2021/11/06(土)20:43
秋篠寺から平城山(ならやま)へ~奈良市の「歴史の道」散策(上)
奈良市北西部にある「佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)」、奈良市は巨大古墳のメッカなのだ!
(五社神古墳(ごさしこふん)、神功皇后陵)
(ヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后・磐之媛命陵)
10月17日、奈良市の北西部にある「歴史の道」を歩いてきました。以下に、この日歩いた「歴史の道」を順に書いてみます。
近鉄西大寺駅(スタート)~秋篠寺~神功皇后陵~成務天皇陵・日葉酢媛命陵~平城宮跡~磐之媛命陵~コナベ古墳~ウワナベ古墳~JR奈良駅(ゴール)
以下の「図」の左半分が、リュウちゃんがこの日に辿った道筋です。
(佐紀盾列古墳群)
例に寄りまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時に家を出発、スタート地点の「近鉄西大寺駅」に到着したのは9時15分でした。
<秋篠寺>
9時30分、秋篠寺の東門から境内に入りました。門前の楓、少し色づいていました。
秋篠寺は、奈良随一の「苔の寺」です。境内の半分くらいは、柔らかい苔に覆われています。
人っ子一人居ない静寂に包まれた苔の絨毯、ここだけ時間が停まっているようだ。
苔の絨毯の中に「歌碑」が立っていました。
この歌碑、読めそうで読めない!誰の歌碑なのだろう?
拝観料500円を払って境内に入ります。下の写真は国宝の本堂です。
秋篠寺は宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により創建されたとされています。延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の57回忌が秋篠寺で行われたようで、天皇家とも深い関係があった寺なのです。
秋篠寺の古像の中では、特に「伎芸天立像」(重要文化財)が有名です。伎芸天は、シヴァ神の髪の生え際から生まれた「天女」で、容姿端麗で器楽技芸が堪能だったため、音楽・芸能の神として信仰を集めているようです。古像としては日本に一つしかない秋篠寺の伎芸天は「東洋のミューズ」と呼ばれ、人気を集めています。
(伎芸天)
1990年(平成2年)、礼宮文仁親王と川嶋紀子様が結婚され、文仁親王は「秋篠宮文仁親王」となり、紀子様は、「文仁親王妃紀子」様となりました。
この結婚により「秋篠宮家」が創設されたのですが、「秋篠宮家」という宮号は、秋篠寺に由来しているのだそうです。
文仁親王が紀子様と結婚され「秋篠宮」となった時、紀子様が「秋篠寺の伎芸天に似ている」と話題になったことがありました。
上掲の「伎芸天」と下掲の「紀子様」似ている(かな?)
(紀子様)
先般、秋篠宮ご夫妻の長女:眞子様が民間人の小室 圭氏と結婚され、皇籍を離脱し、民間人・小室眞子さんとなりました。
小室 圭さん、眞子さん、結婚おめでとうございます。末長くお幸せに!
10時過ぎに秋篠寺を出て次の目的地である神功皇后陵に向かいました。
下の写真で、池の向こう側の低い山並みの一番右側あたりが神功皇后陵の筈ですが、その前に確認したい場所がありますので、ちょっと迂回して行くことにしました。
稲刈りが終わった田んぼの際に、キバナコスモスが咲いていました。
<唳禽荘(れいきんそう)>
神功皇后陵に行く前に、ちょっと寄り道して行ってみたかった所とは、日本画家・上村淳之(あつし)氏のアトリエである「唳禽荘」です。
リュウちゃんが「唳禽荘」の場所を知りたいと思ったのは、昨年10月に、以下のブログを更新した時からなのです。 <奈良市「松柏美術館」で上村松園の美人画を観る>
⤴
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上村淳之の祖母・上村松園は、昭和20年に京都から奈良市山稜町にある敷地約1万坪もある「唳禽荘」に、いずれも日本画家である息子の上村 松篁、孫の上村淳之と共に移り住み、母・息子・孫の三代のアトリエとしました。
この広大なアトリエに1000羽以上もの鳥を飼うようになり、「唳禽荘」と呼ばれるようになったのは、息子の松篁の代になってからのようです。
松篁が2001年に98歳で死去してからは、「唳禽荘」は松篁の息子・淳之のアトリエとなり、淳之は更に鳥の数を増やすと共に、「唳禽荘」に「日本鳥類保護連盟奈良研究所」を設け、ここの所長に就任しています。
淳之は「花鳥画」の中でも、特に「鳥の日本画」を専門としています。以下に2点だけ、淳之の「鳥の日本画」を貼り付けます。
(双鶴)
(早春)
神功皇后陵に向かう道の丘陵の住宅に、長い石垣を見つけました。
地図で知った場所から考えると、ここが「唳禽荘」のようだ?
長い石垣の向こうに霞む山並みは、生駒山系です。
見つけました!「唳禽荘」の玄関。
若し、「唳禽荘」が一般に公開されていれば、立ち寄って1500羽の鳥たちと戯れようと思ったのですが、上掲の玄関はあくまでも「個人のアトリエ」でしたので、場所を確認したことに満足し、神功皇后陵への道を急いだのでした。
若し「唳禽荘」が一般に公開される機会があれば、是非、行って見たい!
<神功皇后陵>
「唳禽荘」から10分くらい歩きますと、左前方に神功皇后陵が見えてきました。
神功皇后陵は、石畳の階段を上ったところにあります。
神功皇后陵は全長275mの巨大な前方後円墳です。
以下の、<古墳の大きさランキング>に拠れば、神功皇后陵は12位に入っています。
<古墳の大きさランキング(日本全国版)>
上掲のサイトには、ベスト40位まで掲載されていますが、本日リュウちゃんが散策した「佐紀盾列古墳群」には、
(13位)ウワナベ古墳(255m)、(24位)ヒシアゲ古墳(磐之媛陵)(219m)、(26位)成務天皇陵(218m)、(32位)日葉酢媛陵(207m)、(34位)コナベ古墳(204m)
と、神功皇后陵を含め、6基もの200mを超える巨大古墳があるのです。
神功皇后は、戦前の歴史教科書のスターでした。「熊襲征伐」、「三韓征伐」など、「戦う女帝」としてのイメージが戦前に教育を受けた人の心の中には定着していたと想像されます。戦後、神功皇后は実在自体が問題になり、歴史教科書から消えてしまいました。現在では「実在説」と「非実在説」が混在しており、「神功皇后=卑弥呼説」、「神功皇后=斉明天皇説」などがあるようです。
(神功皇后・歌川国芳作)
神功皇后は、明治の初め、初めて発行された「政府紙幣」の肖像に採用された人物なのです。
明治維新で初めて発行された紙幣、肖像は女性の神功皇后だったのだ!
(明治11年に発行された1円紙幣)
上掲の紙幣は額面1円札ですが、ほぼ同時に、同じ神功皇后の肖像画が入った、「5円札」、「10円札」が発行されました。
この肖像画は、明治初期にイタリアから来日した画家・版画家、エドアルド・キヨッソーネによって作成されたため、西洋風の女性像になっているのです。
尚、キヨッソーネは、他に「西郷隆盛の肖像」、「明治天皇の肖像」などを描きました。
日本人の中に定着している
「西郷隆盛」のイメージは、キヨッソーネの肖像画に由来しているのだ!
(キヨッソーネの西郷隆盛の肖像画)
<山陵(みささぎ)八幡神社>
神功皇后陵から少し歩いた所にある神社です。主神は神功皇后、この神社の神功皇后は「武運」と「安産の神」なのだそうです。
<福松大神>
山稜八幡神社の隣にある小さなお稲荷さんです。
小さい割には、朱い鳥居が印象的だ!京都の伏見稲荷の
ミニチュアだ。
<成務天皇陵:日葉酢媛(ひはすひめ)陵>
神功皇后陵を後にして、次の陵に向かいます。「歴史街道」沿いに近鉄奈良線の踏切を渡ります。
踏切を渡り、古い家並みの小道を左側を上ると、そこは成務天皇陵と日葉酢媛陵の間を通る整備された小道が続いているのです。
上掲の写真で、右側の森が「成務天皇陵」(全長218m、全国26位の前方後円墳)、左側の森が「日葉酢媛陵」(全長207m、全コカ第32位の前方後円墳)です。
2つの巨大古墳の間を縫うように貫く整備された小道、奈良市内にあるとは思えないほどの静閑な環境なのだ。
ここで「佐紀盾列古墳群の西側」の空中写真をウィキペディアからお借りして貼り付けます。
(佐紀盾列古墳群の西側)
上掲の空中写真で、左上の大きな前方後円墳が「神功皇后陵」です。左下から右上に走る道路のように見えるのは近鉄京都線の線路です(線路の左下には、「平城(へいじょう)駅」があります)。写真右下の2つ並んだ前方後円墳の左側が「成務天皇陵」、右側が「日葉酢媛陵」です。一番下の逆L字型に折れ曲がった古墳は、第48代「称徳天皇(女帝)陵」で、全長127mの中型の変形前方後円墳なのです。
下の写真の右側が「成務天皇陵」、左側が「称徳天皇陵」です。2つの陵の間に見える山並みは「生駒山」なのです。
「成務天皇陵」の正面です。
通説では実在性の低い第13代成務天皇、真実は古墳の中に隠れている?
尚、「日葉酢媛」は第11代「垂仁天皇」の2番目の皇后とされていますが、垂仁天皇の実在性自体が疑問視されていますので、当然、彼女の実在性も疑わしいようです。<山上(やまがみ)八幡神社>
「日葉酢媛陵」の正面の前にある神社です。社殿の奥に見える大木は、豊臣秀吉が天正19年(1591年)、朝鮮出兵に際し、そいの成功を祈り、手植えした由緒ある「杉の神木」なのだそうです。
「神功皇后陵」から、ここまで辿ってきた古墳は、皆、「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」に含まれています。この古墳群の名称は、古代奈良の「佐紀の地」に由来するようですが、「佐紀の地」は現在の「奈良市佐紀町」の筈です。
なのでリュウちゃんは、これまで辿ってきた古墳はすべて佐紀町にあるものと思っていたのですが、実は、全て「山陵(みささぎ)町」にあったのですね。
ここまでの古墳群の名称、「山陵(みささぎ)盾列古墳群」と変えたほうが判り易い!
尚、「盾列(たてなみ)」とは、この古墳群に含まれる古墳が全て巨大な前方後円墳なので、上から見ますと、「盾」のような形で、列をなして並んでいるように見えるところから付けられた名称なのだそうです。
「山上八幡宮」を出て、次の目的地である平城宮跡に向かいます。
あれ、もう正午だ!よし!「プファ~、ビールが旨い!」は、平城宮跡でやることにしよう!
(以下、「秋篠寺から平城山(ならやま)へ~奈良市の「歴史の道」散策(下)」に続きます)