2016/12/18(日)06:28
2016年の紅葉狩り(4)~信貴山・朝護孫子寺の紅葉と2本の巨樹
樹齢1500年!
聖徳太子生誕の100年前に芽を吹いたカヤの神木
時代の星霜を見つめ、今もここに立つ
新聞の「紅葉便り」も終わった12月上旬、昨年と同様にリュウちゃんの家の近所にある紅葉の名所、「信貴山・朝護孫子寺(しきさん・ちょうごそんしじ)」に行ってみました。最近、仕事で信貴山に行く機会が多くあり、新聞の「紅葉便り」と違い、まだ紅葉は「見頃」であることを自分の目で確認していたのです。
それと、今年のリュウちゃんの紅葉狩りのもう一つの目的、「巨樹探訪」の一環としまして、「信貴山の2本の巨樹」を改めて観たいと思ったからです。
昨年は約2時間掛けて徒歩で行ったのですが、今年は午後から女房殿の運転する車の助手席に乗って信貴山に登りました。
リュウちゃんの家から、「信貴山・朝護孫子寺の駐車場まで約20分
今回はおにぎり弁当・缶ビール持参無し(少し残念)、
「信貴山・朝護孫子寺」は伝承によれば聖徳太子が推古2年(594年)に創建したとされていますが、確実な史実では、平安中期の延喜2年(902年)、醍醐天皇が「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから、「朝護孫子寺」の名称が付けられたとされています。戦国時代には木沢長政によって信貴山山頂に「信貴山城」が築かれましたが、天正5年(1577年)、「信貴山城」(城主:松永久秀)は織田信長によって攻められ滅亡、その際、「朝護孫子寺」も焼失しまさいたが、豊臣秀頼によって再建されました。
現在見られる「本堂」などの伽藍は全て江戸時代以降に建てられたもののようです。
以下にネットから拾った「信貴山・朝護孫子寺の案内図」を貼り付けます。下図で朝護孫子寺の紅葉の見所は、(1)入り口の「世界一の大寅」の手前の「納経所」の裏手、「剱鎧護法堂」に至る赤い鳥居の並ぶ辺り、(2)「千手院」の左側、「十三重石塔」の周囲、の二か所です。ここの紅葉は「本堂」に続く参道から俯瞰した眺めも絶景なのです。
下の写真は、上記(1)の「納経所」付近の紅葉、ちょっと淋しいですね。
朝護孫子寺のシンボル、「世界一の大寅」です。福寅の頭上に「本堂」が見えます。
ここは朝護孫子寺定番のビュースポット、
大寅はいつも微笑ましい!
「大寅」を通り過ぎて、「赤門」から「本堂」に続く参道の右側は「一面の紅葉の世界」です。
少し「見頃」を過ぎているようだが
まだまだ充分に「見頃」だ!
十三重石塔の辺りから「本堂」の石段を上ります。
この辺りから観る紅葉も中々素晴らしい。
下の写真は、舞台造りの「本堂」の上で撮りました。この「本堂」からの眺めは絶品で広く大和平野が一望出来るのです。
京都の清水寺、奈良・桜井市の長谷寺、朝護孫子寺は
リュウちゃんの「三大舞台」なのだ!
舞台からの眼下に「お堂」が見えます。
このお堂、何なのだ???
後で調べましたところ、上掲のお堂は「剱鎧護法堂(けんがいごほうどう)」、平安時代、醍醐天皇の病気平癒にご利益があったとのことで、現代でも信仰が続いているのだそうです。
今度朝護孫子寺に来る時には、「剱鎧護法堂」に行くぞ!
◎朝護孫子寺の2大巨樹(1)~千手の公孫樹(イチョウ)・仏手白果(ぶってはっか)
十三重石塔に付近に1本だけ生えているイチョウの古木です。特に「巨樹」という訳ではないのですが、今回初めてこのイチョウの近くに立てられているパネルを見て、このイチョウが全国でもたった2本しかない「仏手白果」という珍しい種類のイチョウであることが判りました。
以下、パネルの文面をそのまま文字起こし致します。
<千手の公孫樹(イチョウ)・仏手白果(ぶってはっか):樹齢500年>
木の枝ぶりが千手観音の手に似て、又、銀杏の形が仏の合掌される両手に似ているところから千手の公孫樹、仏手白果と名づけられた。中国産の品種で、日本では宮崎高千穂の岩戸神社の境内にある一本だけとされていたが、昭和58年7月、学者により偶然発見された。日本で2番目の極めて珍しい巨木である。
◎朝護孫子寺の2大巨樹(2)~「朝護孫子寺」の神木、樹齢1500年の榧(かや)の木、
榧はイチイ科カヤ属の常緑針葉樹、日本では最高級の碁盤・将棋盤の材として珍重されています。
歌好きリュウちゃんにとりましては、以下の「かやの木山の」という歌曲で親しい樹木なのです。
歌曲「かやの木山の」(詞:北原白秋、曲:山田耕作)
https://www.youtube.com/watch?v=wu1kYr_STBU
かやの木山のかやの実は
いつかこぼれて拾われて
山家(やまが)のお婆さはいろり端
粗朶焚き柴焚き燈(あかり)つけ
かやの実かやの実それ爆ぜた
こんやも雨だろ もう寝よ眠よ
お猿が啼くだで 早よお眠よ
フォトブック「奈良の巨樹たち」によりますと、この神木は
樹齢:1500年、
樹高:24m、
幹周:4,0m
この神木の下に、下記の文面の紹介文が記されていました。
<神木 榧(かや)の木、樹齢1500年>
今を去る1500年の昔、日本の国は氏族制度で蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るために争っていた時代である。
時にこの地に一粒の榧(かや)の実から若芽が誕生したのである。それはこの榧の木であった。
それから百年後、蘇我馬子は仏教の普及に努力せんとしたが、物部守屋はこれに反対し、双方の対立抗争はついに長く苦しい激戦となった。
この時、聖徳太子は守屋討伐のため、自ら陣頭に立ってこの地に進み毘沙門天を感得され、そのご加護で物部軍を降伏させ、日本の仏教の栄える礎を築かれたのである。
以来、樹齢1500年の神木榧の木は世の有為転変を語らんとするや、ひたすら黙して語らず。
う~ん、幹周4メートルは「巨樹」とは言い難いが、
樹齢1500歳の貫禄は圧倒的だ!
最後の写真は、榧の神木の近くにある聖徳太子像です。この像は「長崎平和記念像」で有名な彫刻家・北村西望により制作されました。
朝護孫子寺の聖徳太子像と長崎平和記念像は兄弟だったのだ!