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カテゴリ:奈良散策
人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき 古へも夫(つま)に恋ひつつ越えしとふ 平城山(ならやま)の路に涙おとしぬ (北見志保子:「平城山」) <ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)> <秋篠寺から平城山(ならやま)へ~奈良市の「歴史の道」散策(上)の続きです> 山上(やまがみ)八幡神社」から、近鉄西大寺駅前を経由して、平城宮跡に向かいました。 午後1時ジャスト、道の右前方に、平城宮跡の「大極殿(だいごくでん)」が見えてきました。 「大極殿」の裏の入口から殿内に入ります(入場無料) 「大極殿」は天皇の即位や外国使節との面会など、国の最も重要な儀式に使われた宮殿です。 <鴟尾(しび)のレプリカ> 大極殿の屋根の大棟(一番上)の両端に付けられた飾りの一種です。 鴟尾は大体、「鯱(シャチ)」(頭は虎、姿は魚という空想上の動物)の形が多いのですが、この鴟尾の形は鯱を抽象化したような造形になっています(高さ2m)。 尚、鴟尾は「火除け」の意味があったそうです。 <高御座(たかみくら)> 国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。平城宮の高御座の構造や意匠の記録はありませんので、京都御所の紫宸殿に常設されている大正天皇即位の時に作られた高御座を参考にして作られたのだそうです。 <日本画家・上村淳之の壁画> 「高御座」の上部の壁には、前回のブログで紹介しました日本画家・上村淳之(あつし)の「四神」と「十二支」の壁画が描かれています。 壁画は全36面、上村淳之76歳~77歳の時の作品です。 大作とは云えないが見事な壁画、 大極殿が続く限り、 壁画も永遠に残るのだ! (「白虎」を描く上村淳之) 「大極殿」の南側は、壁のない開放された空間です。 南西側には、金剛山系の山並みが見渡せます。 真南には「朱雀大路」が通っていて、以前には「朱雀門」が一望出来たのですが、今は大極殿と朱雀門の間に、「南門」を新しく造成工事中でした。 東側には、隣接して「第2次大極殿跡地」があり、その向こうに「若草山」が迫っているのです。 午後1時30分、造成工事中の「南門」の近くの休憩所で遅い昼食、 プファ~、ビールが旨い! 抜けるような青空、秋爛漫だ! <第2次大極殿> 午後2時。遅い昼食を終え、「大極殿」の東隣りにある「第2次大極殿跡地」に立ち寄りました。 <第1次大極殿と第2次大極殿> 平城宮跡には、「第1次大極殿」と、「第2次大極殿」の2つの「大極殿」があったのです。何故、大極殿が2つもあったかといいますと、聖武天皇は在位中の740年から745年にかけて「第1次平城京」~「恭仁(くに)京(京都府木津川市)」~「難波京(大阪市)」~「紫香楽(しがらき)京(滋賀県甲賀市)」~「第2次平城京」と、5回も遷都したため、遷都前と遷都後の平城京の場所がずれたのです。現在では、遷都前の大極殿を「第1次大極殿」、遷都後の大極殿を「第2次大極殿」と呼んでいます。 「第1次大極殿」は再建されたが、 「第2次大極殿」は再建されるのかな? <平城山(ならやま)へ> 「大極殿」の北側の小道を北東に実かいますと、そこは「平城山(ならやま)」です。 奈良市に、 「平城山」という名前の 「山」があるの? と、リュウちゃんも以前は思っていたのですが、実際の平城山は「山」ではなく、平地から80m位標高の高い「丘陵」で、正式には「平城山丘陵」なのだそうです。 今回の散策の目的地、 「磐之媛命陵」、「コナベ古墳」、 「ウワナベ古墳」は、 皆、「平城山」にあるのだ! <八上(ハジカミ)池> 「平城山」の入口にある大きい池です。池の中央に2つの小さな島があり、水鳥の休憩場所になっています。 池の名前の由来は、奈良時代にこの辺りに住んでいた土師(はじ)氏(古墳の埴輪を制作した一族)から来ているようです。 八上池の傍に立つ「歴史之道」の碑です。 リュウちゃんは右の矢印の「磐之媛(いわのひめ)陵」に向かいます。 リュウちゃんにとりましては、上掲の「歴史之道」の石碑から「平城山」が始まるのです。石碑から「磐之媛陵」までは、奈良市内にあるとは思えないほどの「田舎の山里」なのです。 <佐紀盾列古墳群の東端の空中写真> 以下にリュウちゃんがこれから散策する「佐紀盾列(たてなみ)古墳群」の東端の空中写真をウィキペディアからお借りして貼り付けます。 上掲の写真で、左下の長方形で囲われたところが「平城宮跡」です。 写真の最上部にある前方後円墳が「磐之媛(いわのひめ)陵」とされている「ヒシアゲ古墳」(全長219m)、その斜め右下の前方後円墳は「コナベ古墳」(全長204m)、コナベ古墳の右横の池の中にある前方後円墳が「ウワナベ古墳」(全長255m)です。 「コナベ古墳」の右側にある台形上の大きな「池」は、奈良市最大のため池である「水上(みずかみ)池」です。周囲1,5kmの「水上池」は、日本書紀によれば、奈良時代のずっと以前に造られ、奈良時代には「奈良の水瓶」だったようです。 写真の上から下までS字型に貫く道路は「国道24号線」で、写真上部は京都へ、下部は和歌山に通じています。 写真下部を左から右下に貫いているのは「近鉄奈良線」で、右端の途切れた先には「近鉄奈良駅」がある奈良市の中心部なのです。 <磐之媛(いわのひめ)陵> これまで辿って着た小道の右横に、更に整備された小道が続いています。 この小道が 「磐之媛竜」の正面に出る道なのだ! 通常の天皇陵の正面には、こんな風情のある長い道はありません。道の脇の池には、水連らしい水草が浮いています。 また、道の両脇には、松や針葉樹が整然と植えられているのです。 「磐之媛竜」の正面に出ました。 ここは、 平井庚三郎の名歌曲「平城山(ならやま)」 が生まれた「聖地」なのだ! <歌曲「平城山」> 先ず、以下に貼り付けた2つのYou-Tubeをクリックして聴いてみて下さい この歌、60年前、リュウちゃんが高校に入学し、混声合唱部に入り、初めて歌った「懐かしい歌」なのです。以後、リュウちゃんの心の中で、「屈指の名曲」として定着しました。 最近、地元の公民館で「歌声クラブ」を指導していますが、ここでもこの歌を採り上げ、歌っているのです。 詞として採り上げられた短歌は、高知県宿毛(すくも)市出身の女流歌人・北見志保子です。 ここで、このブログの冒頭に掲げた北見志保子の短歌2首を改めて以下に貼り付けます。 人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき (現代語訳)「人を恋することは哀しいものだと平城山を巡りながらつくづく感じ、耐え難い思いがした」。「もとほり来つつ」の「もとほり」は古語の「もとほる」の連用形で、「廻る、巡る、さまよう」の意です。 古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ越えしとふ 平城山(ならやま)の路に涙おとしぬ (現代語訳)「昔の人も恋焦がれつつ越えたという平城山の道で、私は涙を落した」 「夫(つま)」はここでは夫(おっと)のことです。「越へしとふ」の「とふ」は、「~という」の意味になります。「古へも」の「昔の人」は、「磐之媛」のことです。 磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后として難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の近鉄上本町駅付近)の宮中に住んでいましたが、ある時、磐之媛が宮中を留守にしていた間に、仁徳天皇は異母妹の「八田皇女(やたのひめみこ)」を宮中に迎えます。これみ激しく嫉妬した磐之媛は以後、宮中には二度と戻らす、平城山に近い「筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅付近、後に第26代継体天皇が皇居にした所)に移り、同地で没したのです。「筒城宮」に移った後も、仁徳天皇への思慕は変わらず、しばしば。生駒山(生駒山の向こう仁徳天皇の住んでいる難波高津宮があります)の見える平城山に通ったようです。 北見志保子は明治18年生まれ、一時は与謝野晶子と並び称せられる歌人だったようです。大正2年に同郷の歌人・橋田東声と結構しますが、結婚後7年目の大正9年、夫の東声の弟子で、12歳年下の慶応大学生・浜 忠次郎と恋に落ちてしまいます。それを知った浜家では、二人の縁を断ち切るべく、忠次郎をフランスに留学させてしまいます。 北見志保子は恋人の浜 忠次郎がフランス留学中の大正9年に磐之媛陵を訪れ、この短歌を詠んだようです 。 最初の「人恋うは~」の歌は、フランスに留学してしまった浜 忠次郎へのせつない想いを、「古へも~」は、自らの境遇を、仁徳天皇を慕う磐之媛になぞらえて詠んだものであると思われます。 昭和10年に作曲された平井庚三郎の曲も、北見志保子の心情を余すところなくメロディにしていて、「永遠の名曲」だとリュウちゃんは思っているのです。 (筒城宮を訪問した北見志保子) <水上池> 「磐之媛陵」から、「水上池」を一周しました。 池の畔の民家の庭には、様々な秋の花が咲いていました。 池の周囲の1,5kmの小道は、「奈良市民の散歩道」として良く整備されていて、快適な散策になりました。 <コナベ古墳> 「水上池」の隣にある「コナベ古墳」も一周しました。 「コナベ古墳」は奈良市法華寺町にある全長204mの巨大前方後円墳です。 上掲の写真でお分かりのように、四方を池に囲まれていて、まるで「離れ小島」です。天皇陵には必ずある「拝所」らしきものは無く、正式参拝は出来ないようです。 「コナベ古墳」は誰の墓所なのか? ウィキペディアによりますと、以前は「磐之媛」の陵に治定(じじょう)されていたようですが、現在、「磐之媛陵」は、前述した「ヒシアゲ古墳」に治定されていますので、「コナベ古墳」は、「磐之媛募陵参考地」に治定されているようです。 (※)「天皇陵の治定」:「治定(じじょう)」とは、天皇陵を推定することです。 現在、その陵が明らかにその天皇陵であると確実視されているのは、平城京に遷都した第43代・元明天皇(女帝)以降の天皇だけで、前方後円墳のような巨大古墳時代の天皇陵は、殆ど特定されていません。 幕末の尊王攘夷、明治の王政復古により、天皇陵の特定が必要になり、当時の宮内省により天皇陵の特定が進められましたが、巨大古墳は墓誌もなく、文献による証拠は何一つありません。なので、8世紀に書かれた「古事記」、「日本書紀」などの記述を手掛かりに、特定しようとしたのが、現在は「天皇陵の治定」なのです。 「治定」は「確定」ではなく、あくまでも「推定」の域を出ないものですから、様々な新しい証拠により、「治定」を覆す事例が続出しているのです。 磐之媛は墓所が2つある!??? 「ヒシアゲ古墳」と「コナベ古墳」、 どちらが本当の墓所なのだ? それとも、両方とも本当の墓所ではないのか? 謎は深まるばかりなのだ! <ウワナベ古墳> 奈良市法華寺町にある「ウワナベ古墳」は「コナベ古墳」と「航空自衛隊幹部候補生学校」を間に挟んだ東側にあります。本ブログ(上)では、「ウワナベ古墳の全長を255mで、全国第13位の巨大前方後円墳」だと紹介しましたが、「ウワナベ古墳」のウィキペディアに拠りますと、「2020年11月に再計測の結果、全長は約280m」と修正されたようです。 全長280mの巨大前項後円墳、 これは「佐紀盾列古墳群」では、 「神功皇后陵」よりも大きい古墳なのだ! 「ウワナベ古墳」も「コナベ古墳と同じように、池の真ん中にあり「離れ小島」なのです。 「ウワナベ古墳」の被葬者は誰なのか? ウィキペディアに拠りますと、 「仁徳天皇の皇后である八田皇女(やたのひめみこ)の陵墓参考地として治定されている」とのこと、 八田皇女といえば、磐之媛に代わって 難波高津宮の仁徳天皇の皇后 になった女性の筈だ! 何故、磐之媛の陵の近くに陵があるのか? 摩訶不思議??? としか言い様がない! もう一つ、ダメ押しの疑問、 前回のブログで「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」に含まれる6基の巨大古墳の内、「神功皇后陵」、「成務天皇陵」、「日葉酢媛陵」の3基は「佐紀町」ではなく、「山陵(みささぎ)町」にあると書きましたが、今回書きました三つの古墳の内、佐紀町にあるのは「磐之媛陵」ただ1基、「ウワナベ古墳」「コナベ古墳」は「奈良市法華町」にあることが判りました。 「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」 にある6基の巨大古墳の内、 奈良市佐紀町のある古墳は。 「磐之媛陵」ただ1基のみなのだ??? これも摩訶不思議??? としか言い様がありませんね。 もう午後4時を過ぎた。 そろそろ帰ろう。 ちょっと疲れましたので、「ウワナベ古墳」のすぐ近くにある定期バスに乗ろうかと思いましたが、やはりJR奈良駅まで歩いて帰りました。 午後5時ジャストにJR奈良駅到着、 朝9時15分に近鉄「西大寺」駅を出発してから、途中、30分の昼食休憩を除いては、7時間余の「歩きっぱなし」の散策旅でした。 家に帰ってから、腰に付けた万歩計を見ましたところ、 歩数は49222歩! 惜しい! もう少しで5万歩だったのに、 ーーーーーーーーーー <特報> 藤井聡太3冠、将棋界最高のタイトル、 竜王位を獲得、4冠になる! (竜王戦第4局で勝利した直後の藤井4冠) 11月13日夕方、藤井聡太3冠が豊島将之竜王に勝利し、将棋界のタイトル「竜王」を獲得、これにより「4冠」となり、将棋界の序列第1位になりました。 リュウちゃんはこの対局をずっとアベマTV将棋チャンネルのライブ中継で観ていたのですが、終局間近の、もう豊島竜王が「投了」するしかないという場面の藤井3冠の表情に注目しました。 もうすぐ「竜王」になるというのに、 何たる沈痛で、 今にも泣き出しそうな表情なのだ! 上掲の写真はデイリースポーツ紙に掲載されたものですが、この写真は、豊島竜王が投了した瞬間の藤井3冠ですね。 まるで号泣寸前。 こんな悲痛な表情をした 勝者を見るのは初めてだ! この悲痛な表情が何を意味するのか? これは藤井4冠本人にしか判らないことですが、リュウちゃんは藤井4冠の人間的な成長を、この表情から感じ取ったのでした。 明けて最高の14日の記者会見には、前日の沈痛な表情とは打って変わって、爽やかな表情で臨みました。 昇竜・藤井聡太4冠、 これからも異次元の活躍を
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