カテゴリ:学一般
(12)対象の運動性に着目できる論理能力=弁証法の実力を養成する必要がある
今回取り上げるのは、南郷継正先生による「学問への道」に関する講義である。ここでは、弁証法の学びの重要性、農業や武術の起源について説かれていく。 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する(本論文にはリード文はない)。 南郷継正 本論文では、新世紀を迎えたからには、志を大きく掲げ、将来に向かっての実力を培っていかなければならないことが説かれた後、南郷先生の個人の歴史が簡単に説かれる。軍人になる夢、旧制高校で学ぶ夢が断たれ、腑抜け同然の高校生活を送るうち、このままでは駄目になると思い始め、その頃出会った弁証法と、これも偶然始めた空手にのめり込んでいったというのである。弁証法で空手を、空手で弁証法を学ぶことが武道哲学・武道科学への第一歩となったということである。加えて当時は、弁証法の学びのためには一般教養科目の全部を学ぶことが大切だとして、夜遅くまで図書館で勉強したと説かれている。さらに、学んだ内容を弟子に教えるという過程をも持って、これは40数年間も続いているということである。こうした研鑽の過程で、弁証法や空手の理論的究明が進んでいき、学問とは何か、学問を創るとはどういうことか、それにはどうすればいいのかを解明するところにまで行き着いたと述べられている。そして、その学問的な実力の一端となる話として、医学と医術の区別と連関が説かれ、文化の学びや構築には弁証法の研鑽が必須であると説かれるのである。さらに、医学の頂点を極めるためには、なによりもまず人間の体を知ることが必要だとされ、病気の治療には病気そのものではなく病人を診ることから始めなければならないと説かれる。また、同じ論理を駆使して、空手を指導する場合、人間体がどの程度に仕上がっているのかを見なければならないことも説かれる。さて、ここから本題として、農学とは何のためにある学問なのか、農業はどうして生れてきたのかが説かれていく。農学とは人間の生活を豊かにするための食事とは何かから、農作物を理論的に体系化していく学問であって、農業の起源には人類が本能を失い、運動能力と思考能力を創出したこと、両手両足への分肢と頭脳の実力進化に加えるに食生活の変化が労働を創出することにつながったことが深く関わることが説かれる。さらに、このサルからヒトへの進化や労働(人類が目的意識性を持って外界に働きかけること)に関わって、空手がどうやって始まったのかの謎も解かれていく。端的には、武器や武具を用いての軍団対軍団の戦闘から、個人技としての武術が生れ、さらに道具によって鍛えられた両手・両足が存在したことが、剣が使えない場所での無刀の術としての空手の発明へとなっていったということである。 まず取り上げなければならないことは、南郷先生が農業や空手の起源について、実際にその目で見ることなど不可能であるにもかかわらず、しっかりと筋を通して説いておられることである。農業の起源に関しては、哺乳類から進化してヒトとなっていった過程を、運動能力と思考能力の創出過程を絡めながら説くことで解明しておられる。哺乳類は四足歩行であったものが、サルの段階で四足を手と足に分化させ、さらに樹上生活によって実体としての脳の実力を、認識=像が立体性を帯びることですばらしく進化させたこと、加えて多彩の食の種を摂りいれることによって、ヒトは労働を創出することが可能となったのであり、ここが農業の始まりだとされるのである。ここには、本能が失われていくこととともに、人類が無限に増え始めたことで、飢える状態が登場してきたことも背景としてあることが語られている。また、空手の始まりに関しても、生命体の歴史を辿りつつ、サルからヒトの段階に至って、両手・両足が右手・左手と右足・左足へと分化することで、脳の内実が巨大に育っていき、道具の使用も可能となる中で、武技の誕生へと至ったこと、さらには戦国時代の合戦のあり方から江戸時代における戦場のあり方の変化に触れられ、日本刀が生れ出てきたことが説かれつつ、個人としての闘いにおいては、個人のとしての認識=心が大きな問題として浮上してきて、ここから剣法が華やかに発展していったと説かれるのである。加えて、道具の使用により両手・両足が鍛えられたことと、剣が使えない、剣がない場所での闘いに対応するために、空手の技が1つまた1つと工夫され発明されていったのだと述べられるのである。 ここには見事な「論理能力」が現れているといえる。個別具体的なことを知らなくても、「生命の歴史」の論理構造、人間とは何かの論理構造をしっかりと把握してれば、農業や空手を始め、「世界中のいかなる問題でも解くことが可能」(p.203)だということである。まさに「学問とは事実を学ぶものではなく、知識の集大成でもない」(p.205)のであって、「論理能力」を鍛え、それを駆使することによって、筋を通した展開が可能となるということのお手本が示されていると捉えるべきところである。 もう1つ確認しておきたいことは、弁証法と「論理能力」の関係についてである。南郷先生は、世界一の医学者になるための学びについて、「世界一とされている医学の中身を勉強すること」(p.202)ではなくて、「あくまでも医学を勉強できる状態にする、つまり医学を理解できるための頭脳を創ること」(同上)こそが必要だと説かれている。ここで筆者は、これは「論理能力」のことだろうと思って読み進めるのであるが、後の展開を見てみると、それはどうも「弁証法の学び」(p.203)のことであると分かってきたのである。 では、この「弁証法の学び」と「論理能力の生成発展」とは何の関係もないものであろうか。決してそんなことはないはずである。ここを少し検討してみたい。 まず確認しておかなければならないことは、そもそも弁証法とは何か、論理とは何か、ということである。端的にいえば、弁証法とは、この世界の森羅万象に貫かれている運動という性質に関する学問であって、エンゲルスにいわせれば、「弁証法とは、自然・人間社会および思惟の一般的な運動=発展法則に関する科学」であるということになる。一方、論理とは何かといえば、それは対象とする事実に共通する性質を一般性として把握したものである、ということになる。つまり、対象の運動性に着目して、その一般性を把握したものが弁証法であって、これは論理の一部ということになるのであるが、この論理なる認識にも当然弁証法性が潜んでいる、ということになるのである。対象に共通する性質を一般的に把握すれば論理だといえるし、対象の運動性に着目して一般化して把握すれば、それは弁証法だということになるのである。 このように考えてくると、この論文で説かれている「医学を理解できるための頭脳を創ること」とは、「論理能力」を鍛えることだといっても間違いではないものの、対象の運動性に特に着目できるような「論理能力」=弁証法の実力をこそ鍛える必要があるとここでは強調されているのである。そして、その弁証法を学んだ実力として、農業や空手の起源を歴史的過程において明らかにされているのである。 「弁証法が、いわば頭脳の働きと化しているレベルで技化している私には世界中のいかなる問題でも解くことが可能なのである」(同上)とあるように、我々も「論理能力」=弁証法をしっかりとものにし、世界のあらゆる問題を解ける実力を培っていかなければならないことを改めて確認したことであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年04月04日 10時44分08秒
コメント(0) | コメントを書く
[学一般] カテゴリの最新記事
|
|