力していくのが従前のやり方である。とても時間がかかって非効率な感じがしていたところ、偶然職場の先輩からマクロの話を聞いて、これは統計の事務に使えるのではと思い、1ヶ月くらいかけて入門書を読みつつ少しずつ練習していた。今日はその経験を実際の仕事に使ってみたのである。 マクロを記述するのはこれまたとても時間がかかる。しかし、一度記述してしまえば汎用性があり、例えば毎月毎月の統計の手入力が、エクセルのシートに貼り付けたボタンを1回クリックするだけで終了してしまう。もちろん、入力のもとになるデータがcsv形式等でエクセルにおとせるという条件が必要であるが。 データを直接入力するというあり方を一度否定して、マクロというあり方で物事を進めて、最後にこのあり方をもう一度否定してデータ入力のあり方に戻す。回り道をすることで、それまで不可能であったこと(この場合ごく短時間で入力を完成すること)が可能になる。 常に回り道を探して、不可能に思えることを可能にすることを考える。否定の否定という法則を探して実践することの重要性である。 「やりかた考えかたが壁にぶつかったとき、立ち止まってしまったり投げだしてしまったりするな、まわりみちをどう工夫したらいいかと全力をふりしぼってやってみるがいい、かならず道が発見できるだろう」(『弁証法はどういう科学か』p.239)
娘がぎこちないながらハイハイできるようになってきた。 始めのうちはちょっとバックできるくらいだったのが、徐々に本格的にバックできるようになってきた。そしてこの頃では匍匐前進のように前に進めるようになってきたのである。 特にテレビのリモコンがお気に入りとみえて、リモコン目指してずんずん進むのである。その様子は親ながらほんとに可愛いものである。脇をきゅっと締めておしりをモッとあげる。イスラム教のお祈りのような体勢になったら、そこから何とか腕や足の力で前進するのである。やっとの思いでリモコンのところまで来たら、意地悪な親がまた別の遠いところにリモコンを置く。めげずに方向転換してまたずんずん進む。何ともけなげだ。 嫁さんもメールでママ友とハイハイの話題を話しているらしい。私が仕事を終わると、いつも嫁さんに「今から帰るわ」とメールするのだが、今まで「はーい」だった返事が「ハイハイ」という、何ともやる気のない返事になっている今日この頃である。
随分ご無沙汰になった。仕事も忙しいし、それ以外も何か忙しいし、行き帰りの電車と朝職場に着いてから30分ほど勉強してるので、金曜日にもなると結構くたくたである。 さて、4月のブログの続きである。いい人揃いの職場であるが、なんかちょっとおかしい。凄く小さい声で話して全然理解できていないのに一人で笑ったりする。こっちも笑うしかない。ほかにも、人の顔を見て話そうとしない、人の話を遮って途中で割り込んで話し出す、ニコニコしていたのに急に真顔でキツイ口調になる、等々。 この現象形態の背後にある認識を徐々にであるが掴んできた。今回はとりあえず思ったことをひとつだけ述べると、自分に自信がある人々だ、ということだ。相手の立場、認識をあまり考慮していないとも言えると思う。 ただし、前に書いたとおり、いい人であることは間違いないし、それがたまに歪んで現象しているのだと思う。膨大な仕事量という現実が認識を歪めている面があるように思う。 |一覧| |
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