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キングのいうとおり、ことばは愛情のもつ機能を
ぶちこわしにしてしまうんだなあ。 ある種の高みにあること、尊いことって、 なんでも直接いえそうなものなんだけど、 でも直接言うと、その本質がことばから逃げていくような 気がする。 ある種の高みにあることというのは、たとえば音楽をかなでるだとか、 文章を使うなら、ぼやかして言ったり(比喩だったり、たとえだったり)するしか ないんだなあ。 つまり、ことばそのもの、道具としてのことばというのは わりとそんなにもともと高いところにあるものでもないんだな。 とか思った。 たとえば新興宗教というのは、そういう大事なこと、直接言うとすべて ぶちこわしになってしまうことを全部しているような気がする。 言わないことが重要というよりも、その本質というのが そういう性質のものだからだろう。 たとえば、あの物語が、あの宗教がバックボーンになっていますよ、 というのはものすごく簡単なのだが、それをするとすべてぶちこわしになる、 それを言わないためにあの長さになっている、 で、その宗教をベースにしているのだろうけど、 ほんとうはそんなこだわることではなくて、 よくよくじっとながめると、すべての尊いことに通じている・・ ということだと思う、そして、すべての本質というのは あるところにあって、すべての宗教はその地域の文化ごとによる 解釈という気がしてならない。だから、作者は、あるキーを読み取って、 ああいう話になっただろうけど、作者のなかでぐっと突きとめていった 結果、自然とものがたりがそういうふうに 解釈できるようになっていった、という感じがする。 だから、宗教間の紛争というのはほんとうは神様にはぜんぜん関係ない、 そういう風に思う。 ということを、プラトンもいってるんだってさ。 カーク教授によれば。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.04.20 23:43:17
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