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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2014年03月11日
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カテゴリ:言語学
〈目次〉

(1)言語規範とはどういうものか、その言語との区別と連関を問う
(2)言語は表現であり、言語規範は認識である
(3)言語の直接の基盤となる認識と言語規範との概念の二重化、及び両者の連関を問う
(4)言語道具説は言語をどのように把握するか
(5)言語はいわば使って創るが、言語規範は創って使うものである


---------------

(1)言語規範とはどういうものか、その言語との区別と連関を問う

 この世界では毎日のように様々な出来事が起こっています。大地震が起こることもあれば犯罪のような事件が起こることもあります。また、新しい技術が発見されたり、新しい理論が創りだされ、それらが論文や単行本の形で発表されたりもしています。こうした様々な出来事は、新聞などの報道で知ることができます。

 皆さんは新聞を毎日読んでいるでしょうか。新聞紙上では、こうした毎日のように起こる様々な事件やニュースを伝えています。先月まではソチオリンピックの話題でもちきりとなり、最近ではNHK会長の話題やウクライナ情勢が毎日のように報道され、また、3年前には東日本大震災関連のニュースとして、非常時における日本人の礼儀正しさが大きく取り上げられたことは、いまだに鮮明に記憶に残っています。

 こうした新聞の報道では、写真や図解を用いた感性的な表現ももちろん用いられてはいますが、何といっても中心的役割を果たしているのは言葉による表現です。新聞記者は事件やニュースの事実を正確に伝えようとするとともに、それらの出来事に関わっての記者自身の見解やその他の関係者の意見などについても、読者に事の真相をできるだけ豊かなイメージを持って理解してもらえるよう工夫しながら、言葉によって表現していくのです。一方読者の側では、新聞に記載された言葉を通じて事実を把握するように努め、また、様々な意見に「耳を傾ける」ことで現実の世界に起きている出来事を深く理解しようとするのです。

 こうした言葉の役割は、一言でいえば「コミュニケーションの手段」ということになるでしょう。もう少し過程的構造に分け入って説明すれば、ある人が思い描いているアタマの中の思いやイメージを別の人のアタマの中に再現するために、言葉=言語という形にその思いやイメージを託すことによって、その言葉=言語を目にしたり聞いたりした別の人が、それを表現した人と同じような思いやイメージを自らのアタマの中に創り直すことができることこそが、言葉=言語の大きな機能だということになります。

 言語の役割、言語の機能をこのように捉えるならば、言語を書く、あるいは言語を発することの目的も明らかになってきます。つまり、上に述べたような言語の役割や機能を利用することによって、自らの思いやイメージを別の人間に伝えることが言語の目的である、ということになります。

 ところが、この言語の目的は必ずしもきっちりと達成されているとは言えません。世の中には曖昧な表現が沢山ありますし、間違った言葉遣いもあります。こうした表現にあっては、表現者とその受け手が共通の思いやイメージをアタマの中に描くことができず、言語の目的は達成されないというべきでしょう。

 ここで取り上げてみたいのは、中日新聞に連載されている町田健氏による「現代日本誤百科」という連載です。

 町田氏はソシュール研究で著名な言語研究者で、テレビ番組に出演するなどの有名人です。町田氏はこの連載で、間違った使い方の日本語を取り上げ、それを正していくという作業を900回以上も継続しておられます。しかし、その説明には首を傾げざるを得ないものも少なくありません。一見してどこが間違っているのか分からないようなごく普通の日本語が「日本誤」だというので、その中身を読んでいっても、どうもよく分からないという場合が多いのです。

 例えば、最近各国間の交渉が難航しているTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関する表現として、「聖域なき関税撤廃」というものを目にされたり耳にされたりした読者の方も多いかと思いますが、この「聖域なき関税撤廃」という表現は「日本誤」だと町田氏は主張するのです。町田氏によると、「聖域」は神聖なもので容易に変わりうる不安定なものであることはできないので、交渉中にいくらでも変化がありうる品目の領域に使うことはできない、ということであるそうです。皆さんはこの見解をどう思われますか。その通りだ! と思われますか。それとも、何かおかしい気もするが…、と思われますか。

 町田氏はこの他にも、「白星スタートを切る」「提案をもちかけてきた」「技の思い切りがいい」「風を巻き起こす」などの表現を「日本誤」だとして、それぞれ別の言い方にすべきだと主張しておられます。これらについても皆さんはどう思われるでしょうか。

 町田氏のこうした見解は、結論的に言えば、言語を出来上がった「道具」として把握し、コミュニケーションにおいてこの「道具」をいかに正しく利用するのかという観点で、言語を把握しているのです。言語の意味を固定化して形而上学的に捉え、言語の用い方を正しいか誤用(*)かとこれまた形而上学的に判定します。こうした言語の捉え方を言語道具説といいます。

 本稿では、こうした言語道具説の実態を明らかにするとともに、その弱点をも明確に指摘したいと思っています。具体的には、科学的言語理論である言語過程説との対比を通して、言語規範とは何か、言語と言語規範の区別と連関は如何なるものかということを考察していきます。ここでなぜ言語規範とは何か、その言語との区別と連関は如何なるものかを考察することを媒介として言語道具説を批判するのかといえば、言語道具説の根本的弱点にこの言語規範の問題が大きく関わっているからです。

 この言語規範の問題を解決することで、自らの思いやイメージを別の人間に伝えるという言語の目的を全うに達成できるよう、次回以降具体的に説明していきたいと思います。まず次回は言語とは何か、言語規範とは何かを一般的に明らかにしたいと思います。そして連載第3回では、言語と言語規範との関係について、規範一般のあり方から説明したいと思います。連載第4回では、言語道具説の言語の捉え方、その欠陥を具体的に説いていきたいと思います。最後に連載第5回では、これまでの議論のまとめをした後、言語道具説を克服することを通して、真の科学的言語学を構築していく意義などを考察していきたいと考えています。

(*)言語の意味には辞書的な意義が中心に含まれていて、この意義を含めて認識を表現した時の個別の特殊な意味が言語には関係づけられています。だから、言語の意味はある程度の幅を持ったものだと捉えなければなりません。言語の意味をあれかこれかと形而上学的に考えるのは言語道具説の誤謬であって、徐々に辞書的な意義から外れていって、ついにその程度が量質転化した場合、これを言語の誤用というのです。言語の意味と意義の関係については、連載第4回に詳述する予定です。





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最終更新日  2014年03月11日 09時53分34秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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