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カテゴリ:写遊人 (写真機は覗き箱)
銀タテは兵庫県に住んでいます。この兵庫とはどんな由来があるだろうと時々思う。源氏の世から「明石」や「須磨」の地名は使われており、土地柄としては長い悠久の歴史を持っている。実際、JRでは神戸駅の手前(西方)が兵庫駅だ。ちゃんと地名にある。 ただ、この兵庫、由来によると、その昔須磨の関を守るためにこの地に武器庫「兵庫(つわものぐら)」が置かれたことに始まっているらしい。 兵庫には実のところ余り降りたことがありません。随分昔の予備校時代に好きだった女の子を近くの神戸電鉄の駅まで送って、自分はこの兵庫駅に歩いてたどり着くこと数回。その程度の利用数でしかない。だから、兵庫ったって何も知らない。 駅を降りて歩いてみると、神戸の一駅手前(西側)なのに、やたらと落ち着いた住宅街って感じだ。ここから港の方へ歩く。どこからとも無く汐の香りが漂う。 実は、兵庫に行ったのは1月9日の土曜日で、近くに有名な「えべっさん」(十日戎)があるからと言う誘いにつられてやって来ました。何せ銀タテは祭好きであり、縁日が一杯出て人が一杯いるとつい嬉しくなってしまう性格だ。 駅前から縁日の出店が並んでいる。この近くに柳原えびす神社ってのがあって、そこが結構繁盛しているとのこと。えべっさんやから繁盛してるのが一番。 海に突き当たるところに神戸中央市場がある。今日はあいにく休みと言うことで、見学は・・・と係りのおじさんは渋ったが、雰囲気だけ写真を撮らせてもらいたいと関西人の図々しさで無理やり入ってしまう。実は銀タテ、仕事の関係で2度ほど来た事がある。普段は競が終わってからでも人が一杯で商談などで活況を呈しているが、さすがに今日はガランとして廃工場のようだった。 海辺を歩いているとなぜかホッとする。それは僕が山人でないことの証しだ。 海には不思議な引力があって、それは自分たちが、太古の昔、魚であったことへの回帰かも知れない。長い年月の果てに、僕はたまたま人間になった。そして岡に上がり衣類をまとい、普段は糧を得るために土地を耕す代わりにサラリーマンをやっている。まあ、社会の荒波を泳いでいる分には魚と大差は無いようにも思うが。 柳原えびすはなるほどスゴイ盛況ぶりだった。僕は夢中でシャッターを切った。カメラを持てば多勢の群集の視線など敵ではない。この人群れの圧倒観を何とか写真に撮りたいと思ってやまない。結局、僕は人が撮りたい。その人々が生きている証しのようなものを映像にしたい。 その大衆の中に自分を見つけたい。カメラを構えて自分が写るはずは無いが、自分もより多くのものの一つである事実を写しこみたい。 写真で面白いのは、過去と未来、現実と空想、活況と閑居、雑然と均整、漠然と集中、日常と非凡など。その中にある相容れぬ対比が相乗に写りこんだもの、それが写真だと感じている。 だから、写真はそのまま写るだけで、それ自体相当にエフェクトされているんだ。それが当たり前に見えてしまうのは、人の持つ論理的視力によるものだ。 空っぽの感じ方で写真を撮る時、常識以上のスーパーフォトになるやも知れないのだ。 夕暮れて、神戸モザイクで沢山の若いカップルに囲まれながらロマンチックな気分に浸った。と言っても、彼らを見ているだけか、「ちょっと写真お願いできますか」とカメラを渡されるぐらいのものだが、「あんな頃もあったよなあ」とちょいと思い出し笑いになったりする。 イルミネーションと潮風の中で、随分と人恋しくなった。 ◎ここをクリック◎ デジブック《Around Hyougo》 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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