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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年05月22日
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カテゴリ:言語学
(4)歴史の論理として比較言語学の誕生を捉えるとどうなるのか

 前回は、比較言語学が誕生した19世紀はどのような時代であったのか、いくつかの特徴を確認していきました。19世紀は、「理性的=自然的」という啓蒙思想の基本的な考え方が批判され、自然の秩序を人間の理性が間違いなく把握できる、体系化できるという考え方を放棄することによって、個別的な実証主義的研究、観察に基づく経験主義的な自然観へと向かった時代でした。また、ヘーゲル哲学が浸透した時代でもありました。自然も含めた全ての存在は絶対精神のそれなりのあり方であって、この絶対精神として1つに統一されたものが生成発展していく過程こそ世界歴史に他ならない、というのがヘーゲル哲学の根本的な考え方でした。合わせて、ダーウィンが説いた、適者生存の原理によって環境に適応した形質を獲得した生物種が分岐し、多様な生物種が生じるという進化論的発想が登場した時代でもあったということでした。

 さて今回は、本連載第2回の最後に触れた、19世紀当時の認識論的な実力の幼さという問題について検討していきたいと思います。この問題から、比較言語学誕生の歴史的必然性に迫っていきたいと思います。

 認識論の実力について考えるために、まずはそもそも言語とはどういうものかを考えていきましょう。現在の到達点からすれば、言語は対象から認識へ、表現へという過程的構造を背景に持った表現であって、端的にいえば、言語は認識を基盤としたものであり、認識を表現したものである、といえます。別の言葉でいえば、言語は認識を物質化したもの(表現)の一種であるといえます。では、言語と他の表現との違いは何かといえば、言語は超感性的な認識を表現するために、他の表現にはない言語規範という社会的な約束事を必要としていることが挙げられます。例えば、目の前にある万年筆を絵で表す場合には、その万年筆をよく見て、頭の中に万年筆の感性的な像を描いて、それを紙の上にそのまま表現することになります。しかし言語の場合、目の前の万年筆をいくら眺めてみたところで、その対象を言語では「万年筆」と表現するのだという社会的な約束事を知らなければ、その対象を言い表すことはできないのです。言語は対象の感性的なあり方をそのまま表現するものではなくて、対象のあり方を種類として括って、その種類として括った認識(超感性的な認識)に対して、音声や文字ではこういう形で表すのだという社会的な約束事を媒介して、はじめて表現が成立するものなのです。では、その社会的な約束事、つまり言語規範とはどのようなものかといえば、これも端的には認識のあり方の1つということになります。

 ここまでの流れを少し整理すると、言語は他の表現と同様、認識を物質化するものなのですが、他の表現とは異なって、言語規範という社会的な約束事を媒介することで、はじめて認識を外化できるものなのです。そして、その言語表現を媒介する言語規範も認識の1つのあり方として存在するものなのです。つまり、言語として表現された認識に加えて、言語規範という認識も、言語とは何かを考える際には重要となってくるのです。別の側面からいえば、認識が、言語として表現される認識と言語規範という認識とに二重化していて、これらの認識相互の関係、及びこれらの認識と言語との関係が明らかにされなければ、本当の意味で言語とは何かが解明されたとはいえないのだということです。

 ここで、古代ギリシャ時代以降、中世を経て17世紀後半のポール・ロワイヤル文法とロックの言語論へと至る言語研究の流れを見てみると、言語と認識との関係が徐々にではあるが解明されてきた歴史として言語研究史を捉えることができます。上で見てきた言語とは何かとの関連でいえば、ここまでの言語研究の流れはいわば王道を歩んできたといってもよいと思います。

 しかしここで、言語研究の流れは大きな壁に突き当たることになるのです。それは言語と大きく関連するはずの認識とは何かが、もうそれ以上、当時の認識論的な実力では解明できなかったということです。認識そのものは、目で見ることも手で触れることもできません。しかし、人間の脳に描かれた像として、確かに存在しているものではあります。こうした感性的には直接把握できない存在の性質やあり方に関して、19世紀はまだ深く解明していけるだけの学的社会的認識が育っていなかったのだということです。そこで言語研究史の流れはどのように進んでいったのかといえば、当時の歴史主義や進化論的発想を背景にして、言語の歴史を考察していく方向へと向かっていったのでした。それも、これまでの言語研究が徐々に明らかにしてきた、言語と認識との関係を一旦脇に置く形で、つまり認識とは全く関係がないものとしての言語の歴史、音韻法則という形での言語として研究していくという方向へと進んでいったのでした。そしてこうした研究の方向性は、これも当時流行していた経験主義的・実証主義的研究方法に促されて、遂には比較言語学という新たな研究方法を生み出すに至ったのでした。

 では、言語研究の流れにおいて、いわば王道から外れた形で発展していったこの比較言語学は、その後の言語研究史において何の意味もない、単なる遠回りでしかなかったのでしょうか。決してそうではありません。第1に、言語を過程として把握する視点が生じたことが挙げられます。これまでの言語研究は、「今、ここ」にある言語のみを研究対象としてきたといっても過言ではありませんでした。それが、比較言語学の誕生、発展によって、言語の生成発展過程を問うという認識が、人類に生じてきたのでした。この言語の過程を把握するという視点は、比較言語学においては言語の系統発生(類としての言語)に向けられましたが、この視点が言語の個体発生(個々具体的な言語)に向けられることによって、時枝誠記から始まる言語過程説が誕生したのだといえます。言語が歴史的にどのような変遷を辿ってきたのかという過程を見る視点が、個々具体的な言語がどのような過程で生成されるのかという視点へと媒介され、対象→認識→表現という過程的構造をもつものとしての言語という把握に至る契機となったのでした。第2に、一度徹底的に言語そのもの、つまり人間の意志とは完全に切り離されたものとしての音声のあり方だけを追求していくことで、言語を言語の物質的形態そのものだけから究明することが不可能であることが徐々に判明してきたということがいえます。端的にいえば、音韻法則だけを追求していても、言語の何たるかを解明することが不可能であることが分かってきたのです。そこで、フェルディナン・ド・ソシュールがラング(言語規範)に着目したように、再び認識に焦点を当てた言語研究が発展してくこととなったのです。





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最終更新日  2016年05月22日 18時18分30秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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