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2006年09月09日
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カテゴリ:戦国 島津家
大変ご無沙汰しております、くまです。
いつも気にはしていたのですが、母の病状を少しでも改善させようと、転院、そこで、なんども窒息しかけて死にかけたりしたので、一日仕事前の朝・終わったあと夕と2回通院して、気管にはいったチューブの痰を取ってました。そこでも、母の病状は正しく理解してもらえずでしたが、リハビリスタッフの進言と母がタイミングよく気管チューブを抜いてくれたおかげでその後も問題起こらず、見事に口呼吸となり、そこからとんとん拍子にリハビリ・嚥下機能の改善が見られ、食事もしっかり口で食べられるようになり、経鼻胃管もぬけ、歩く練習までできるようになり、また、しゃべれるようになりました。んま、リハビリの先生はちっとも信じてはいないようでしたが。
話してみると、ここ2-3年の記憶がとんでいるようで、また、現状認識にややかけるところがありますし、一晩寝ると前の日のことは忘れてしまっていますが、それでも、反応があるのはちょっとうれしいですが、ちょっと複雑な気分ではあります。
そんなこんなで、母は、4ヶ月前と比較すると信じられないほどよくなりました。
あとは、しっかりと話ができればなおよいのですが、、、、

よくなる過程が、うちの11ヶ月になる子の成長とダブっているので、なんとなく人間の進歩ってみんなおんなじなのかもなあと思ってみたりしてます。

というわけで、この4ヶ月の報告をいたしました。
全く更新しないにもかかわらず、多数の皆様に閲覧いただきありがとうございました。
そして多くの方に励ましのお言葉をいただき大変感謝しております。
自分はまだまだ不足するところの多いものですがこれからもよろしくお願いします。
また、鹿児島日記は、すでに旅行してから1年以上過ぎてしまって大変申し訳ございません。
でも、やはりこの旅行は自分にとって印象深かったのか日記は書き留めていなかったのですが、結構まだよく内容を覚えていたりします。あの町は歴史好きにはなにか強く引かれるものがいっぱい隠されているように思います。

ということで、一応無謀と思いながら続きを書きます。
郷中教育のなかで広められた戦国島津家の家祖・島津忠良公のひろめたいろは歌について書くというお話でした。
島津家は、鎌倉時代から代々続く薩摩・大隈・日向の守護職の家系ですが、この忠良公は、伊作地方の分家9代目で、領土も少なかった上に、3歳のときに父親を家臣に殺され、同年祖父も内紛に巻き込まれ戦死と一家の大黒柱を失っています。しかし、母親が有力な地方豪族・新納(にいろ)氏の聡明な娘で、常盤夫人といいますが、忠良公の聡明さに伊作島津家の未来をかけ、伊作の名僧の誉れの高い頼増和尚にあずけ、四書五経・朱子学を学び、その後の人生に実戦していくことになります。また、その母は、容姿もすばらしく、近隣の有力大名相州家の島津運久(ゆきひさ)と再婚、子供がなかったため、忠良がようしとなり、同地域に善政をしいたところから運が開けてきます。島津本家の勝久公に子供のないこと、周囲の有力大名のプレッシャーがつよいことから評判のよい忠良公に声がかかり、忠良公の子・貴久公が当時の鹿児島の本拠地清水城に入場、しかし、これを不服とする薩州家 実久公の激しい反抗と、離間の計で裏切った勝久公との激しい一族の争いに発展するのですが、子供の貴久公・そして孫の義久公・義弘公・歳久公・家久公らの一族および家臣の一致団結した努力でこの困難を乗り越えていきます。
こうした争いの一方で、高僧・舜田・舜有と交わりさらに学を深めるともに、鹿児島の福昌寺の修復を行い、保護しています。忠良公は早くから隠居・晩年は士民・青少年の教育に力を入れたそうですが、それが、ゆくゆくは明治維新へとつながっていくわけですから、そう考えると、非常に先進的な大名だったのかも・・と思えたりもしています。
いろは歌についてですが、いくつかあげると、
○いにしえの道を聞きても唱えてもわがおこないに せずばかなし
  →偉人の教えをならったことは実践しなさい
○はかなくも明日の命を頼むかな、今日も今日もと学びをばせで
  →明日に仕事を伸ばさず今日のうちにできることはやっときなさい
○理も法もたたぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の 行くにまかすな
  →たとえどんなに世がみだれても、流されずに人としてただしいおこないをしなさい
○礼するは人にするかは人をまた さぐるは人を さぐるものかは
  人に礼をつくすのは、ひとのためだけではない、人をさげすむのは、自分もみさげているから謙虚に礼儀正しくすること
○回向には我と人とを隔つなよ 看経(かんさん)はよし してもせずとも
  →敵味方に分かれて戦ったあいては分け隔てなく冥福を祈りなさい(実際島津家は、戦場の使者を敵味方すべてかならず供養しています)
○少しきを 足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなき 十六夜の月
  →何事も欲を出さずにほどほどに満足を。満月も翌日にはかけてきます。欲深くしないようにしなさい

どうでしょうか、これは一部ですが、どれもこれも現代につうずるものではないでしょうか?
みんながこんな行いなら、戦争もなくなりそうなもんですが・・・

次回は薩摩特有の剣法・2つのジゲン流についてかきます。





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最終更新日  2006年09月10日 01時01分32秒
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