|
カテゴリ:写遊人 (写真機は覗き箱)
冬の臭いがしはじめた。それは少し苦い気がする。 だから世界が色を付けてその苦さや痛みから身を守ろうとしているんだ。木々は色づき始め、淡い紅色から真紅の深さになり、やがて朽ち果てる。 こんな時は、やたらと元気張らずに、ベンチにでも腰掛け、エッセイでも読んでいるに限る。最もそんな暇があればなんだが。 Nikon D90 にTamron 90mmマクロを付けて気楽な散歩に出かけた。11月23日の祝日の午後だった。タムロンの90mmマクロは時にはNikkorをしのぐと僕は思っている。最もこの90mmに限ってのことだが。これは昔東京でカメラマンをやっていた従兄弟の受け売りでしかないけれど。 画質が柔らかく、それでいて芯がありボケ味が絶妙・・・と言うのが受け売りの言葉だ。確かに独特な画質感がある。だけど他のマクロレンズと同じくピントの芯がつかみ難い。AFだが、ほとんど何mmの世界なのでマニュアルで使っている。 「ピンキーレッド」 「腐食」 写真に対してそんなにマニヤックじゃないなと自己評価しながら写真を撮った。構図に凝らない、題材に凝らない、ましてや風景やポートレートやとジャンルに全く凝らない。むしろ写真など好きでも何でも無いんじゃないかと思うくらいだ。 ただ好みのレンズがあったり、自分の見たものと同じとは言わないけれど、心が共鳴するものが写りこんでしまう時、写真の深さに惹かれてしまう時がある。だからやめられない。 こんな、初冬の休日にアジアの隣国で暴挙が起きた。 北朝鮮から韓国領土(島)に砲弾が100発以上も打ち込まれ兵士や民間人が死亡した。憂国の時が真近に迫っている気持ちが胸を突いた。かつて僕の父の時代に日本は戦争をした。アジア諸国に進攻し、多くの戦争の残酷さを傷跡として残し、世界で唯一の原子爆弾の犠牲を払い今の僕らの平和が保たれている。 閉ざされたものはやがて、その重い錠が解き放たれ全てを知る時がくるだろう。 ミャンマーも中国もそして北朝鮮も、そこに住む僕と同じ普通の国民(市民=自由な人)が物言う市民として生活できればその国の未来は明るいだろう。たとえどんなに貧しくとも。 どんな富を手にした人だって死んでしまったら、三途の川を渡る六文銭しかいらないって昔ばあちゃんに言われた。 平和で幸せに暮らせるための少しばかりのお金があれば充分だ。秋に艶やかな紅葉を見せる木々もやがては厳冬に腐食した葉を落とし裸になって北風に耐えるのだから。 「閉ざされる」 「赤い血脈」 「冬支度」 写真を撮って暇つぶしをしているようで、木々の色付きは実は自然を肌で感じることなんだって、ちょっとだけ感傷的な気持ちになった。木々が毎年この光景を繰り返すように、僕たちも年をとっている。去年と同じだと感じているのは、僕の(人間の)独りよがりの傲慢でしかない。 振りかえった時、僕には確かに生きて来たと言う足跡がはっきりとあるだろうか?ふと、疑問に思って後を振りかえる。 恋愛に心を焦がした日々や、友情を振り回して友達と大喧嘩したこともあった。どれもこれも記念写真のように懐かしい。 いつも100%、フルスロットルでは生きては行けやしない。時には、立ち止まり振り返りも必要だ。僕らは幸せと悲しみの狭間に生きている。良いことばかりがある訳じゃないけど、それでもたまに写りこむ写真の中で優しい顔をしている自分に安心したりする。きっと、これからも「良いこと」だってあるさ、って気になってくる。 名も無きオータム・イエローの世界が、数え切れない色々な思いがずーっと心の中で1本の糸になって続いているって分かる。きっとそれが僕の生き方を支えている。時々はへこたれるけれど。 「足跡」 「バルブ」 「狭間」 「オータム・イエロー」 木々に命の水が必要なように、大地には雨が、そして人には「信じられるもの」が必要だ。 銀杏の木下に沢山の銀杏の実が落ちていた。初めて知ったのだけれど、銀杏の木には雄・雌があってどの木も結実する訳じゃない。漠然と植えられている銀杏並木にだって自然の「生きる」ための切ない世代交代がすぐそこにある。 だけどこの銀杏の実の臭いだけは言葉にし難い。・・・の臭いとそっくりだから。普段やらない銀杏集めをやってコンビニの袋いっぱいに持って帰ったが、お陰で一日中体臭のように・・・・臭くてマイッタ!!!!! 「ウォーターカーテン」 「どんぐり」 「名も知らぬ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.11.26 02:51:59
コメント(0) | コメントを書く
[写遊人 (写真機は覗き箱)] カテゴリの最新記事
|