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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年03月26日
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カテゴリ:学一般
(4)先進的な文化を丸ごと受け入れることが頭脳活動の発展には必要である

 今回取り上げるのは、悠季真理先生による古代ギリシャの学問に関する論文である。通常の哲学史では哲学の始まりとされるタレスが取り上げられ、当時の時代背景も踏まえて古代ギリシャがオリエントから如何に学んだかの内実が説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下のとおりである。

悠季真理
古代ギリシャの学問とは何か(3)

 今回から二回にわたり、通常「哲学の祖」とされるタレスを取り上げ、この時代のギリシャはオリエントの文化をどのように学んでいたのか、そしてタレスらの実力は学問的にみて本当はいかなるレベルであったのかを論じる。

 〈目 次〉
はじめに
一、これまでの「哲学史」におけるタレスの評価
二、タレスの実力を知るために
三、タレスの生きた時代、オリエントとの関係
四、オリエントとは
五、従来の哲学史におけるオリエントとギリシャの関係についての理解とは
六、タレスと関わりのある地、イオニアとエジプト
七、オリエント文化の学びはギリシャ時代全体を通じて
(以下は次号)
八、オリエントとギリシャの実力の違いとは
九、タレスの出自とギリシャ人によるフェニキア文化の学び
十、タレスの実力とは
 (1) ミレトスの賢人=知者としてのタレス
 (2) リュディア王の軍事顧問としてのタレス
 (3) 日食の予言とそれが可能になったカルデアでの学び
 (4) リュディア王クロイソスの同盟要請の拒否
 (5) エジプトでのタレス ピラミッドの高さを測る
 (6) タレスが考えたとされる幾何の定理とは
 (7) 知者タレスの実践は、単に「知的好奇心を発揮したもの」ではない
十一、アリストテレスは“知者”たちをどう捉えていたか
十二、「自然万有の根本物質は水である」について
 (1) ヘーゲルの理解の是非
 (2) 「すべてのもののはじめは水である」とは


 本論文では、前号で確認された当時のギリシャ世界の形成史を踏まえて、通常の「哲学史」では彼からギリシャ哲学が始まるとされるタレスが取り上げられる。タレスを始めとするミレトス学派は、万物の起源を神に求めるのではなく、自然それ自体にあると考えたからであるという。しかし、万有の根本物質などというきわめて高度のものが当時のギリシャ人に考え出すことができたのか、疑問が呈されるのである。そしてこの疑問を解決するために、タレスの生きた時代の社会の実態が歴史性を踏まえて説かれていく。当時のイオニア地方は、世界文化の先進地域であるオリエントの文化の影響を極めて大きく受ける形で、長期にわたるオリエント地域との地理的、文化的一体性をもって、文化的に育まれていったと述べられ、加えて、オリエントとは現在でいうアジア全体ではなく、古代ギリシャ世界に隣接しているメソポタミアなどを漠然とさす言葉だと注意がされる。さらに、通常いわれているような古代ギリシャの学問とオリエントの文化とを切り離す論述が批判される。ここでタレスと関わりのある地として、まずタレスの生きたイオニア地方が当時としては文化的には突出した世界であったこと(とはいえ、あくまでもギリシャ世界はオリエント世界の周辺地域であること)、次にタレスはエジプトを訪れて先進的な文化を学んだことが述べられる。そして最後に、オリエント文化の学びはギリシャ時代全体を通じてなされたことが、アリストテレスの著作や出自を含めて説かれていくのである。

 本論文に関して取り上げなければならないことは、古代ギリシャとオリエントとの関係についてである。通常、古代ギリシャを学ぶ場合は、その地図としてどのようなものを思い浮かべるであろうか。おそらくはギリシャを中心として、そこに小アジアやエジプトが東側や南側に付随しているものではないだろうか。ところが、実際の当時のあり方からすれば、オリエント世界を中心に描いて、その周辺地域としてギリシャを西の端の方に描くという地図が想定されると悠季先生は説いておられる。つまり、文化のレベルとしてはオリエントが圧倒的に優位に立っており、当時のギリシャは文化的には相当遅れた辺境地域でしなかったということである。

 しかしここで問題になってくるのが、その当時のギリシャ文化の幼さであると悠季先生は述べられるのである。

「当時文化的には幼かったがゆえに、その幼いレベルでしかなかったギリシャは、突出した先進地域であるオリエントの文化を丸ごと受け取ることが可能となっていき、そしてそれを学んだ後に、オリエントの文化を内に含みつつも、それはと質的に異なったギリシャ独自の文化を見事なものとして成長させていくことが可能となっていったのである。」(p.46)


 どういうことかというと、後に古代ギリシャで学問が発祥したといわれるまでのレベルに達したその要因は、単に世界文化の中心地であったオリエント世界の周辺地域にギリシャが位置していたという地理的条件のみならず、圧倒的な文化レベルの差により、ギリシャがオリエントの文化を「丸ごと」受け入れざるを得ないほどの文化的条件にあったのだ、ということである。隣接する地域に圧倒的な文化レベルを誇るオリエントが存在したことは、常にそのオリエントの支配を受けつつも、何としてでもそうした文化レベルの高みへと辿り着きたいという強烈な憧れをギリシャに抱かせたのであり、この強烈な憧れに規定される形でオリエントの文化を「丸ごと」受け入れることが可能であったのは、ギリシャの文化が非常に幼かったがためである、ということである。

 これがもし、それほど大差のない相手が文化的に中心的な役割を担っていたとしたら、またもし、自らの文化レベルにそれなりの自負があるほどにギリシャの文化が成熟していたとしたら、素直に(?)相手のいうことを受け入れられたであろうか。ましてや「丸ごと」(=その時点での自分の立場を一切捨て去って)相手の文化を受け入れることなどできたであろうか。答えは「否!」である(当然、こうした場合においても、相手の優れた部分を自分のものとして吸収しようとすることはあったに違いないが、それは「丸ごと」という態度とは本質的に異なるものである)。そしてこの「丸ごと」ということが、頭脳活動の発展にとっては非常に重要になってくるのである。

 そもそも人間の認識というものは、外界の対象の反映たる像を大本として成立するものである。そして、その反映した像が積み重なっていって、またそこから外界の対象を反映しようとする(問いかけ的反映)のである。こうした反映の繰り返しの上の繰り返し、それに重なる形での問いかけの繰り返しの上の繰り返しによって、ある対象を反映させるにしても、その人なりの反映となっていくのである。つまり、個性的反映、個性という枠組みを持った像となるのである。これが通常の大人の場合である。ところが、これが幼い子供であったのなら、個性とよべるレベルにはまだ到達していない認識であって、いわば柔軟に対象を反映させることができるのである。古代ギリシャは、当時の世界文化の中心地であるオリエントと比べればはるかに幼い文化レベルであったため、いわば大人に教えを受ける子供のように、全てを正しいものとしてオリエントの文化を学ぶことができたのであり、このことが後の学問創出につながっていったのである。

 個人の「論理能力」を向上させ学問を構築していく場合においても、以上の論理が応用できる。どういうことかというと、個性という枠組みを持った像しか形成できないまでに成熟してしまえば、外界の対象の反映がいわば固定化されてしまい、いずれこの枠組みが認識の発展の限界として作用してしまうことになるのである。ここで、圧倒的なレベルの差がある論理を学ぶ場合、オリエントの文化に対して古代ギリシャが行ったのと論理的に同様の過程を辿る必要がある。つまり、「丸ごと」受け入れる、すなわち今の自分の枠組みを否定してその学ぶべき論理に頭脳を適応させる形で自分の頭脳活動を変革していくことによって、自らを閉じ込めていた枠組みを突破する必要があるのである。「相手の優れた部分を自分のものとして吸収しようとする」レベルでは、いわば今の自分の認識を土台にして、それにプラスアルファしようとしているのであるから、自らの認識の枠組みに規定されて、大きな進展は見込めないのであるが、外界の反映を決定的に変革すべく、今の自分を棄てる覚悟で、新たな認識の枠組みを創造することこそが、特に受験勉強によって知識的な頭脳活動しか展開できない「秀才」にとっては、「論理能力の生成発展」にとっての決定的な役割を果たすことになるのである。古代ギリシャがオリエントの文化に学んだ際には、強烈な憧れに規定される形でオリエントの文化を「丸ごと」受け入れることをいわば無意識的に行ったのであるが、個人が「論理能力」を向上させようとする際には、この「丸ごと」受け入れるという過程を意図的に行っていく必要があるということである。

 歴史的=論理的な学びとはこのようなことであって、「論理能力の生成発展」をこそ目指すものであって、単なる知識の集積ではないのである。





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最終更新日  2016年03月28日 10時16分14秒
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