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カテゴリ:怒・恐怖
最初は911のこと、考え始めました。もう5年も経ったんですね。
911テロ事件自体の恐ろしさ、現在も心理的にも物理的にもなおその影響が大きいことを考えました。911の後は、やはり地下鉄に乗るのが怖かったのに、いつのまにか恐怖心は薄れています。(当時は通勤していたので。そういえば、オウム事件の時もそうでした。不安のあまり気分が悪くなって途中下車した覚えがあります)。 そしてまた、その後の経緯や劣化ウラン弾の使用について。それからテロに至る歴史、アメリカが中東で行ってきたことについて。 そしたら、イギリスでのテロ、スペインでのテロ、東南アジアではしょっちゅう起こるらしい自爆テロ、広島・長崎、ドレスデン、大東亜共栄圏という思想、アメリカ大陸発展とその後、インカ帝国と ・・・思考がとまらなくなってしまいました。 ここで、なにか議論らしい文章を書けるほど、知識も思考能力もありません。 「戦争が終わって生まれた僕ら」であり、実母、実叔父が国民学校で集団疎開に行ったり、祖母が東京の井戸端で戦闘機から機銃掃射を受け、かろうじて一命をとりとめた話を、身近な人間の話として聞いたことがあるくらいです。 そういう私が、ジェット機と高層ビルを使用したテロ、劣化ウランを使用した攻撃、どちらも容認できません、方法として別の方法をとりましょうよ、と言うのは、おそらく簡単なことなのだろうと思います。でもそう言いたい。難しいです。911テロの被害者遺族関係者が、派兵に反対した報道も印象に残っています。それから当時、市民レベルでの対話や活動が、インターネットを通して、それまでとは比べ物にならないくらい早く有効に機能していく様子も、門外漢ながら感じ取れました。 「戦争」や「侵略」「テロ」と聞くと、個人レベルで生きるための闘争が、集団化したレベルでは、まるでそれ自体が意思をもつ怪物になるかのような感覚を覚えます。集約されたベクトルがゆがんでまったく独自の方向をむいているかのような。「でっかいものに利用されるのは、怖いなあ」と思います。どこまでも個人的な話になっちゃう私みたいな間抜けは、「でっかい」と思わせるノウハウをよく知っている集団に、利用されちゃうんだろうなあ。。。(/_;)。まあ、でも機会あるごとにこうやって考えたり、いろんな人の話を聞くことで、もしかしたら何かできる瞬間にできるとか、流されちゃいけない瞬間が分かったりするかもしれない。。。なんて思ったりもします。 願わくば「いってらっしゃい」と送り出した笑顔に「おかえりなさい」とまた会える幸せが、羽化するセミを応援できる幸せが、近所の飼い犬や野良猫と目と目で会話できる幸せが、できるだけ長く続きますように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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