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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2015年01月20日
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カテゴリ:言語学
第2章 科学・芸術・宗教

1 法則性の存在と真理の体系化

 現実の世界は無限であるが、それはもろもろの有限な存在だけから成立している。それらの有限な存在は孤立したものとして扱うべきではなく、直接的・媒介的に、他の存在と連関しているものとして扱わなければならない。このような多種多様な連関の存在、その発生・消滅について理解することは、生活の生産を維持し発展させるために欠くべからざることである。
 連関も事物の1つのありかたとして、やはり矛盾を持っているから、矛盾が存在していることを予想しながら連関をたぐっていかないと、一面的なとらえかたにおちいる危険がある。現象的な連関でも、変化しにくい密着と変化しにくい密着があること、自然的な連関は絶たれるが社会的な連関は依然として維持されることがあること、目に見える連関にむすびついている目に見えない連関をたぐって認識が深まっていくこと(因果性の追求など)、生産関係にも直接的な連関と媒介的な連関とがあること、新しい生活関係の成立が肉体的・精神的関係を生じさせたり所有関係などに影響が及んでいくこと、精神活動が脳細胞に支えられているとともに文章として維持されたり延長されたりすること、運動のありかたとしての過程は無限に存在するがそれらは有限的な過程だけから成立していること、原因は結果を媒介するだけではなく原因と結果は不可分の同一性としてつながっていることなどを理解する必要がある。
 大自然を構成するそれぞれの特殊な分野の構造や連関をとりあげて、その特殊な分野における一般的なありかたをとらえていく学問が個別科学であり、この一般的なありかたをさらに世界全体の観点からそれぞれの分野としての特殊性を持つものととらえかえし、世界全体をつらぬく一般的なありかたをとらえていく学問が論理学である。弁証法とよばれる科学は、この論理学に属し、エンゲルスは、「弁証法とは、自然・人間社会および思惟の一般的な運動=発展法則に関する科学以上のものではない。」とのべて、世界全体の観点から一般的な法則をとりあげているという性格および限界を明らかにした。
 対象の持つ構造・連関を、過程において一般的なものとしてとらえるところに法則が生れる。法則は、それぞれの対象としてとりあげた過程の中から一般的なものをとらえているのであるが、この一般的なありかたも、具体的な構造・連関の一面として、切りはなせないものとして、存在している。それで、この具体的なものと統一されている現実のありかたを法則性ともよび、法則性から認識として法則が抽象されてくると理解するのである。論理学の法則性は至るところに見受けられる存在であるから、一般大衆がその日々の生活経験を通じて身のまわりに発見することができ、それなりに定式化して役立てることができる。これがことわざで、その有用性をみなければならない。しかし、ことわざは「裏」の世界では一般的な過程の把握を行っているとはいえ、「表」の世界では特殊な分野での特殊な過程をとりあげているため、定式化は独立した断片的なものとならないわけにはいかず、体系化されていないという限界も存在するわけである。
 科学者の認識は、対象の忠実な反映が真理であるということにとどまらず、空間的にも時間的にも対象を超え経験を超えた現実の世界にひろげられ、さらに別の認識が頭の中で観念的にむすびつけられて体系化され、この体系的な認識もまた科学者の対象と経験を超えた現実の世界にひろげられていく。直接の経験を超えたところの一般的な認識がつぎつぎと頭の中で綜合され、それが真理だと主張されるようになると、素朴な反映論や素朴な真理論では扱えず、経験を超越したところの何か人間に生れつき与えられている原理があって、それが認識の客観的な妥当性を支えているようにも思えたり、不可知論とよばれる考えかたもそれなりの説得性を持って受け入れられたりしたのである。われわれの認識の能動的な冒険旅行が、常に実践ないし実験において対象との関係を維持してきたことを見逃してはならない。
 カントは、経験を超えた一般的な認識がなぜ真理であると主張しうるのかを説明しようとして、能動的に現実に向かって問いかける認識活動をとりあげた。そして、空間や時間や「純粋悟性概念」は先天的にわれわれの心にそなわっていてこれらが対象へ「投入」されると解釈したが、ここに観念論への逸脱があり、この逆立ちはやがてヘーゲル的な理論にまで押しすすめられ、その後ふたたび唯物論的にひっくりかえされるに当っては、実践に対する論理的な把握が強調されることになるのである。
 教育とよばれる対象は、認識の成長発展を計画的に押しすすめるものであるから、教育学を建設しようとする人びとは複雑な曲りくねったしかも直接つかまえることのできない存在の持つ法則性をとらえて、体系化していくという非常に困難な任務を追う。人間の認識はのぼるとくだるとの対立した過程がダイナミックに統一され、実践と媒介されているのであるから、このダイナミックな全過程をとらえなければ、認識の成長発展を計画的に押しすすめる科学的な方法をつかむことはできな。教育における討論の重要性は、精神的な交通が積極的に行われることだけでなく、各人の認識がのぼったりくだったりする移行・転化も著しいものがあることにある。庄司はここでも過渡的な表象的な段階の果たす役割に注目し、この表象の論理の意識的適用・意識的行使が成功・失敗論のかなめとなることを主張している。政治教育における煽動とは、事実ベッタリ主義でもなく体系を教えこむのでもない。具体的な事実を語りながらそこで1つないしわずかの思想を与えることである。これは表象の段階であり、認識的にくだって、さまざまな事実を思想的にとらえていくこともできれば、反対にさらにのぼって、体系的な理論すなわち宣伝を理解する方向へすすむこともできるのである。前科学的段階と科学とを連関においてとらえて、はじめて科学を真に理解することができるのである。





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最終更新日  2015年01月23日 16時07分49秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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