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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2014年03月15日
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カテゴリ:言語学
(5)言語はいわば使って創るが、言語規範は創って使うものである

 本稿では、言語道具説を批判するために、言語道具説の弱点が端的に表れている言語規範とは何か、その言語との区別と連関は如何なるものか、という問題について、科学的言語理論である言語過程説と言語道具説を対比させる形で検討してきました。

 ここでこれまでの展開を、大事な部分を中心に振り返っておきたいと思います。

 まず、言語規範とは何か、その言語との区別と連関は如何なるものかを明らかにするために、筆者の現時点での実力で規定した言語の仮説的一般論である「言語とは、人間が精神的な交通を可能にするために、社会的認識に基づく音声や文字を用いて行う表現である。」を提示して順次説明していきました。結論から言えば、言語は表現であって、言語規範は認識の一形態であるということでした。もう少し具体的には、言語は認識を表現した音声や文字自体であって、言語規範は、観念的に対象化された意志である規範の一種であって、規範というものは、自らの行動を規定する、あるいは自らに命令する役割を果たすものであることを説きました。その上で、言語規範は個人のアタマの中にあって、ある特定の認識の表現には特定の文字や音声を使わなければならないという、また逆に、ある特定の文字や音声を受け取ったら特定の認識を思い浮かべなければならないという、客観的な約束事で、「人間が精神的な交通を可能にするために」は、必然的に社会的な性格をもつものだと説明していきました。

 次に、規範一般のあり方を突っ込んで検討していきました。そして、規範というものが個人の独自の意志に対立する、社会的な客観的な意志であって、個人の独自の意志が常に変転しているものであるのに比べて、規範が一定の期間については変化しないもの、固定化されたものであること、また、個人のアタマの中で、社会的な・客観的な・意志と個人的な・主観的な・意志とが二重化する形で併存していることを明らかにしました。規範は個人のアタマの中に存在していて、個人の独自の意志を規定したり制限したりすることになるのでした。その上で、言語規範とは何かをヨリ構造に分け入って検討していきました。言語として表現される認識と言語規範という認識とは、関係はあるが別個の存在であり、言語として表現される認識は個々の言語が成立する直前に認識として成立する、いわば生きた・個人的・具体的・認識ですが、言語規範という認識は、特定の認識と特定の音声や文字を結びつける約束事として成立している、対象化された・社会的・抽象的・認識だということを明らかにしました。言語表現に際しては、言語の直接の基盤となる認識と言語規範との概念の二重化が現れてくるのであって、言語の直接の基盤となる認識は言語規範を媒介して初めて表現されるものであるという、両者の関係を説きました。

 最後に、言語道具説はどういうものか、言語をどのように把握するのかを言語過程説との対比で明らかにしました。言語過程説では、対象を把握した認識が言語規範を媒介して表現されたものが言語であると捉えるのに対して、言語道具説では、アタマの中の辞書から個々の出来上がった言語を取り出してそれらを文章として意味が通るように並び替えると捉えるのです。つまり、言語道具説では言語規範を言語だと把握するのでした。こうした言語道具説の実態を明らかにした上で、言語道具説の欠陥について述べました。端的には、言語道具説は言語の目的である「精神的な交通を可能にする」ことを大きく阻害するような、言語の意味の誤った捉え方をしてしまうということでした。言語表現の過程における対象を論理的に無視すること、別の角度から言えば、言語の直接の基盤となる認識と言語規範との立体的な媒介関係を把握できず、言語規範が形を整えて表現されると平面的に捉えることで、対象の把握の仕方が言語に反映される事実、意義のほかにもヨリ豊かな意味が言語には関連付けられている事実が正確に把握できないのでした。

 以上振り返った内容を改めて本稿の目的に照らして結論として述べるなら、言語規範とは、特定の認識と特定の音声や文字を結びつける約束事として成立している、対象化された・社会的・抽象的・認識であり、言語の直接の基盤となる認識はこの言語規範を媒介して言語として創出されるものだということになります。また、言語道具説とは、言語規範を言語だと誤って把握することで、対象を言語表現の過程的構造から追いやり、言語表現の過程における認識の立体的な構造を理解することができない結果、言語の目的である「精神的な交通を可能にする」ことを大きく阻害してしまうことになるのだ、ということでした。

 ここで言語と言語規範との関係について、それらの過程的構造に分け入ってさらに突っ込んで考えてみましょう。

 人間の系統発生において言語が成立するためには、必ず言語規範が存在しなければなりません。これは言語が超感性的な認識を感性的なあり方として表現しなければならない、という矛盾を実現するとともに解決する手段として、人間が生み出した独自の形態なのです。言語の歴史的な創出は、直接言語規範の歴史的な創出でもあるわけです。

 では、こうした言語規範というものは、人間の個体発生においてはどのように創出されるのでしょうか。それは赤ちゃんのころから親をはじめとする大人たちの発音を聞き、音声の模倣を繰り返す過程で、社会的な約束である規範を抽象し固定化し、観念的に対象化することを通じて、です。いわば他の人間の言語を使って自らのアタマの中に言語規範を創るのです。一方で人間は大きくなるにつれて、今度はこの創り上げた言語規範を使って、様々な言語表現を行い、自らの認識を他の人間に伝えていくことになります。ここでは、言語規範を使って言語を創っていくということになります。

 このことを別の角度から言えば、言語はいわば使って創るが、言語規範は創って使うものだということになるでしょう。すなわち、人間の成長過程においては、初めは言語を使って言語規範を創るという側面が積極面であったものの、成長するにつれて徐々に言語規範を使って言語を創るという側面が大きくなっていくということです。ただ、本来的な機能としては、言語は創出するもの、言語規範は使用するものであって、この2つの過程は直接的同一性であると言えます。

 言語と言語規範は密接に結びついたものであるとはいえ、相対的に独立したものです。言語規範は言語を使用することで創出され、そうして創出された言語規範に言語が規定されるとはいえ、一定の範囲内で言語は自由に創出することができる(言語の意味は意義を中心にある程度の幅を持つ)し、ここから新たな言語規範も生まれてくる(言語の意味の中心である意義の場所の移動)という相互浸透も発展していきます。また、一定の範囲内で言語を自由に創出することができるからこそ、言語を媒介した人間の認識の発展も可能となっていく(言語の意味を意義に解消する形而上学では文化遺産の発展的継承の過程が説けない!)のです。

 科学的弁証法を確立したエンゲルスも、以下のように、言語の意味が発展していくこと、言語は創出していくものであることを明快に述べています。


「とはいえ、われわれが読者にたいして取りのぞいておくことができなかった困難が一つある。すなわち、ある種の用語を、それらが日常生活で用いられている意味と異なるばかりでなく、普通の経済学で用いられている意味とも異なる意味に使用していることがそれである。しかしこれは避けられないことであった。科学上の新しい見地は、いずれも、その科学の術語における革命を含んでいる。」(マルクス『資本論1』編集者の序言〔英語版への〕、新日本出版社、p.41)


 こうして考えてみると、言語は人間の精神的な交通を可能にするという目的のために創出されたとはいえ、その目的を遥かに超えた大きな役割を人類史上に果たしていると言えるでしょう。言語を媒介とした認識の相互浸透なしには、人間の精神的な交通を可能とする言語なくしては、人類は文化遺産を継承することもまして発展させることも不可能だったのです。学問の発展を支えるとともに、それ自体学問であるところの科学的言語学を構築し、言語に関する諸々の問題を解決していくことこそ筆者の人生の目的です。本稿で明らかにできた問題以上の困難がこの先待ち受けていますが、この険しい道を京都弁証法認識論研究会とともに歩んでいく決意を述べて、本稿を終えたいと思います。

(了)





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最終更新日  2014年03月15日 13時36分21秒
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