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☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ありがとうございます。今日もすべてに感謝します。 世界中のすべての方が幸せにありますように! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆ 2020年 令和2年 5・17(日) 平重衡の墓をお参りする 姫野です。 今日京都は昨日の雨も上がり 気持ちのよい晴れの一日でした。 ど~も、いかがお過ごしでしょうか。 京都はコロナ騒動もかなり落ち着き、暖かく なりました。 今日は冬物のコートのクリーニング出し をしました(2800円)。 しばらく丼物をいただいてなかったので 昼は吉野家で牛丼と豚汁(740円)をいただき ました。 好天なので、散歩がてら自転車で近くの 平重衡(しげひら)のお墓をお参りしました。 僕は小栗栖に引っ越してからもう何度か お参りしています。 なぜ醍醐に平重衡のお墓があるのか? もうだいぶ以前にも書いたのですが 僕は平重衡と奥さんの藤原輔子(ふじわらすけこ) が好きなのです。 といっても、平家物語にある物語から 想像するだけなのですが、短くも深く愛し合った 理想の夫婦だっただろうと感じます。 それで、 今日は少しだけその話を共有しましょう。 今から約800年前のお話になります。 平重衡(1156-1185)は清盛の三男です。 29年の生涯です。 南都焼討で大仏殿を燃やし悪名が高いです。 1180年清盛の命令で、南都の僧兵の鎮圧に 出かけます。東大寺上の奈良入口の般若坂での 戦いは長引き夜戦になりました。 近くの民家に火をつけて、明かりとします。 その火が、折からの強風にあおられて どんどん燃え広がり南都炎上となり 東大寺・興福寺など一帯は焼け落ちました。 大仏の首もこのとき焼けました。 その後、重衡は一の谷の合戦で捕虜となり 鎌倉に送られます。 奈良の衆徒から、鎌倉に「重衡を引き渡せ、 自分たちの手で重衡の首をはねないと 怒りが収まらない」ということで 執拗な要求があり、奈良の勢力も味方に つけておきたい鎌倉幕府としては 引き渡すことに致しました。 そして、木津川のほとりで斬首され 首は般若坂にさらされました。 さて 前置きはが長くなりました。 重衡は清盛の子供の中では、文武に秀で 笛・謡・舞いも上手で戦も優れていました。 仲間にも評判がよく、人気があり結婚相手もいわば より取り見取りの立場でした。 しかし、重衡は身分の低めの輔子を選びました。 僕の想像ですが、多分重衡が輔子を見初めた のだと思います。 平家の没落、戦乱の中で 夫婦は深く愛し合っていたという想いがします。 輔子は、安徳天皇の乳母をしていました。 1185年壇ノ浦の戦いで、高倉天皇・建礼門院・阿波内侍 とともに輔子は入水、しかし源氏に助けられ その後、日野(醍醐)の姉のもとで暮らしていました。 そう、重衡の墓のあるこの場所、 この日野(醍醐)の地に重衡を想いつつ、 輔子は暮らしていたのです。 つづく… ではでは 愛を込めて! 姫野 修一郎(Himeno Shuichiro) ana38655@nifty.com 今日も笑顔でニコッとね。 何であれ、そこに愛が流れてこそ はじめてこころから楽しくなります。 幸せはごく自然な あなたの命の本来の属性です。 姫野修一郎のブログ「ただあるがままに」 http://siawase1.at.webry.info/ ご意見・ご感想などはこちら
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Last updated
2020.05.17 23:17:34
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