伯州住秀春の研究【其の四】一雲斎銘について
過日、伯州住秀春の事績について三回に亘ってこのブログに記載しましたが、一雲斎銘については、如何なる理由でこの号を切りつけたのか良く判らないまま書き綴っていました。今年に入って、刀の値段の推移を少し調べてみようと過去の通販誌を開いて見ていた所、思いがけない銘を発見しました。刀剣の通販誌としては一番古い刀剣柴田の麗ですが、東京の大丸店に於いて夏、冬年二回の展示即売会をもう30年以上開催しています。先月発行の現存の優品が69号ですから正確には34年半と言うことになります。其の第6号昭和53年夏の販売目録に下記のような三人合作の押形が掲載されていました。この押形を見て、何故秀春が一雲斎銘を切ったのかその疑問が氷解しました。秀春の師匠は、出羽出身の【山本嘉伝次秀直】であることは過去にも記載しましたが、この秀直が一時期一雲斎と名乗っていた事がこの押形により判明しました。伯州住秀春は師匠の号を継承し、名乗りに一雲斎を冠して切銘を行なっているのであります。弟子が師匠の号を継承する事はさして珍しい事ではなく、同系統を指し示す指針ともなります。現在でも、宮口一貫斎繁寿の流れを引く刀工が一貫斎銘を踏襲して、茎に一貫斎銘を冠して切銘を行なっています。この刀が造られた天保15年【1844年】は秀春23歳の時で、未だ郷里で野鍛冶修行に明け暮れていた時期と重なります。銘の最初に刻された【川部水寒子行秀】は、解説にも記されているように、川部を姓としているところから水心子正秀の血縁につながる刀工と思慮される。水心子の子息【貞秀】が一時期【水寒子貞秀】と銘している事から、この貞秀との関係が窺われるのである。水寒子貞秀が、父水心子の号を譲られたのが文政2年【1819年】であるから、行秀が水寒子の号を切ったのは文政2年以降と察せられる。水寒子貞秀には美須と言う娘がいたと伝えられているが、ひょっとして行秀はこの娘に婿入りしたのではないか、等と想像は膨らむのだが・・・・ 飛躍しすぎだろうか。名鑑には水寒子行秀の記載が無く、正義、直胤の弟子として【武蔵国住水翁子行秀】が記載されているが、実際には水心子正秀、水寒子貞秀に関係が深いのではないかとも思える。次の【白石一流斎正俊】もこのままでは名鑑に記載は無いが、やはり正義、直胤に師事した【野州鹿沼住正俊】ではないかと推測している。山本嘉伝次秀直は、【水正子美濃之介秀直】のほかに、自称なのか任官したのか筑前大掾をも銘に刻している。師匠直胤が筑前大掾、後に美濃介を受領していたことは良く知られているが、秀直も同じ様に筑前大掾、美濃之介を銘に刻している。直胤が筑前大掾を受領したのは文政4~5年頃【1821~1822年】、美濃介に転じたのは嘉永元年【1848年】で、安政4年【1857年】5月27日、79歳の天寿を全うして没している。秀直が師匠と同じ筑前大掾、美濃介を称したということは、直胤に最も信頼された門人と推測できるのであって、直胤晩年には代作も行なっていたであろう事は充分に考えられるのである。とすれば、この時期秀直が江戸在住していた事は容易に察せられるので、過日伯州住秀春の研究で、江戸修行の時期を安政3年【1856年】から文久元年【1861年】と推測したが、伯州秀春がこの同じ時期江戸に出て秀直に師事したとしても特に矛盾は無い。更にこの秀直が、一雲斎を称していた事が判明した事で、伊勢に一雲斎秀春と銘する同名刀工がいたことを思い起こした。全くの同銘であることから、つい最近まで同人であろうとされていたが、現在でははっきりと別人である事が確認されています。参考までに伯州住秀春と伊勢の秀春の押形をアップしますが、銘字を見ても別人である事は一目瞭然です。下の写真は伯州住秀春の一雲斎銘です。過去、【水生子美濃之介秀直神邦宮川以流水鍛之】嘉永二年期【1849年】の刀をこのブログに記載しましたが、この期秀直が伊勢に駐槌していたとすれば、伊勢の神都住秀春が秀直に師事し、一雲斎の号と秀の字を許されたと仮定しても矛盾しないのではないかと思い至ったのです。伊勢の秀春をもう少し詳しく述べれば、本名、神内喜一(こうちきいち)伊勢神宮 宮掌大内人(くじょうおおうちんど)という役職で、建物ご造営用の金具製作の担当であったようです。其の余暇に刀剣などを鍛えていた様子ですが、江戸の著名鍛冶が駐槌したその機会に指導を仰いだのではないか、と想像をたくましくしたとしても無理はないように思えます。全く関係のない刀工が、一雲斎秀春と号も銘も全く同じと言うことは、一寸考えにくいとは常々思っていましたが、師匠の山本嘉伝次秀直を介して繋がっているとすれば納得出来るのである。そう考えれば伊勢の秀春は伯州住秀春の兄弟子と言うことになるのだが・・只、秀の字を与え同銘秀春を名乗らせることについては少し疑問もあるが、伊勢と伯耆では、当時においては千里の隔たりとも憶える程の距離ですから、あまり頓着しなかったのかもしれません。(同じ江戸で同銘を名乗ると言うのなら無理があるかもしれませんが・・)たった一枚の押形で一つの事実が判明し、絡み合った糸がほどけ、想像は大きく膨らみ、思いもよらなかったことまでが繋がってくるような気がしています。いずれにしても、疑問に思っていたことが瓢箪から駒の様に一つ判明した事が喜ばしい限りです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1月26日 追記助広と秀春の地鉄写真をアップしてみます。極めて類似していることがお判りになるかと思います。比べてみると、秀春は印賀鋼を使用したと伝えていますが、助広も同じ印賀鋼を使ったのではないかとさえ思わしめられる地鉄です。上が助広、下の二枚が秀春です。中の秀春の地鉄の白い筋はごみが写りこんだ物です。刃紋の匂口は違います。助広は小沸深い出来ですが、秀春は匂口締り心で小沸がついています。研ぎは参振りとも近年同じ人に依頼しています。